第9話:不発の記念日

第9話:不発の記念日


十二月二十二日。暦の上では、一年のうちで最も夜が長くなる冬至だった。 野上誠二は、最寄りの駅ビルにあるコンビニのレジに立っていた。カゴの中には、いつも飲んでいる発泡酒ではなく、金色に輝くプレミアムビールが二本、場違いな誇らしさを湛えて並んでいる。


「袋、いりますか」 「……ああ、いや。このままでいい」


誠二は、わずかに震える手で千円札を差し出した。 今日は、四十回目の結婚記念日だった。世間ではルビー婚式などと呼ぶらしいが、この家には赤い宝石も、それを祝うシャンパングラスも存在しない。ただ、今日がその日であることを、誠二の脳髄は呪いのように記憶していた。


帰宅すると、玄関には既に澄子の靴が揃っていた。 リビングに入ると、そこには見慣れない光景があった。テーブルの澄子の「エリア」に、デパートの包装紙に包まれた小さな折り詰めが置かれている。誠二がコートを脱ぐ音を聞いて、澄子がキッチンから出てきた。


「おかえりなさい。……そのビール、どうしたの」 澄子の視線が、誠二の手元の金色の缶に落ちた。 「ああ、これか。たまには、いいかと思ってな。……今日は、その、二十二日だろう?」


誠二は、喉まで出かかった「結婚記念日」という言葉を飲み込んだ。それを口にすることは、完成されたこの家の静寂を、不潔な指で汚すような気がしたからだ。


「そうね。冬至だもの。かぼちゃを煮ておいたわよ。あなたの分も、冷蔵庫に」 「……そうか。ありがとう」


澄子は、誠二が買ったビールを祝うことも、その意図を問うこともしない。彼女は無言で、自分のために買ってきた一人前の特上握り寿司を皿に移し替えた。中トロ、イカ、ウニ。宝石のように並んだネタは、二人の関係とは対極にある「鮮度」を放っている。


「……お前、それは」 「デパ地下で安くなっていたのよ。一人で食べるには贅沢だけど、たまにはいいでしょう」


澄子は、誠二に勧めることはしなかった。 誠二は、自分のエリアに置かれた冷えたかぼちゃの煮物と、昨日買ったコンビニの冷やしうどんを取り出した。 二人は席に着く。 テレビからは、年末特番のバラエティ番組が、暴力的なまでの音量で笑い声を垂れ流していた。


「あはは、これ面白いわね」 澄子が、感情の死んだ声で呟く。 「ああ。今の芸人の動き、なかなか器用だな」 誠二も、画面の中の騒動に目を固定したまま、無理やり口角を上げた。


テレビから流れる録音された笑い声。それが、この食卓を支配する「真空」を塗り潰す唯一の防音壁だった。もしテレビを消してしまったら、二人の間に流れる「もう何も話すことがない」という残酷な真実が、呼吸を止めるほどの重圧となって襲いかかってくるだろう。


「おめでとう」とも、「ありがとう」とも言わない。 「これからもよろしく」なんて言葉は、もはや皮肉ですらない。 二人はただ、それぞれのタイミングで箸を動かし、それぞれの味覚を、それぞれの孤独の中で処理していく。


誠二は、金色のビール缶のタブを引いた。「プシュッ」という小気味よい音が、一瞬だけ四十年前の披露宴で聞いた栓抜きの音と重なった。 一口飲む。 高いビールのはずなのに、喉を通る液体は驚くほど苦く、鉄のような味がした。


「……澄子。来年の今頃は、何を、しているかな」


誠二が、我慢できずにこぼした。 澄子は、ウニの軍艦巻きを口に運ぼうとした手を止めた。 「……何をしているって。今と同じじゃないかしら。あなたがいて、私がいて。お互いの陣地を守りながら、死を待つだけ。それ以外に何かあるの?」


「……そうか。そうだな」 「期待しないで、誠二さん。四十年前の私たちと今の私たちは、もう違う生き物なのよ。脱皮した後の抜け殻を、いつまでも本物の蝶だと思い込まないで」


澄子は、最後の一貫を食べ終えると、冷たく言い放った。 「あ、そうだわ。クローゼットの整理をしていたら、あんなものが出てきたの。……不気味だから、あなたが捨てておいて」


澄子が指差した先。 リビングの隅に、埃を被った紙袋が置かれていた。 誠二は、重い腰を上げてそれを覗き込んだ。


中に入っていたのは、一対のスリッパだった。 上質な革で作られた、深みのあるボルドーとネイビー。 十年前、三十周年の真珠婚式の際、誠二が「これからは家で過ごす時間を大切にしよう」という願いを込めて、銀座の老舗で誂えたものだ。


だが、あの年を境に、二人の会話は急速に枯渇していった。 結局、そのスリッパは一度も箱から出されることなく、クローゼットの暗闇に葬られていたのだ。


誠二は、ネイビーのスリッパを手に取った。 革の匂いが、まだ微かに残っている。 一度も履かれなかったそれは、十年の歳月を経てもなお、新品のまま、そこにあった。 「……これ、高かったんだぞ。お前、一度も足を通さなかったな」


「そうね。履く理由がなかったもの。あなたの用意した靴を履いて、この家の中を歩き回るなんて、監視されているようで息が詰まりそうだったから」


澄子は、自分の足を隠すようにスリッパの中で指を丸めた。 「そのスリッパには、あなたの『理想の妻』の押し付けが詰まっているのよ。私には重すぎたわ」


誠二は、手に持ったスリッパを、じっと見つめた。 それは、彼が最後に差し出した「白旗」だったのかもしれない。 「やり直そう」という言葉の代わりに贈った、共歩の象徴。 それが今、ただの「捨てにくい不燃ゴミ」として、彼の目の前にある。


「……捨てておくよ」


誠二は、スリッパを紙袋に戻した。 指先に触れた冷たい革の感触が、自分の心臓に直接触れられたようで痛かった。


テレビの中では、タレントたちがケーキを投げ合い、最高潮の盛り上がりを見せている。 その明るい光が、二人の老いた顔を代わる代わる照らし出す。


「……ねえ、誠二さん」 「なんだ」 「ビール、一本残っているわね。……私が飲んでもいい?」


誠二は驚いて顔を上げた。澄子が酒を欲しがるのは珍しい。 「ああ、構わないが。……珍しいな」 「一気にお腹に入れたら、早く眠れる気がするの。……今日という日が、早く終わってほしいから」


澄子は、誠二の手から金色の缶を奪うように取ると、グラスも使わずに口をつけた。 喉を鳴らして飲む彼女の横顔に、誠二は一瞬だけ、かつて同じグラスで乾杯した頃の彼女の残影を見た。 だが、飲み終えた彼女の目は、やはり冷たい硝子のままだった。


「……ご馳走様。おやすみなさい」


澄子は、自分の寿司の空き箱をゴミ箱へ叩き込むと、一度も振り返らずに寝室へ向かった。 リビングには、バラエティ番組の不自然な笑い声と、半分残った誠二のビールだけが残された。


誠二は、暗がりのソファに深く沈み込んだ。 四十年前の今日。 誓い合った言葉のどれ一つとして、今のこの部屋には残っていない。 残っているのは、捨て時を逸したペアのスリッパと、お互いの存在を無視し続けるための高度な技術だけだ。


窓の外では、雪が降り始めていた。 音もなく降り積もる白銀の世界が、すべてを覆い隠していく。 二人の真空地帯もまた、明日の朝にはさらなる沈黙に塗り潰されているのだろう。


誠二は、ぬるくなったビールを一気に飲み干した。 胸の奥で、何かが不発に終わった火薬のように、湿った音を立てて消えた。


「……ルビー婚、か」


独り言は、テレビの笑い声に掻き消され、誰の記憶にも残らなかった。 クローゼットの奥で、一度も歩むことのなかった二人の足音が、今も静かに埃に埋もれている。


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