硝子の真空地帯

硝子の真空地帯


朝の光が 埃(ほこり)のダンスを照らしても この家の空気は 一ミリも動かない 冷蔵庫のコンプレッサーが 低く唸り 誰のものでもない時間が ただ堆積していく


かつて 私たちは言葉を武器にした 叫び、罵り、傷を深め そうして繋がろうと 足掻いていた けれど 嵐の季節は遠くに過ぎ去り あとに残ったのは 見渡す限りの凪(なぎ)


あなたは そこにいる 私は ここにいる それだけが この世界の唯一の事実 おはようも おやすみも 愛も 憎しみも すべては 吸音材のような沈黙に吸い込まれていく


同じ屋根の下 私たちは 別々の軌道を回る惑星 触れ合えば 砕けてしまうほど脆い 硝子の真空地帯を 抱えながら


明日、どちらかが 呼吸を止めても 湯沸かし器の「沸きました」という電子音は 今と同じように 無機質に響くだろう 私たちは もう 悲しむための言葉さえ この家に置き忘れてしまった


40年を 砂時計に変えて 最後の一粒が 落ちるのを待っている さよならさえ言わない それが 私たちの完成された 終わりの形


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