第5話:幸福のショウケース
第5話:幸福のショウケース
午前十一時。リビングの空気は、数分前までの沈滞した「真空」が嘘のように、賑やかな虚飾で塗り固められていた。 野上誠二は、糊のきいたシャツを着込み、数ヶ月ぶりに袖を通したカーディガンの裾を整えた。隣では、澄子が華やかなエプロンを締め、三段重ねの漆の重箱を丁寧にテーブルの中央へ据えている。
「誠二さん、お醤油の小皿、そっちに並べてくれる?」 「ああ、分かった。このくらいの間隔でいいかな」 「ええ、完璧だわ」
二人の会話には、驚くほど滑らかな「潤滑油」が注がれていた。昨日まで一ミリの妥協も許さなかった境界線は、娘夫婦という観客の来訪を前に、魔法のように消し去られている。
インターホンが鳴る。真理と夫、そして五歳の孫、一真が飛び込んできた。
「おじいちゃーん! おばあちゃーん!」
一真の声が、凍りついた空気を物理的に粉砕する。誠二は顔を綻ばせ、一真を抱き上げた。その腕に伝わる子供の熱、生命の弾力。それは、この家で誠二が久しく忘れていた「生温かさ」だった。
「さあ、上がって。真理、お前の好きな煮物も作っておいたわよ」 澄子が、慈愛に満ちた「母親の顔」で真理を迎え入れる。 「わあ、すごい! お母さん、相変わらずマメだね。お父さんも、お手伝いしたの?」 真理が笑いながら誠二を見る。誠二は澄子と視線を合わせ、穏やかに頷いた。 「まあな。澄子の手伝いをするのが、俺の今の唯一の仕事みたいなものだから」
「まあ、誠二さんったら。大げさなんだから」 澄子がコロコロと鈴を転がすように笑う。 その笑い声を聞きながら、誠二は背筋に氷を這わされるような戦慄を覚えた。彼女の演技は完璧だ。あまりに完璧すぎて、どちらが本当の彼女なのか、一瞬見失いそうになる。
食卓を囲む時間は、まるで「幸福な家族」のカタログの一頁だった。 三段重の中には、色とりどりの煮物、金糸卵が美しいちらし寿司、丁寧に飾り切りされた蒲鉾。誠二は澄子の勧めるままに皿を取り、一真に卵焼きを分けてやる。
「お父さんとお母さん、本当に仲良くて安心する」 真理が、しみじみとした口調で言った。 「最近、熟年離婚とか多いじゃない? でも二人は、四十年前と全然変わらないね。お互いを支え合ってるのが、見ててわかるよ」
その瞬間。 リビングに、ふっと奇妙な「隙間」が生じた。 誠二と澄子の間に流れる時間が、一秒だけ凝固する。 真理の言葉は、二人の「真空」に投げ込まれた異物だった。 誠二は澄子を見た。澄子もまた、誠二を見た。
その視線の交差は、愛情でも信頼でもない。 「今のセリフに対して、どう返すべきか」という、共犯者同士の冷徹な確認作業だった。
「……そうね。お父さんには、色々と苦労させられてきたけれど」 澄子が先に口を開き、茶目っ気たっぷりに首を傾げた。 「でも、ここまで来たら、空気みたいなものかしらね。いないと困る、当たり前の存在」 「ははは。空気か。それなら、俺もしっかり深く吸い込まれないとな」
誠二が追従する。 その言葉の裏側で、誠二の脳裏には、賞味期限切れの納豆と、青いマスキングテープの境界線が鮮明に浮かんでいた。今の自分たちは、ただ「理想の老後」という商品を並べたショウケースの中にいるだけだ。
「じいじ、これあげる!」 一真が、ポケットから取り出したラムネ菓子を誠二の口に押し込もうとする。 「おっと、ありがとう一真。おいしいな」 酸っぱいラムネの味が、誠二の乾いた口内に広がった。それは、この虚構の昼餐の中で、唯一リアルな「刺激」だった。
午後三時。嵐のような賑やかさが去り、玄関のドアが閉まった。 「じゃあね! また来るから!」 娘たちの声が遠ざかり、車のエンジン音が消える。
その瞬間。 キッチンの換気扇の音が、急にボリュームを上げたように耳についた。 誠二はカーディガンを脱ぎ、椅子に背を預けた。
澄子は、さっきまでの慈愛に満ちた微笑を、脱ぎ捨てたエプロンと一緒にどこかへ放り出していた。 彼女は無言で、残った料理を「自分のエリア」と「誠二のエリア」に、機械的に仕分け始める。
「……澄子。真理、喜んでいたな」 誠二が、まだ残っているショウケースの余熱に縋るように言った。 「そうね。喜んでいたわね」 澄子の声は、再び零度に戻っている。 「演じ切るのも疲れるわ。誠二さん、そこにある醤油皿、自分の分は自分で洗っておいて。あと、その座布団も元の位置に戻してちょうだい。私のエリアに少しはみ出しているわ」
「……ああ。分かった」 誠二は立ち上がり、座布団を数センチだけ動かした。 境界線が、再びリビングの床に、そして二人の間に、冷厳な壁として再構築されていく。
誠二は、ふと玄関の上がり框に目を止めた。 暗いタイルの中に、小さな、白い粒が落ちているのが見えた。
一真が落としていった、ラムネ菓子だ。 子供が口にしたあとの、微かな唾液でふやけ、半透明になった白い塊。 それは、つい先刻までここにあった「生命の気配」の、無惨な残骸だった。
誠二は膝を突き、そのラムネを一指し指で拾い上げようとした。 「あ、それ……」 声をかけようとして、言葉が詰まる。
それは、澄子に踏まれていた。 キッチンから出てきた澄子の、清潔なスリッパの底が、そのラムネを無慈悲に押し潰した。 「嫌だわ、ベタつくじゃない」 澄子は顔を顰め、ティッシュを一枚抜き取ると、ラムネの残骸を「汚物」として拭い去った。 「一真くんも、行儀が悪いわね。あなたの教育が悪いのよ、誠二さん」
「……教育? 俺がいつ、あの子の教育に関わったっていうんだ」 「そうね。あなたは仕事だけ。家族のことなんて、ずっと『空気』扱いだったもの。今さら、いいおじいちゃんを演じようとしたって、過去のツケは払えないわよ」
澄子はティッシュをゴミ箱に投げ捨て、誠二の脇をすり抜けて二階へ上がっていった。 階段を上る規則正しい足音。 それが止まると、家の中には再び、死のような沈黙が降りてきた。
誠二は、ラムネが踏み潰された跡のある床を、ぼんやりと見つめた。 そこにはもう、何も残っていない。 甘酸っぱい匂いも、孫の笑い声も、真理が言った「安心する」という言葉の響きも。
彼は、一真が自分に食べさせてくれたラムネの、溶け残った苦味を舌の奥で探した。 だが、口の中に残っているのは、冷えたちらし寿司の酢の匂いと、自分自身に対する吐き気のような虚しさだけだった。
「……空気、か」
誠二は独り言を呟き、リビングの電気を消した。 ショウケースの明かりが消え、暗闇の中で家具たちが無機質な影を伸ばす。 明日になれば、また冷蔵庫のマスキングテープを意識しながら、物音を立てずに暮らす日々が始まる。
一真が落としたラムネ。 それは、この硝子の真空地帯に迷い込み、一瞬で窒息して潰された、最後の「体温」だった。
誠二は暗い玄関に立ち、自分の胸を撫でた。 深く吸い込んだ空気は、ひどく乾燥していて、肺の奥を鋭く切り刻んだ。 この家には、もう誰もいない。 ただ、二つの老いた肉体が、重力に従ってそこに置かれているだけだった。
夜の底で、冷蔵庫のコンプレッサーが、また「ブゥゥゥン」と独り言を始めた。 それは、死ぬまで終わることのない、二人の家の、あまりに静かな断末魔のようだった。
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