星座を縫う布ハンカチと、君のいない部屋の蕾
mynameis愛
第1話 井戸の泥と、縄の結び目
ルメリア王国の北端、山あいに挟まれたツボミ谷は、夕方になると冷たい風が落ちてくる。春の終わり、谷の入口の道ばたで、旅装の男がうつ伏せに倒れていた。
薬草籠を背負ったラウ・ワンリンは、膝をついて男の手首に指を当てる。鼓動は弱いが、消えてはいない。彼女は腰の水筒を取り出し、唇を濡らしてから、蕾草の乾葉を一枚だけ砕き、舌の下に押し込んだ。
「飲める? ……返事は、あとでいい」
男は咳き込み、喉の奥で息を探した。かすれた声が、土の匂いに混じる。
「オメオンガ……」
村までの坂道は長い。ラウは男の肩を自分の肩に引っかけ、足を止めるたびに呼吸を整えた。怒鳴る声も、慌てた声も出さない。湯を沸かすときのように、一定の手つきで運ぶ。
翌朝、共同井戸の周りは人だかりになっていた。桶がいくつも並び、畑へ水を運ぶはずの男たちが腕を組んでいる。
「昨日までは出たんだ!」
「お前が夜に使いすぎたんだろ!」
「うちの苗が干上がる!」
声がぶつかるたび、井戸の石枠に響いた。谷は水が命だ。水路が止まれば苗が枯れる。枯れれば冬の食い扶持が減る。誰もが分かっているからこそ、言葉が尖っていく。
井戸の縁に、昨夜まで見なかった旅人が立った。包帯を巻いた腕で、縄の端を指先に絡めて確かめている。オメオンガは桶の滑車を見上げ、結び目を二つ、ほどいた。ほどく前に、ほどけない理由を先に探すような手つきだった。
「縄、これ……石に噛んでる。引くほど締まる」
「だからって、どうするんだよ」
誰かが吐き捨てる。オメオンガは返事を急がず、まず道具の話から始めた。
「鉤が欲しい。あと、短い板。……借りられる?」
沈黙が落ちた。そこへ、胸まで髪を編んだ女が割り込んでくる。エルザルカだった。指先には針山、腰には布切れの束。
「はいはい、道具ならうちの納屋にある。……だからさ、お願い。井戸も、うちの破れた上着も、ぜんぶ直して」
村人たちが苦い顔で笑う。エルザルカは肩をすくめ、針山を指で弾いた。弾かれた針がきらりと光る。
オメオンガは、上着の破れ目を一度だけ見て、視線を井戸へ戻した。
「上着は、あと。まず水」
「ま、そう来ると思った」
エルザルカは唇を尖らせたまま、納屋へ走った。戻ってきた彼女の腕には、縄と鉤と、濡れた板が乗っている。板は途中で水をかけたらしく、光っていた。
「ほら。……返すのは明日でいいから」
オメオンガは板を受け取り、井戸の口に渡して足場を作った。次に鉤を縄へ結ぶ。結び目は短く、ほどくのが簡単な形だ。少年のアドリアンが、隣で目を丸くした。
「それ、どうやって……」
オメオンガは口を動かさず、指で見せる。縄の端を折って輪を作り、鉤の根元に回し、最後に輪へ通す。締めるとき、鉤が回転しない角度で止まった。
アドリアンが真似をして、縄をぐるぐる巻きにした。
「……あれ? 輪、どこ行った?」
「どこへ行ったんだろうな」
低い声が背後から落ちる。ブラッドリーという男だった。口の端に草をくわえ、手を貸す気はないと言いたげに壁にもたれているのに、縄の絡まりだけは指でさっとほどく。
「こうだ。ほら、指を離すな。離したら、また消える」
「消えるって言うなよ!」
アドリアンが泣きそうに抗議し、周りが笑った。笑い声が出ると、井戸の石枠の硬さが少しだけやわらぐ。
オメオンガは板の上に片膝をつき、鉤を井戸へ落とした。底で何かが重く引っかかる。泥だ。縄を引く腕に、谷の全員の視線が集まる。怒鳴り声ではなく、息を飲む音が増えていく。
「引け。……ゆっくり」
オメオンガの声に合わせ、男たちが交代で縄を引いた。泥の塊が、ぬるりと井戸口へ姿を見せる。濡れた土が、古い落ち葉を抱きこんでいる。誰かが顔をしかめた。
「この匂い……」
「上の水路が、崩れて流れ込んだな」
ブラッドリーが口を開く。言い切ったあと、すぐに草をくわえ直し、知らん顔をした。
エルザルカは布で手を拭きながら、鼻を鳴らした。
「じゃあ、直すしかないでしょ。水がないと、私も針が錆びる」
針が錆びるのは困るらしい。言い方が変で、また笑いが起きた。
泥をさらう作業は、昼まで続いた。オメオンガは誰かが疲れる前に順番を変え、桶の縁に布を巻いて手が傷つかないようにした。ラウは少し離れたところで蕾草を煎じ、湯気の立つ椀を差し出す。受け取る者は多くを言わず、ただ、湯をすすって眉間の皺をほどいた。
最後の泥を引き上げると、井戸の底から水の音が戻った。ひと滴が石に当たり、続いて細い流れが糸のように伸びる。桶の中で、波が小さく揺れた。
誰かが「出た」と呟き、別の誰かが黙って桶を満たした。怒鳴り合っていた二人は、顔を合わせずに同じ桶を持ち上げる。言葉はまだ固いが、手は同じ方向を向いた。
水が戻ったからといって、終わりではない。オメオンガは桶を満たす者の列を見送り、井戸の脇にしゃがんで耳を当てた。水の音が遠くで途切れ途切れになっている。
「上の水路、見に行く。二人、来られる?」
名指しではなく、手を上げた者に任せる言い方だった。最初に手を上げたのは、さっきまで怒鳴っていた二人だった。片方が目を逸らし、もう片方が咳払いをする。それでも、足は同じ方向へ向いた。
谷の斜面を登ると、小さな水路が石で組まれている。春の雨で土が崩れ、石の隙間へ泥が押し込まれていた。オメオンガは鍬を借り、崩れた土を薄く削って脇へ寄せる。削りすぎない。根が残るところで止める。そうすると、土は次の雨で全部は流れない。
「なんで、そこまで分かる」
「昨日、道ばたで倒れてたくせに」
二人が口々に言い、言い方がぶつかりそうになった。オメオンガは鍬を止めずに答えた。
「分かるところだけ、やる。……今日は水が必要だから」
短い返事に、二人の声が小さくなる。誰かの正しさを決めるより、今いる場所の泥を片づける方が早いと、手が言っている。
最後に、崩れた石のところへ板を当て、縄で固定した。結び目は、ほどきやすい形。昨日の失敗を思い出したアドリアンが、少し離れたところで自分の縄を握りしめる。今度は輪を消さないように指を開かず、ゆっくり締めた。
「……できた!」
「声がでかい」
ブラッドリーの短いツッコミが飛ぶ。けれど、板を押さえるのは彼の腕だった。押さえながら、わざとらしく鼻で笑う。
「ま、俺がいないと落ちるからな。落ちたら、また揉める。面倒だ」
面倒と言いながら、ちゃんと押さえているので、周りがまた笑う。
夕方、エルザルカの納屋で、焚き火が赤くなった。割り台の横でアドリアンが薪を割り、割りそこねて木片を跳ねさせた。
「いってぇ!」
手を振る少年に、ラウが湯を注いだ椀を差し出す。
「飲んで。熱いから、息して」
アドリアンは頬を膨らませながらも言われた通りに息を吐き、湯をすすった。蕾草の匂いが鼻を抜け、肩がふっと落ちる。
オメオンガは、納屋の床板の端を指で押した。ぎし、と音が鳴る。隅に積んだ干し草がわずかに沈み、埃が舞った。
「床、危ないな」
「でしょうね。だからお願いって言ったじゃない」
エルザルカは言いながら、破れた上着を針でつまみ、縫い始める。丸投げの口調なのに、縫い目は細い。針が進むたび、彼女の背筋が少しずつ伸びていく。
谷の奥、城跡の方向へ目を向けると胸がざわつく――そんな噂を、ラウは何度も聞いている。けれど今は、錠の音と、針の音と、水の音が近い。
オメオンガは縫い直された袖口を指でなぞり、納屋の床に座った。天井の隙間から見える空はまだ青い。彼は目を閉じ、短く息を吐く。
「……今日は、流れが戻った」
独り言のような声に、エルザルカは針を止めずに言った。
「明日は、床」
返事は短い。だが、縫い目は真っすぐだった。
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