第3話 蕾草の苗と、堆肥小屋の言い分

 納屋の床の音が落ち着いた翌日、朝の霧が谷の底に白く溜まっていた。井戸の水は澄み、桶の縁に当たる音も丸くなっている。

 オメオンガは作業台の端を指でなぞり、木屑の残りを払ってから外へ出た。袖口には、昨日エルザルカが縫い直した糸がまだ新しく光っている。


 谷道の向こうから、籠を抱えたラウ・ワンリンが歩いてきた。籠の上には濡れ布が二枚、交互に掛けられている。乾いた風が吹くたび、彼女は布の端を押さえ、籠の中身へ影が落ちるようにした。

 「持ってきた。……土が欲しがる前に、根が先に乾く」

 言い方は短いのに、手つきは細かい。布の隙間から覗く苗は、小さな蕾の形をした葉を揃えている。

 コランテが肩に鍬を担いで現れ、籠を覗き込んだ。

 「これが蕾草か。匂い、あったかいな」

 ラウは頷き、籠の片隅から乾葉の小袋を出して、鼻先へ寄せた。甘い草の匂いが、霧の冷たさに混じる。

 「煎じると、眠りが深くなる。怒鳴る声は、少し引っ込む」

 「怒鳴る声、ね」

 コランテが笑い、納屋の方を見た。確かに昨日まで、床の「ぎし」に負けない声があった。


 畑にする場所は、納屋の裏の緩い斜面だった。井戸から近く、水路の枝を伸ばせる。オメオンガは地面に膝をつき、土を掴んで指でこすった。粒が粗い。水はけはいいが、保ちが弱い。

 「堆肥を入れる。……ここは、返す場所が要る」

 彼が言うと、アドリアンが飛び出してきた。昨日裂いた袖は、エルザルカの布切れで雑に継ぎが当てられている。

 「おれ、知ってる! 土に、なんか黒いの入れるやつ! ほら、牛の――」

 「言わなくていい」

 エルザルカが即座に遮った。彼女は針箱を抱えたまま、顔だけをしかめる。

 「言い切る前に、口を閉じて。……臭い話は、縫い目が乱れる」

 アドリアンは「えっ」と言いかけて、口を両手で押さえた。真似が極端だ。


 堆肥の山を作るには、谷の暮らしの残り物が要る。藁、落ち葉、台所の皮、家畜の寝藁。コランテが村人を連れてきて、各家の桶や籠が並んだ。

 ところが、鍬を入れる場所で意見が割れた。

 「水路の横でいい。濡れてれば腐りが早い」

 「やめとけ。水が臭くなる。子どもが飲むんだぞ」

 声が少しずつ高くなる。井戸のときと同じ角度で、言葉が尖ろうとした。


 オメオンガは返事を急がず、地面に枝を置いた。枝で線を引き、石を三つ並べる。水路の位置、畑の位置、納屋の位置。そこへ、もう一つ石を置いて、少し離す。

 「ここに一つ。……水路の横は、返すだけ。置かない」

 「返すって?」

 アルハサリが帳面を抱えたまま近づいた。彼は畑の縁で足を止め、泥に靴が沈まない位置を選んで立つ。

 「混ぜる場所と、積む場所を分ける。……運ぶ回数が増える」

 アルハサリが淡々と言うと、反対していた男が眉を上げた。

 「回数が増えるなら、余計に――」

 言いかけた声が、途中で止まった。


 ラウが、乾葉の小袋を指で揉んでいた。袋の口から、草の香りがふわりと流れ出す。冷えた空気の中で、湯気みたいに広がる。

 先ほどまで口の端が持ち上がっていた男が、喉を鳴らして、言葉を飲み込んだ。隣の女も、肩を落として息を吐く。

 「……言うの、あとで」

 誰かが小さく笑って、そこから、笑いが連鎖した。怒鳴り声が引っ込む代わりに、鼻をすすった音が目立つ。


 ブラッドリーが畑の端から眺めていた。腕を組み、顔をしかめているのに、足元には新しい縄が巻かれている。

 「堆肥なんて、どうせすぐ腐る。……いや、腐らせるのが目的か」

 軽口は刺のある形だが、縄の巻き方が丁寧だった。ほどけない。ほどくときに困らない。

 エルザルカがその縄を見て、鼻で笑った。

 「それ、いい結び。……教えて」

 「は? 教えるほどのもんじゃねえ」

 ブラッドリーは言いながら、縄の端を指で少しだけ示した。見せるだけ。言葉は最小。


 堆肥の材料は、層にする。乾いたものと湿ったもの。オメオンガは藁の束を半分に裂き、下に敷いた。上へ落ち葉を乗せ、台所の皮を広げる。

 アドリアンが真似をして、全部を一度に投げ込んだ。桶の底が「ぼん」と鳴り、泥が跳ねる。

 「……層」

 オメオンガが一言だけ言うと、アドリアンは慌てて土を掻き分け、今度は薄く広げた。広げ過ぎて、自分の靴まで薄くなった。

 「おれ、広げるの、得意かも」

 「靴の上は、得意じゃない」

 コランテの突っ込みに、村人がまた笑った。


 アルハサリは、積み方を見ながら帳面に線を引いた。藁の束を「一」、落ち葉の籠を「一」、台所の皮を「半」。水は「桶一」。文字は小さいが、迷いなく並ぶ。

 「これで、今日はこの分だけ。明日は、これの半分」

 誰かが「そんな細かく」と言いかけたが、さっき言葉を飲み込んだ男が先に頷いた。

 「数字なら、同じものが作れる」

 言い方はぶっきらぼうだが、桶を運ぶ手が速くなった。コランテが「じゃあ当番も決めよう」と言って、指を折り始める。アドリアンが真似をして、指の数が足りずに足の指まで動かし、村の子どもに笑われた。


 返す場所は水路の横だ。オメオンガは板切れを二枚渡し、ぬかるみの上に置いて足場を作った。足場の板が沈むと、アドリアンが慌てて石を追加する。石の角度が悪くて板が傾き、今度は自分が滑った。

 「うわっ」

 「うわっ、じゃなくて、手ぇ離すな」

 コランテが腕を掴み、板が水に落ちる前に引き戻す。笑い声の中で、足場は少しずつ安定していった。


 苗の中に、ひとつだけ色の薄いものがあった。葉の縁が白っぽく、蕾の形が小さい。

 アドリアンが「これ、病気?」と指を伸ばしかけると、ラウが籠ごと引き寄せた。

 「触るなら、濡れた指。……白蕾は、乾くと戻らない」

 彼女は濡れ布をもう一枚重ね、籠の内側へ風が入らないよう角を折った。折り目はきっちりしているのに、急がない。急いでいるのは手ではなく、乾く時間の方だ。


 堆肥の山が形になったころ、山の中心からほんのり熱が上がってきた。アドリアンが興奮して手を突っ込み、「熱い!」と跳ねた。

 「湯気じゃないんだな! 生きてる!」

 「指が先に茹だる」

 エルザルカの突っ込みに、アドリアンは手を振って冷まし、結局ラウの水筒の冷たい水を一口もらった。ラウは水筒を渡すとき、口の位置を少しだけずらして、土が入らない向きを作っていた。



 ラウは苗の根を指でそっとほぐし、湿った土に置いた。土をかぶせる指先が一定の深さで止まる。誰かが真似をしようとして、根を折りかけた。

 ラウは叱らない。折れた根を拾い、別の苗の根元へ添え、指で土を押さえ直した。

 「乾かさない。……それだけ」

 短い言葉が、手つきの説明になっていた。


 エルザルカは苗の数を数え、布袋を取り出した。袋の口に紐を通し、縫い目を隠すように折る。苗を分けて持ち帰るときに、根が傷まないように。

 「あなた、これ持って。……落としたら、怒る」

 言い方は相変わらずだが、袋はしっかりしていた。オメオンガは受け取り、落とさない位置に腕を曲げた。


 昼前、堆肥の山のそばで、さっき言いかけた男が女の方へ向き直った。口を開いて、また閉じる。手の甲が土で黒い。

 オメオンガがハンカチを一枚差し出した。まだ無地の布だ。昨日、作業台で端を整えただけのもの。

 男は布を受け取り、手を拭いたあと、しばらく布を握った。握りしめたまま、女に頭を少し下げる。

 「水、怖かった。……うち、去年、枯らしたから」

 女は答えを急がず、ラウの香り袋を一度嗅いでから、頷いた。

 「私も。……だから、言い方が強くなる」

 声は小さい。けれど、聞こえる距離だった。


 霧が薄れ、空が青くなる。畑の畝には蕾草の苗が並び、堆肥の山は層の形を保っている。納屋の扉の前で、アドリアンが自分の袖の継ぎ当てを見て唸った。

 「次は、裂く場所、間違えない」

 エルザルカは針を口にくわえ、指で「そこ」とだけ示した。オメオンガは作業台の上に、今日使った縄と鉤を揃え、乾かす場所へ置いた。明日も同じ手で動けるように。


 ラウが小袋をしまい、籠の濡れ布を掛け直した。

 「今日はここまで。……夜は、蕾草を薄く煎じる。眠れる人から眠ればいい」

 その言い方に、ブラッドリーが鼻で笑った。

 「眠れる人、ね。……寝相悪いのが増えそうだ」

 笑いが起きる。堆肥の匂いの奥に、蕾草の甘さが残っていた。


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星座を縫う布ハンカチと、君のいない部屋の蕾 mynameis愛 @mynameisai

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