第3話:洗濯物のソーシャルディスタンス

二月の空は、薄汚れた綿を敷き詰めたような、曖昧な灰色をしていた。 野上誠二は、ベランダへと続く窓の隙間から、冷たく湿った風が忍び込むのを感じて身震いした。


ベランダには、二人の生活の「境界」が、物干し竿という一本の線を共有して並んでいる。 向かって右側は、澄子の領域だ。ラベンダーの香りが鼻を突く柔軟剤の匂い。丁寧にシワを伸ばされたシルクのブラウスや、淡い色のタオルが、春を待つ蕾のように慎ましく揺れている。 一方、左側は誠二の領域。そこには、三日前に洗濯されたまま、放置されたかのように吊るされた安物の綿シャツと、色あせたスラックスがある。澄子の洗濯物との間には、不自然なほど広い「空白」が空けられていた。


「……また、開いているな」


誠二は独り言を漏らした。 ハンガー同士が触れ合うことさえ、澄子にとっては穢れなのだ。彼女は、誠二の「加齢」という避けられない生理現象を、悪意そのものとして忌避している。


「あの、澄子。俺のシャツ、もう乾いているんじゃないか。三日も干しっぱなしだ」 リビングでアイロンをかけていた澄子の背中に、誠二は慎重に言葉を投げた。 澄子は、蒸気の音を「シュー」と立てながら、夫を振り返ることなく答える。


「あら。ご自分で取り込んだらどう? 私は私の分の管理で手一杯なの」 「そうじゃなくて……雨が降りそうなんだ。ついでに取り込んでくれてもいいだろう」 「ついで、なんて言葉は私の辞書にはないわ。あなたの衣類から漂うあの独特の……脂のような臭い。それが私の清潔なブラウスに移ると思うだけで、目眩がするの」


澄子は、鋭利な刃物のような視線を一瞬だけ誠二に向けた。 「境界線は、私が決めたはずよ。あなたは左、私は右。お互いの領土を侵さない。それが、この家で平和に暮らすための唯一のルールよ、誠二さん」


誠二は、喉まで出かかった反論を飲み込んだ。 「加齢臭」という、自分では抗いようのない言葉で武装した彼女に、勝てる見込みはない。彼は黙ってベランダに出た。 シャツを取り込もうとした瞬間、ポツリ、と鼻先に冷たいものが当たった。 雨だ。


空は急速に色を濃くし、アスファルトを濡らす独特の匂いが立ち込める。 誠二は慌てて自分のシャツを掴み、室内に逃げ込んだ。 背後で、澄子が優雅な動作で立ち上がり、ベランダに向かう。彼女は、誠二と肩が触れ合うのを露骨に避けるように体を捻りながら、自分の洗濯物だけを、鮮やかな手つきで回収していく。


「澄子。まだ外に、俺のスラックスが残ってる。雨が強くなってきた」 「そう。大変ね」 澄子は、自分の分だけを腕に抱え、さっさと窓を閉めた。 ガラス一枚を隔てた向こう側で、誠二のスラックスは容赦なく冬の雨に打たれ、重く垂れ下がっていく。


「……何でだよ。手を伸ばせば、すぐそこにあるのに」


誠二の掠れた声は、激しくなり始めた雨音にかき消された。 澄子はリビングの中央で、自分の洗濯物の匂いを慈しむように嗅いでいる。その顔は、誠二が見たこともないほど穏やかで、同時に、救いようがないほど冷酷だった。


夕方、雨が上がった後の湿った空気の中で、誠二は洗濯機の裏から異音を聞いた。 排水ホースの不調を疑い、彼は数年ぶりに、埃にまみれた洗濯機を力任せに動かした。


「……なんだ、これは」


暗い隙間から、灰色に薄汚れた「塊」が顔を出した。 誠二は、這いつくばってそれを指先で手繰り寄せた。 それは、古びた、厚手のウールの靴下だった。 片方だけ。 二十年以上前、真理がまだ小学生だった頃に、誠二が愛用していた登山用の靴下だ。


「おい、澄子。見てくれ。こんなところから出てきたぞ」 誠二は、汚れを払うのも忘れて、靴下を掲げた。 「これ、真理と八ヶ岳に登った時に履いていたやつだ。片方だけ失くしたと思って、お前に散々探してもらった……」


澄子は、ソファで本を読んでいた目をゆっくりと上げた。 その視線が靴下に落ち、すぐに逸らされた。 「不潔ね。そんな埃の塊、早く捨てて」 「……探してくれたじゃないか。あの時、お前も一緒に。家中をひっくり返して、結局見つからなくて、二人で笑いながら新しいのを買いに行った。覚えてないか?」


「覚えているわけないでしょう」 澄子は、本を閉じて立ち上がった。 「二十年も前の、たかが靴下の片方。それが今、この家の何を変えるっていうの? それを見つけたからって、また三人で山に登るとでも? 滑稽だわ」


「そうじゃない。ただ……懐かしいだろう。あんなに必死に探したものが、こんな近くにあったんだ」 「近くにあったからこそ、気づかなかったことの虚しさを考えないのね。誠二さん、あなたはいつもそう。終わったことの残骸を拾い集めて、勝手に感傷に浸る。私にとっては、それはただの掃除の邪魔でしかないのよ」


澄子は、ゴミ箱の蓋を足で踏んで開けた。 「早く、そこに入れて。それとも、また洗濯して履くつもり? 二十年分の埃とカビを吸い込んだ、片方だけの靴下を」


誠二は、手の中の靴下を見つめた。 それは、かつて自分が確かに存在し、誰かと繋がっていた時間の証拠だった。 繊維の奥には、八ヶ岳の冷たい空気や、澄子が握ってくれたおにぎりの匂いが染み込んでいるような気がした。


だが、今のこの部屋に満ちているのは、澄子の選んだラベンダーの香りと、彼女の拒絶という名の壁だけだ。 誠二は、ゆっくりとゴミ箱へ歩み寄り、指を離した。 「……ああ。そうだな。ただのゴミだ」


靴下は、朝に捨てたコンビニ弁当の空き殻の上に、力なく横たわった。


夜、誠二はリビングの隅で、生乾きのまま取り込んだスラックスを眺めていた。 雨の匂いが、部屋の片隅に澱のように溜まっている。 澄子はもう、寝室のパーテーションの向こう側に消えていた。


ベランダの物干し竿には、何も掛かっていない。 一本の銀色の棒が、月光を反射して冷たく光っているだけだ。 あの竿の上で、二人の人生はあんなにも近くに並びながら、決して触れ合うことはなかった。


誠二は、自分の足をそっとさすった。 片方の靴下を失ったまま、自分はどこへ歩いていけばいいのだろうか。 隣のブースからは、澄子の静かな寝息さえ聞こえてこない。


あるのは、二十年という歳月をかけて蓄積された、動かしようのない物理的な距離感。 そして、もう二度と「ついでに」という言葉が介在することのない、完成された二つの孤島。


誠二は、部屋の電気を消した。 暗闇の中で、鼻を突くラベンダーの香りが、彼の肺を冷たく満たしていった。


洗濯機の下で、誰にも知られず眠り続けていた二十年。 それは、二人がお互いを見失い始めるまでの猶予期間だったのかもしれない。 もう、探すべきものは、この家のどこにも残っていなかった。


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