第6話:看病の不在

第6話:看病の不在


午前二時。冬の夜の底は、すべての音を鋭く研ぎ澄ます。 野上誠二は、喉を掻きむしるような衝動に突き動かされ、跳ね起きた。


「……ッ、ゴホッ! ゲホッ、ゲホッ!」


肺の奥からせり上がる濁った熱が、気道を塞ぐ。誠二は布団にしがみつき、必死に背中を丸めた。パーテーション一枚を隔てた隣のブース。そこには、澄子が眠っている。 咳を一つするたびに、寝室を二分する本棚が微かに震える。誠二は口を枕に押し当て、音を殺そうとした。だが、発作は止まらない。肋骨が折れるのではないかと思うほどの衝撃が、静寂を暴力的に切り裂いていく。


本棚の向こう側で、衣擦れの音がした。 澄子が寝返りを打ったのだ。彼女は起きている。この密室で、この距離で、この激しい咳が聞こえないはずがない。


(……澄子)


誠二は、心の中でその名を呼んだ。 かつて、彼が熱を出した夜。澄子は冷たいタオルを何度も替え、枕元で「大丈夫? 無理しないで」と、細い指で彼の額を撫でてくれた。あの時の彼女の指の冷たさと、まなざしの温もりを、誠二は高熱の混濁した意識の中で、溺れる者が藁を掴むように思い返していた。


だが、本棚の向こうからは、何の言葉も、足音も聞こえてこない。 澄子は、ただ静かに「待っている」のだ。この耳障りな騒音が止み、再び「無」という名の平穏が訪れるのを。


誠二は、ふらつく足取りでリビングへ向かった。 暗い廊下を這うように歩き、キッチンで水道水を喉に流し込む。水は剃刀のように喉を切り裂いた。鏡に映った自分の顔は、病と孤独に侵され、幽霊のように青白い。 結局、その夜、寝室のパーテーションが動くことはなかった。


翌朝。八時。 誠二が重い体を引きずってリビングへ出ると、そこにはすでに澄子の姿はなかった。 ただ、ダイニングテーブルの、誠二のエリアの真ん中に、ぽつんと「箱」が置かれていた。


それは、薬局で買ったばかりの風邪薬の箱だった。 そしてその横には、無造作に折られた千円札が一枚。


「……なんだ、これは」


誠二は、熱でぼやける視界を凝らしてそれを見つめた。 足音がして、澄子が着替えを終えて入ってくる。彼女は誠二の顔を見ることなく、パッチワーク教室へ行くためのバッグを整え始めた。


「昨夜、うるさかったわよ。眠れなくて困ったわ」 澄子の声は、朝の冷気よりも乾燥していた。 「……ああ。すまなかった。風邪を引いたらしい」 「薬、そこに置いておいたわ。九百八十円だったから、お釣りはいらないわよ。その千円で精算しておいて」


誠二は、テーブルの上の千円札を見つめた。 それは「看病」ではない。 彼女は、自分の安眠を妨害した「騒音」の対価として、そしてこれ以上自分を頼らせないための「防壁」として、その薬を置いたのだ。 「精算……。夫婦の間で、精算か」 「当然でしょう? あなたの不摂生の結果だもの。私の管理外だわ」


澄子は、玄関へ向かう。 「お粥、作りましょうか、なんて言葉、期待しないでね。台所をウイルスで汚されたくないの。自分の食器は、熱湯消毒を徹底してちょうだい」 ドアが閉まる音が、誠二の耳の奥で、昨夜の咳のように響いた。


誠二は、吐き気を感じながら薬の箱を手に取った。 そのままでは飲む気になれず、彼は救急箱のストックを探そうと、棚の奥にある古い木箱を引き出した。何年も、あるいは十数年も開けていなかった、家中の予備薬が放り込まれた箱だ。


箱の底をかき回すと、茶色く変色した古い風邪薬の包みが出てきた。 そして、その裏に。 一枚の、小さく折り畳まれたメモが貼り付いていた。


誠二は、それを剥がして広げた。 インクが少し滲んだ、丸みを帯びた筆跡。


『お大事に。早く良くなって、また真理を公園に連れて行ってあげてね。 澄子』


それは、まだ真理が三歳の頃。誠二がインフルエンザで寝込んだ際、澄子が枕元に置いてくれたメモだった。 当時は、その一枚の紙切れにどれほどの救いがあっただろうか。 その文字の端々には、誠二の体を案じ、回復を願う、本物の「体温」が宿っていた。


誠二は、古いメモを握りしめた。 指先から、冷たくなった紙の感触が伝わる。 かつて、自分を慈しんでくれた女性は、確かにこの家にいたのだ。 そして今のテーブルの上には、精算を迫る千円札。


「……澄子。お前は、どこへ行ったんだ」


誠二は、誰もいないキッチンで、蹲るように椅子に座り込んだ。 メモに書かれた「お大事に」という五文字が、今の自分を激しく糾弾しているように見えた。 お前が無関心を決め込み、お前が家庭を顧みず、お前が彼女を「家政婦」として扱い続けた結果が、この千円札なのだ、と。


彼は、澄子が買ってきた薬の箱を開けた。 錠剤を一つ取り出し、水で飲み込む。 喉を通り過ぎる異物は、何の味もしなかった。 薬箱の底には、まだあの古いメモが落ちている。 だが、それを澄子に見せる勇気は、今の彼には微塵もなかった。 見せたところで、彼女は「不衛生ね、捨てて」と笑うだけだろう。


誠二は、テーブルの千円札を、自分の財布に押し込んだ。 それは、夫婦という関係が、ただの「同居契約」にまで摩耗し尽くしたことの証明書だった。


カーテンの隙間から、冬の陽光が差し込む。 ホコリが光の中で静かに舞っている。 誠二は再び咳き込んだ。 今度は、声を殺す必要はなかった。 この家には、彼の苦しみを受け止める「他者」は、もう一人もいないのだから。


彼は古いメモを、そっと薬箱の奥に戻した。 それは、この家で唯一、まだ死んでいない「記憶」だった。 けれど、それは二度と、誠二の熱を下げてはくれない。


誠二は、リビングの暖房を止めた。 千円分の薬よりも、この冷気が今の自分には相応しい気がした。 冷蔵庫が、また低く唸り始める。 「お大事に」という言葉は、真空の中で、誰に届くこともなく、静かに朽ちていく。


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