第1話:賞味期限の境界線
第1話:賞味期限の境界線
午前六時四十分。キッチンの床に差し込む冬の朝光は、薄い氷のように冷たく鋭い。 野上誠二は、寝室のパーテーションの向こうから聞こえる澄子の規則正しい衣擦れの音を確認してから、音を立てないようにリビングへ出た。それがこの家での、最も安全な生存戦略だからだ。
「……ふう」
白く濁った吐息が、乾燥したリビングに溶ける。 誠二はキッチンに向かい、冷蔵庫の重い扉を引いた。 「ブゥゥゥン」という低い唸り音が、沈黙を独占していた空間に割り込む。それは、心臓の鼓動よりもずっと確かな、この家の主旋律だった。
庫内を照らす青白いLEDの光が、誠二の老いた顔を無機質に炙り出す。 中段の棚には、無慈悲なまでに真っ直ぐな青いマスキングテープが貼られている。三年前、退職後の誠二が台所に立ち始めた数日後に澄子が引いた、不可侵条約の国境線だ。
テープから右側、妻のエリアには、瑞々しい小松菜や、丁寧にラップされた自家製の常備菜、小さな瓶に入ったピクルスが、秩序を持って並んでいる。それらは、澄子が自らの生活を、自らの手で守り抜いているという誇りの象徴のようだった。
対して左側、誠二のエリアは惨めなものだった。 コンビニで買った半額シールの付いたポテトサラダ、飲み残しの炭酸水、そしていつ買ったのかも定かではない、パックの端が干からびた納豆。誠二の指が、その納豆の賞味期限をなぞる。 「24.12.20」。一週間は過ぎている。 彼はそれを手に取ろうとして、ふと背後に気配を感じた。
「……まだ、食べていなかったの。それ」
背後から突き刺さるような声。温度は零度。 澄子が、いつの間にかキッチンの入り口に立っていた。エプロンの紐を凛と結び、髪を一つにまとめた彼女は、誠二を「住人」ではなく「障害物」として見ている。
誠二は納豆を持ったまま、ぎこちなく振り返った。 「……ああ、いや、今から食べようと思っていたところだ」 「ゴミを増やさないで。臭うのは嫌だから」 「分かっている。すぐに片付ける」
誠二の声は、自分でも驚くほど卑屈に響いた。澄子はそれ以上何も言わず、誠二の脇をすり抜けてシンクに向かった。彼女が通った後に、微かな石鹸の香りと、冬の冷気が残る。 澄子は慣れた手つきでケトルに水を入れ、スイッチを押した。「カチッ」という音が、会話の終わりを告げる。
誠二は逃げるように納豆のパックを開けた。 粘り気のない糸が、空しく空を泳ぐ。 「……おい、澄子。今日の天気、午後は崩れるらしいぞ」 せめてもの抵抗として、彼は情報の共有を試みた。
澄子は振り返りもせず、ケトルの湯気を見つめたまま答える。 「私は午前中に買い物に行くから、関係ないわ」 「……そうか」 「あなたの靴下、洗面所に落ちていたわよ。自分のエリアは自分で管理して」 「ああ、すまん」
会話は、卓球のラリーのようには続かない。誠二が打ち返した球は、すべて澄子の手元で握り潰され、床に落とされる。 誠二は納豆を口に運んだ。豆は硬く、発酵が進みすぎて苦い。舌の上に広がるその不快な味を、彼は必死に噛み締めた。この苦味こそが、今の自分に許された家庭の味なのだと言い聞かせるように。
「ねえ、誠二さん」 澄子が珍しく彼の名を呼んだ。 「来週の火曜日、真理たちが来るわね」
言葉はそこで切れた。続きを促す余白さえない。 「ああ、分かっている。『普通』にする。真理の前では、ちゃんと座って、お前の料理を美味そうに食べる。それでいいんだろ」
誠二の言葉に、澄子は短く「ええ、助かるわ」とだけ返した。 彼女にとって誠二は、もはや夫ではなく、娘という観客に見せるための「舞台装置」の一部なのだ。誠二もまた、その役割を演じ続けることでしか、この家での居場所を確保できない。
ケトルが「ピー」と鳴った。 澄子がマグカップに湯を注ぐ。立ち上がる湯気の向こう側で、彼女の表情は霧に包まれて見えない。
誠二は、納豆の空きパックを丁寧に水洗いした。汚れを落とし、プラスチックの臭いを消さなければ、彼女に叱責される。無言でシンクを共有する数分間。二人の肘が触れそうになるたび、火傷を避けるように反射的に身を引く。
その時、誠二の指が、野菜室の引き出しを少しだけ強く引いてしまった。 「ガタッ」という音が響き、最深部にあった何かが転がった。
「……何?」 澄子が不審げに覗き込む。 誠二は手を伸ばし、奥底に眠っていた塊を掴み出した。
それは、灰色に変色した大理石のペーパーウェイトだった。 表面を覆っていた透明なコーティングは剥げ、かつてそこに貼られていたであろう観光地のラベルは、糊の跡だけを残して消え去っている。
誠二の脳裏に、不意に鮮明な映像がフラッシュバックした。 四十年前。イタリアのフィレンツェ。 「これ、私たちの新しい生活の重みにしましょうよ」 そう言って微笑んだ澄子の頬は、今の氷のような白さではなく、薔薇色に上気していた。誠二もまた、彼女の肩を抱き寄せ、「この石がすり減るまで一緒にいよう」と柄にもない約束をしたのだ。
「……これ」 誠二が掠れた声で呟いた。 澄子の視線が、誠二の手元に固定される。 数秒。あるいは数十秒。 キッチンの空気から酸素が消えたような、完璧な真空が訪れた。
澄子の瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、凍土が溶けるような揺らぎが見えた――誠二はそう信じたかった。 だが、彼女が口を開いたとき、出てきたのは鋭利な刃物のような言葉だった。
「……汚いわね。それ、カビが生えているんじゃないかしら」
澄子は、まるで汚物を見るような目でその石を見つめ、濡れた手を手ぬぐいで拭いた。 「捨てておいて。私のエリアを汚さないで」
誠二は、大理石の重みを手のひらで感じた。 それはあまりに冷たく、そして重かった。四十年前、澄子が言った通り、これは生活の重みそのものだった。しかし、その重みは「愛の証」から「処分の対象」へと変質してしまったのだ。
「……ああ。そうだな。捨てておく」
誠二は石を握りしめたまま、ゴミ箱に向かった。 「バタン」という乾いた音がして、大理石はプラスチックのゴミ袋の底へ沈んでいった。 かつての約束も、情熱も、あの路地裏の風の匂いも、すべてが納豆の空きパックと同じ扱いで処理されていく。
澄子はすでに、自分のマグカップを持ってリビングのソファへ移動していた。 彼女はタブレットを開き、今日の午後の献立を検索し始めている。 誠二もまた、自分のエリアからポテトサラダを取り出し、誰もいないダイニングテーブルの端に座った。
冷蔵庫が再び「ブゥゥゥン」と鳴り始めた。 この家の主旋律。 会話のない部屋で、二人はそれぞれの孤独を咀嚼し続ける。 賞味期限を切らしたのは、納豆だけではなかった。
窓の外では、予報通り雲が広がり始めていた。 もうすぐ、冷たい雨が降り出すだろう。 けれど、この家の真空が濡れることはない。 硝子の壁に守られたこの場所で、二人はこれからも、他人として生きていくのだろう。
キッチンの床に落ちたマスキングテープの剥がれ端が、微かな風に揺れた。 誰にも気づかれないまま、それは灰色の埃の中に消えていった。
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