第7話:沈黙のカレンダー
第7話:沈黙のカレンダー
リビングの壁には、二つの「時間」が、五センチの隙間を空けて並んでいる。
左側は、誠二が百円ショップで買ってきた、実用性だけが取り柄の無機質なカレンダー。右側は、澄子が選んだ、季節の花々が水彩画で描かれた上品なカレンダー。二人の間には、もはや共通の「今日」は存在しない。
誠二は、澄子が二階で掃除機をかけ始めた音を確認し、忍び足で壁際へ寄った。 彼の目的は、自分の一日の計画を立てることではない。澄子の「不在」を確認することだ。
「……十三日は、ランチ。十六日は、パッチワーク。十九日は……またランチか」
澄子のカレンダーには、端正な字で予定が書き込まれている。誠二は、彼女が「いない時間」を指でなぞる。その空白の時間こそが、誠二がこのリビングで誰に気兼ねすることなく、深々と息を吸える自由時間なのだ。
不意に、二階の掃除機の音が止まった。誠二は慌てて自分のカレンダーを見つめるふりをした。 階段を降りてきた澄子が、氷のような視線を背中に突き刺す。
「人の予定を覗き見するのは、趣味が悪いわよ。誠二さん」 「……いや、自分のゴルフの予定を確認していただけだ」 「ゴルフ? 十三日に行くのね。助かるわ。その日はリビングのワックスがけをしようと思っていたから。あなたがいないほうが捗るもの」
澄子は、誠二のカレンダーをゴミでも見るように一瞥した。 「あなたの予定表、空白だらけで不気味ね。まるで、余命を数えているみたい」 「……余計なお世話だ」 「ええ、本当に余計なお世話だわ。お互い、いつ、どこで、誰と何をしていようが、干渉しない。それが私たちのルールでしょう?」
澄子は、自分のカレンダーに「二十三日:観劇」と、わざとらしく大きく書き込んだ。 誠二は、そのペンが紙を擦る音さえ、自分を拒絶する音に聞こえた。
「なあ、澄子。二十八日は、何か予定があるのか。特には書いていないようだが」 「二十八日? 何かあったかしら」 「……真理の誕生日だろう。昔は、家族で食事に行ったりしたじゃないか」
澄子は、ペンを置いた。 「真理はもう、自分の家庭を持っているわ。親がしゃしゃり出る幕じゃない。それに、私とあなたが向かい合って、お祝いなんて滑稽だと思わない? 乾杯の音頭でも取るつもり? 『仮面夫婦四十年、おめでとう』って」
澄子の口角が、嘲笑を浮かべて僅かに上がった。 誠二は何も言い返せず、視線を落とした。カレンダーの束が、風もないのに微かに揺れている。 その時、カレンダーを吊るしているフックの隙間から、一枚の古い紙の端が覗いているのに気づいた。
誠二は、それを引き抜いた。 それは、昨年のカレンダーを破り捨てた際の残骸だった。 裏返されたその紙の余白には、びっしりと鉛筆で文字が書き込まれている。
「……これは、おふくろの葬儀の時の……」
誠二の手が、微かに震えた。 一年前、誠二の母が亡くなった際、澄子が電話口で聞き取った葬儀の段取りメモだ。 『斎場:14時』『香典返しの数』『誠二さんの喪服、クリーニングから戻る日』。
そこには、今の冷徹な澄子からは想像もつかないほど、必死に誠二の親族としての体面を守ろうとした痕跡があった。 「……澄子。お前、この時、寝ないで手伝ってくれたよな。親戚の誰が何を食べられないかまで、全部メモして……」
誠二がメモを差し出すと、澄子はそれを一瞥し、すぐに視線を逸らした。 「捨て忘れただけよ。見せないで」 「でも、お前のおかげで、俺は喪主を全うできたんだ。あの時、お前がいてくれて本当に良かったと……」
「やめて!」 澄子の声が、鋭く空間を切り裂いた。 「感謝なんて、今さらしないで。あの時は、嫁としての義務を果たしただけ。そこに感情なんてなかった。あなたの母親が死んで、やっと私の重荷が一つ減ったって、心の中で安堵していたくらいよ」
澄子の言葉は、剥き出しの刃物だった。 誠二は、メモを握りしめた。 「……嘘だ。お前、あの時、俺の隣で一緒に泣いてくれたじゃないか。あれも演技だったのか?」
「演技よ。決まっているでしょう。そうしないと、親戚中から何を言われるか分からないもの。私はただ、これ以上私の人生をあなたの一族に汚されたくなかっただけ」
澄子は、誠二の手からメモをひったくると、それを迷いなく二つに引き裂いた。 「過去のカレンダーを振り返っても、そこにあるのは死んだ時間だけよ。今の私が見ているのは、明日、あなたがいなくなった後の、真っ白で美しいカレンダーだけ」
澄子は破片をゴミ箱に捨て、冷たく言い放った。 「十三日、ゴルフには必ず行ってね。あなたが家にいると思うだけで、カレンダーの数字が澱んで見えるから」
澄子は背を向け、キッチンへと消えた。 再び換気扇の「ゴー」という音が響き始め、二人の会話を物理的に遮断する。
誠二は、独り壁の前に残された。 右側のカレンダーには、華やかな予定が埋まっていく。 左側のカレンダーには、ただ日付という名の数字が並んでいる。
誠二は、自分の指先を見た。 葬儀のメモに触れた感覚が、まだ残っている。 かつては、一つのカレンダーに「家族旅行」や「参観日」の文字が共有されていた。 同じインクで、同じ未来を信じていた。
彼は、ゴミ箱の中に落ちた、二つに裂かれたメモの欠片を見つめた。 そこには『誠二さんの喪服』という文字だけが、寂しく上を向いていた。
誠二は、自分のカレンダーの十三日の欄に、震える手で「ゴルフ」と書いた。 澄子が望む通り、その日は一日中外にいよう。 それが、今の自分にできる、唯一の「家族サービス」なのだから。
窓の外では、夕暮れが音もなく忍び寄っていた。 カレンダーの真っ白な余白が、雪原のように冷たく、どこまでも広がっている。 二人の時間は、もう二度と、一枚の紙の上に重なることはない。
冷蔵庫のコンプレッサーが、また唸り声を上げた。 それは、沈黙という名の予定を、一秒ずつ刻み続ける装置の音だった。
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