第2話:咀嚼音とWi-Fi

第2話:咀嚼音とWi-Fi


午後六時三十分。リビングのシーリングライトが、手術室のような無機質な白さで室内を照らしている。 野上誠二は、ダイニングテーブルの左端、自分の「定位置」に腰を下ろした。目の前には、白磁の角皿に盛られた鮭の塩焼きと、小さくまとめられたほうれん草のお浸しが置かれている。 澄子が作った食事だ。だが、それは誠二のために作られたというよりは、ルーチンワークの一環として「配置」されたものに見えた。


「いただきます」


誠二の呟きは、誰の耳にも届かぬまま、換気扇の低い唸りに吸い込まれていった。 対角線上、テーブルの右端に座る澄子からは、何の反応もない。彼女は既に自分の箸を動かしている。


二人の視線は、決して交わらない。まるで、磁石の同じ極同士が反発し合うように、不自然な十五度の角度で外されている。誠二の視線は手元のタブレットへ、澄子の視線は立てかけられたスマートフォンへと固定されていた。


「……今日のニュースは、また増税の話か」


誠二は、タブレットの画面をスワイプしながら、独り言をこぼした。無音に設定された画面の中では、アナウンサーが音もなく口を動かし、派手なテロップだけが虚しく躍っている。 「うるさいから、音は出さないでね。耳障りだから」 かつて澄子にそう言われて以来、この家で誠二が動画の音を出すことは禁じられた。


澄子は、誠二の言葉に眉ひとつ動かさない。彼女の耳には、白いワイヤレスイヤホンが差し込まれている。スマートフォンの画面の中では、鮮やかな彩りのイタリアンが手際よく調理され、おそらく彼女の耳には、軽快なBGMと包丁の小気味よい音が届いているのだろう。


カチ、カチ。


静寂の中で、誠二の箸が皿に当たる音だけが強調される。 鮭の身をほぐし、口に運ぶ。 咀嚼音。 自分の口の中で食べ物が砕かれる音が、頭蓋骨に響く。それは、自分がまだ生きていることを確認するための、唯一の生々しい感覚だった。


「……澄子。この鮭、少し塩が強いんじゃないか」


誠二は、乾いた喉を湿らせるように言った。非難ではなく、単なる「確認」のつもりだった。会話の糸口を、まだ彼は諦めきれずにいた。


澄子は、ゆっくりとイヤホンを片方だけ外した。 「……何か仰いました?」 「いや、鮭が。少し、しょっぱいなと思って」 「あら。血圧を気にされているのなら、残せばいいじゃない。私はレシピ通りに作っただけですから」


澄子の声は、スマートフォンの画面に映る冷製パスタのように冷え切っていた。彼女は再びイヤホンを耳に戻し、視線を料理動画へと戻す。 誠二は、口の中に残った鮭を無理やり飲み込んだ。喉の奥が、棘に刺されたように痛んだ。


「……レシピ通り、か。昔は、俺の好みに合わせてくれていたんだがな」


そう口に出しかけて、誠二は思いとどまった。そんな過去を持ち出すことは、今の澄子にとっては何の価値もないことだ。


二人の間の空間には、目に見えないWi-Fiの電波だけが等しく、そして激しく行き交っている。 誠二のタブレットが受信する世間の喧騒と、澄子のスマートフォンが受信する華やかな暮らし。同じテーブル、わずか一メートルの距離にいながら、二人はそれぞれ何百キロも離れた別々の世界を旅している。


電波は壁を越え、国境を越えるが、目の前の相手の心には一ミリも届かない。


誠二は、ふとテーブルの脚に目をやった。 椅子の影になったその場所に、小さな、金色の輝きが見えた。 彼は無意識に身を屈め、その正体を確認した。


それは、一枚のシールだった。 「よくできました」という文字の周りに、赤い花が描かれている。二十数年前、当時幼稚園児だった娘の真理が、工作で満点をもらった記念に、いたずら半分でそこに貼ったものだ。


シールの端は茶色く変色し、今にも剥がれ落ちそうにめくれている。 「お父さん、ここ、真理の場所ね! 一番いい子に座れたら、キラキラが見えるんだよ!」 そう言って笑い、誠二の膝の上で跳ねていた小さな温もり。その時、澄子も隣で笑いながら、「もう、家具にシールなんて貼っちゃダメよ」と、幸せそうな溜息をついていたはずだ。


誠二は、そのシールに指を触れようとした。 「何をしているの」


澄子の冷徹な声が、リビングに響いた。 誠二は、弾かれたように顔を上げた。澄子がイヤホンを外し、軽蔑の色を隠そうともせずに誠二を見下ろしていた。


「……いや。昔のシールが、まだ貼ってあるなと思って。真理が貼ったやつだ」 「そんな不衛生なもの、よく触れるわね。埃が溜まるだけじゃない。明日、剥がして捨てておくわ」 「……捨てなくてもいいだろう。これは、思い出だ」 「思い出?」


澄子が、小さく鼻で笑った。 「思い出で、お腹が膨れるのかしら。そんなカビの生えたような過去にしがみついて、今の惨めさを誤魔化すのはおやめなさい。見苦しいわ」


澄子は、食べ終えた皿を音を立てて重ねた。 「Wi-Fi、最近遅いわね。あなたが無駄な動画ばかり見ているからじゃないの? プランを変えようかしら。私専用の回線を引きたいわ。あなたと共有していると思うだけで、データの通信速度まで汚されている気がするの」


誠二は、何も言い返せなかった。 澄子が立ち上がり、キッチンへと向かう。 シンクに皿が置かれるガチャンという音が、銃声のように聞こえた。


誠二は、独りテーブルに残された。 タブレットの画面は、いつの間にかバッテリー残量の警告を表示して消えていた。 真っ暗になった画面に、自分の老け込んだ顔が、死人のように映り込んでいる。


彼は、再びテーブルの脚のシールを見た。 剥がれかけの「よくできました」。 今の自分に、そんな言葉をかけてくれる人間は、この世界のどこにもいない。 家族のために働き、家を建て、定年まで勤め上げた。その結果が、この真空地帯での孤独死へのカウントダウンなのか。


澄子が、リビングの照明を半分消した。 「先に休むわ。テレビをつけるなら、ヘッドホンをして。寝室まであなたの生活音が漏れてくるのは、耐えられないから」


彼女は一度も振り返ることなく、廊下の向こうへと消えていった。 パチン、というドアの閉まる音が、この家の結界を再び強固なものにする。


誠二は、暗がりのダイニングで、最後の一口のほうれん草を口に入れた。 味がしない。 ただ、繊維の筋が歯に挟まる不快感だけがある。


Wi-Fiのルーターが、棚の隅で青い光を点滅させている。 見えない電波が、今日もこの家を、他人同士のまま繋ぎ止めている。 繋がっているのはネットワークだけで、人間はとっくに断線しているというのに。


誠二は、そっとテーブルの脚に手を伸ばした。 「よくできました」 剥がれかけたシールの端を、彼は指先でそっと押さえた。 剥がしたくない。これが無くなってしまったら、自分はこの家で、最初から存在していなかったことになってしまう。


だが、彼の指先が触れた瞬間、乾燥しきった糊は限界を迎え、シールは音もなく床に落ちた。


「……ああ」


誠二の掠れた声が、暗い部屋に虚しく響く。 彼は床に這いつくばり、暗闇の中で小さな金色の破片を探した。 膝が痛み、視界が滲む。


ようやく指先に触れたのは、シールの破片ではなく、ただの冷たい埃の塊だった。


彼はそのまま、床に手をついた。 キッチンの換気扇が止まり、家の中は完璧な沈黙に包まれた。 耳の奥で、キーンという耳鳴りだけが鳴り響いている。


明日も、明後日も、このテーブルで視線を逸らし、咀嚼音だけを響かせるのだろう。 Wi-Fiの電波が行き交う、この透明な檻の中で。


誠二は、震える手でタブレットの電源を入れ直した。 青白い光が、再び彼の顔を照らし出す。 そこには、自分とは無関係な世界のニュースが、無音のまま、ただ延々と流れていた。


床の隅、掃除機のノズルが届かない隙間に、 丸まって色あせた「よくできました」が、誰にも見取られずに死んでいた。


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