第2話 納屋の床と、きしむ一枚板
翌朝、井戸の前は静かだった。桶を持つ手が、昨日よりも慌てていない。水を汲む音が、石の内側で落ち着いて反響している。
オメオンガは井戸の縁に指を置き、湿り気を確かめてから、納屋へ向かった。エルザルカが約束した場所だ。約束というより、言い切った場所だ。
納屋の扉を開けると、乾いた草の匂いに混じって、古い木の酸っぱい匂いがした。床板の中央が沈み、踏むたびに「ぎし」と声を出す。エルザルカはすでに袖をまくり、針山を外して髪を結び直していた。
「今日は、これ。……落ちたら困るでしょ」
彼女は口で言い、足で床の沈む場所を示した。オメオンガは膝をつき、板と板の隙間へ指を差し入れる。埃が指先にまとわりつく。指を抜くと、細い釘が一本、半分浮いていた。
「釘、曲がってる。下の梁も、湿ってるな」
「湿ってる? それって、直る?」
エルザルカは返事を待たずに、壁際の板を引っぱり出した。引っぱり出した板は短く、端が欠けている。彼女は欠けた端を布で包み、持ちやすくして差し出した。
「これ、足場にする。ほら、あなた、手が大きいから」
頼る言い方は相変わらずだが、包み方が丁寧だった。布が滑らないよう、端がきっちり折られている。
オメオンガは床下へ潜るため、入口の板を外した。暗い空間から、冷たい湿気が上がってくる。ラウが入口に膝をつき、蕾草の煎じ汁を小瓶に詰めて差し入れた。
「匂いがきつい。これ、鼻の下」
ラウは短く言い、布を折って小瓶の口を当てた。オメオンガは頷き、布を受け取る。布の端に、薄い刺繍がある。小さな点が三つ、糸でつながれているだけの模様だった。
「それ、何の形?」
アドリアンが覗き込み、鼻を鳴らした。
「夜に見えるやつ。……ほら、あそこ」
ラウが指さしたのは、納屋の梁の隙間から切り取られた空だった。昼の空で星は見えないのに、アドリアンはなぜか頷く。
「分かった気がする。分かった気がするだけ」
「それで十分。……今日は息が通ればいい」
ラウの返事は、いつも同じ温度だった。
床下では、梁の一部が湿って黒ずんでいた。オメオンガは腐った部分を指で押し、残る木の硬さを確かめる。全部を取り替えるには、木材が足りない。なら、荷重がかかるところだけを支える。
彼は石を二つ選び、梁の下へ噛ませる。石の角度を変えるたび、床板の「ぎし」が小さくなる。上でエルザルカが歩いて確認し、音が減ったところで足を止めた。
「今、減った」
「そこ、印を」
オメオンガが言うと、エルザルカは即座に布切れを裂き、釘の頭に結びつけた。結び目は昨日の形だった。ほどくときに困らない形。
アドリアンが、また真似をする。布切れを裂こうとして、勢い余って自分の袖まで裂いた。
「あっ」
「……今のは、裂く場所が違う」
オメオンガの声は低い。怒鳴らない代わりに、破れた袖を指で摘んで示す。エルザルカがすかさず針を構えた。
「貸しなさい。ここ、こう」
針が走る。アドリアンは腕を突き出したまま固まっている。縫い終わると、エルザルカは胸を張って言った。
「ね。私がいれば直る」
「最初から裂かなきゃいいんだけどな」
ブラッドリーが口を挟む。彼は納屋の外にいるのに、板を運ぶときだけ、いつの間にか肩を貸している。重い板の端を持ちながら、わざとらしく顔をしかめた。
「肩が壊れる。俺の肩が壊れたら、誰が笑わせるんだ」
「笑わせてるつもりなの」
エルザルカが返すと、周りがまた笑った。笑い声が出ると、手が早く動く。道具の受け渡しが滑らかになる。
昼過ぎ、床板は一度、全部外された。土の上に梁が走り、冷たい湿気がまだ残っている。オメオンガは土の表面を薄く削り、乾いた砂を混ぜてならす。ラウが持ってきた灰を少しだけ振り、湿り気を抑えた。
「灰、もったいない」
誰かが言う。ラウは瓶の蓋を閉めながら答えた。
「また拾える。足の裏は、拾えない」
言い切ると、その者は黙って頷いた。
外した板の中には、まだ使えるものと、指で押すだけで崩れるものが混じっていた。使える板は端を削って揃え、崩れる板は薪に回す。エルザルカは「捨てるのは嫌い」と言いながら、針で布袋を作って釘をまとめ、失くさないように口を縛った。
足りない板は、谷の端に放置された古い小屋から運ぶことになった。アドリアンが先頭で走り、途中でつまずいて土まみれになり、起き上がってまた走る。ブラッドリーは後ろで板を肩に担ぎながら、わざとらしく息を吐いた。
「俺、こういう運搬、得意じゃない。得意じゃないが、転がすよりはマシだ」
「じゃあ、誰が転がすの」
「転がしたい奴が転がせ」
言い合いみたいで、誰も怒っていない。板が納屋に積み上がるたび、作業の段取りが一つずつ前へ進んだ。
板を戻す前に、オメオンガは小さな布を取り出した。昨日、ラウが鼻の下に当てた布と同じ手触りの、薄いハンカチだった。
「エルザルカ。これに、さっきの点を縫ってほしい」
「点?」
「三つでいい。糸でつなぐ。……持つ人が、息を吐けるように」
エルザルカは一瞬だけ眉を寄せた。けれど針を握ると、目が変わる。糸の端を唇で湿らせ、布に刺し、引く。点が一つ、二つ、三つ。最後に、糸でゆるく結ぶ。結び目はほどけにくいようで、ほどける余地が残っている。
縫い終わると、彼女はハンカチを指先で弾いて言った。
「はい。これで、どうなるの」
「汗を拭く。……それだけで、言葉が出ることがある」
「意味が分からないけど、まあ、針の腕は信じていいわよ」
胸を張るタイミングが、彼女らしい。
夕方、床板が戻り、納屋の「ぎし」が消えた。みんなが靴底で一度だけ踏み鳴らし、音がしないのを確かめる。拍手の代わりに、笑い声が広がる。
その笑いの輪の外で、井戸で怒鳴っていた二人が、板の端に並んで座っていた。片方が汗を拭おうとして、手が止まる。言葉も止まる。
エルザルカが、さっきのハンカチを投げた。
「ほら。汗、汚い」
「……お、おう」
受け取った男は、ハンカチで額を拭いた。布が汗を吸う。その瞬間、喉の奥で詰まっていたものが、ふっとほどけるように動いた。
「昨日……言いすぎた。……水、みんなのだ」
言った本人が一番驚いた顔をした。隣の男は、肩の力を抜き、短く息を吐く。
「俺も。……苗、見に行くとき、手伝う」
それだけで、二人の間の空気が変わった。派手な言葉ではない。けれど、言えなかった言葉が出た。
夜、納屋の隅の小さな扉が、風で微かに鳴った。誰も近づかない扉だ。昔、そこを寝床にしていた者が、ある日いなくなったと聞く。名前を出す者はいないのに、扉の前に立つと喉が乾く。
オメオンガは扉の前にしゃがみ、蝶番に油を一滴落とした。音が止まり、空気が静かになる。開けない。今日は開けない。代わりに、扉の下の埃を指で払い、布で拭いた。
ラウが背後から椀を差し出す。湯気が、扉の冷たさを少しだけゆるめる。
「眠れる?」
「……眠れるように、していく」
オメオンガが答えると、ラウは何も言わず、頷いた。
城跡の方向へ目を向けるだけで胸がざわつく――噂は消えない。けれど、井戸の水は戻り、床の音は消え、誰かの喉から言葉が出た。
オメオンガは針の跡が残るハンカチを見つめ、指で縫い目をなぞった。
「明日は、土」
言うと、アドリアンが勢いよく手を挙げた。
「今度は袖、裂かない!」
「そこが一番の進歩だな」
ブラッドリーの軽口に、また笑いが混じった。
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