第9話 Under Stars
範洲はクンネと共に父、
途中、クンネに何度も味見をねだられ、少々辟易しながらも、手ぶらでは戻れず寄り道を重ねた末の到着だった。
神社の山桜は見頃と呼ぶには、少し早かったが白い花弁と赤い若葉が社を彩り、春の訪れを祝っていた。
拝殿を覗くと、白い小袖に緋袴という巫女装束に身を包んだ
「あら、ハンス、少し遅かったみたいね」
「来るって連絡してないけど。姉さんはちっとも驚かないね」
「何となく今日辺り、こっちに帰ってくるかなって」
「姉さんはいつもながら、勘が鋭いね」
範洲は父親の姿を探して辺りを見回した。
「父様は?今日はいないの?」
「春の祭りが近いでしょ。会合ですって。さっき
クスッと笑顔を浮かべ、有栖は範洲の突然の来訪の理由を聞いた。
「ハンス、父様に何か聞きたいことでもあった?」
「うん。ちょっとね」
「あら、珍しい。ハンスがそんな事言うなんて。今日は泊まっていくのでしょう?明日にでも父様にお尋ねなさいな」
有栖は範洲の肩に乗ったクンネの頭を優しくなぞった。
範洲は春祭りの準備を押し付けられた有栖に同情していた。
この一番忙しい時期に神主である父親が「ちょっくら会合に行ってくるぜ、有栖よぉ、後は頼む」などと言って毎年雑事を放り出して飲みに行くというのは余りにもしだらない。
範洲の暗い表情に気がついた有栖は慌てて首を振った。
「大丈夫よ、父様は祭りの細かなことはしないけれど何時も上手くいってたでしょ」
確かに、父親は妙に人望が有り、何が起こっても良い仲間たちのお陰で全て結果良しとなっていた気がする。今度の春祭りも的屋の親分さんの差配で上手く事が運ぶのであろう。
「あ、クンネっ!」
クンネは有栖にひょいと飛びつき、大人しく抱っこされて顔を見上げている。
「姉さん、コイツ喋るから、驚かないでくれよ」
「知ってた。家の神社の外で昔から見掛けていたもの、ねぇクンネ」
有栖はクンネの背中をさすりながら、微笑む。
「はぁっ?」
範洲は慌てて手にした土産の干物を取り落としそうになった。
「むぅ。嬢ちゃんは知っておったか。ワシが度々ここを訪ねていたのを」
目を三角にしてクンネは観念した様に口を開いた。
「ふむ。仕方ない、それでは坊ちゃんと嬢ちゃんに色々と昔話でもしてしんぜよう。まずは
食いしん坊の猫又はそう言うと、横目で干物を見て舌なめずりをするのであった。
ささやかな夕餉のあと、範洲が買ってきた干物をお裾分けしてもらい、腹がくちくなったクンネは、縁側で姉弟を前にゆったりと座った。
夜気はやわらかく、山桜の香りがふわりと漂う。静けさの中、庭の草木を揺らす小さな風の音と、遠くで虫の声が混じって聞こえる。空には、雲ひとつない夜の闇を背景に白い月がぽっかりと浮かび、その光が縁側までやさしく射し込んでいた。
クンネは一息つき、酒の盃を舐めるとぽつりと語り始めた。
「……嬢ちゃんと坊ちゃんの母君に出会ったのは、あの子が七つぐらいの頃じゃったな」
声はどこか懐かしげで、盃の中の酒が月を映して揺れる。
「その頃のワシは、猫又の頭領になったばかりで、まだまだ力も弱かった。腹を空かせて、この神社の前でふらふらしておったところを……助けてくれたのが、あの子じゃ」
「え! 母様を知っていたのか?」
「そうじゃよ。あの子は、しばらくの間、こっそりと食事を分けてくれてな。白いご飯に、ほんの少しの魚のほぐし身を混ぜたやつ……。あれがどれだけ嬉しかったか」
クンネの声が、微かに細くなり、勢い良く盃を空にする。
「ふふっ、母様らしいね」
有栖はそう言って、そっと酒を注ぎ盃をクンネの前に置いた。
クンネは礼も言わずに盃を舐め続ける。
「ところが、そのことが当時の神主、お主らの爺様に知られてしもうた」
言葉に少し苦みが混じる。
「母君はワシを庇って、ここで飼うと言ってくれた。けれど神主は、陰陽師としての才も大したことがなかったくせに、頭は固くての……妖を神社に置くなど言語道断と、山へ放り出したんじゃ」
「爺様、ひでぇ……」
範洲は苦笑したが、どこか胸の奥に小さな痛みを覚えた。
「母君は何度もワシに詫びたよ。世話になった恩も返さず離れたくはなかったが……逆にワシのほうから尋ねたんじゃ。『ワシにできることはないか』とな。するとあの子は、不思議なことを言った」
クンネは小さく目を細め、盃の縁を指で撫でた。
「自分の子供たち三人を守ってほしい――特に、一番下の男の子は猫さんを頼りにするから、良くしてやってほしい、とな」
その言葉に、範洲はわずかに息を呑む。
「……坊ちゃん、母君は
範洲が有栖へ顔を向けると、有栖は静かに頷いた。
「ちなみに、母君がワシに『クンネ』という名をくれたのじゃ。……そういえば、ここから追い出されたのも、こんな月の綺麗な夜だった」
クンネは盃を傾け、酒面に映る月をしばらく見つめた。光が揺れ、その横顔を淡く照らしていた。
翌朝、大きな欠伸をひとつして現れた葉舟は、まだ酒の匂いをぷんぷんさせていた。寝癖で跳ね上がった髪はまるで山の雑木林、額には昨夜の宴で鉢巻にした手拭いの跡がくっきり残っている。
作務衣は胸元がはだけ、帯はゆるゆる、足袋も左右ちぐはぐだ。
湯呑茶碗に井戸水をなみなみ注ぐと、ぐいっと一息で飲み干し、口の端から水滴を零しながら「ぷはぁ!」と声をあげる。
声は酒で焼けて少し掠れているが、無駄に通る。
「ん? 聞きてぇことっつうのは、何だ?」
胡座をかいた足元には、昨夜から脱ぎ散らかした羽織がくしゃくしゃに丸まっており、祭り仲間と夜通し騒いでいたのだと一目でわかる。
それでも、範洲が問いかけると、葉舟の目がふっと鋭くなった。普段は豪放磊落、呑んだくれの神主だが、必要なときだけは祭の采配も人心掌握もそつなくこなす――そんな矛盾めいた男の顔が、そこにはあった。
「ナマズと言えば、父様は何を連想されますか?」
茶虎の猫の記憶を読みとって、一番気になっていた言葉から範洲は聞くことにした。
「なんでぇ、一体全体!変な事を聞くなぁ」
面倒臭くなったのか薬罐に入った水で喉を潤すと葉舟は続けた。
「ナマズ?江戸で流行った鯰絵ってか?……うーん。それか要石なっ!この辺りだと鹿島、香取のが有名だな!地震を鎮める石として、
胡座をかいて記憶の糸を辿りながら話す今日の葉舟の声は、酒焼けした上に無駄に大きい。
「鹿島神社と香取神社に有るんですか……」
地図にあった点とおおよそ符合していたな。
「あとは、何処にあるんです?」
「思い出すから……ん、ちょいと待て……宮城!それとな、三重!」
これも地図にあった点と符合する、などと範洲が頭を巡らせてると誰かが玄関先で訪いを入れていた。
有栖が玄関で来客の応対をしている声が聞こえる。
しばらくすると居間の襖が開き、ただならぬ様子の有栖がやって来て火急の用を告げた。
「蓬莱一家の
葉舟の顔色がみるみるどす黒くなっていくのが傍目でも分かった。
「ん……ハンス、黙っていて悪かったな。ええと……何だ、あれだ……」
葉舟の言葉は、ぼそぼそと妙に歯切れが悪い。
「要するに、あれだ、ハンス、お前さん、よ、嫁を貰う気はねぇかい?」
「はひっッ?」
余りのことで範洲の口は素っ頓狂な音を発してしまった。
有栖はほんのわずかに口の端を引き攣らせてじっと葉舟の顔を凝視している。
「……父様、私たちに内緒で縁談を進めたのはこれで二度目ですよ。……前も、これに懲りたと仰いませんでした……か?」
(今……嫁って、さらっと犬猫を貰うみたいに言ったよな。ね、姉さんもその口調怖いよ……)
以前、葉舟は有栖の縁談を酔った勢いで勝手に決めてきて、大騒ぎになった事を範洲は思い出した。有栖の怒りは相当なもので、家を出ていくとまで言わしめ、結局事態を鎮めるまでに数か月の時間を要したのであった。
そんな騒ぎを聞きつけ部屋に入って来たクンネが気のせいか、背中越しにニタリと笑った様に見えた。
有栖の案内で、蓬莱一家の銀午郎――八島銀午郎は客間に腰を据えていた。関東一円を牛耳る的屋で、
背は高くないが、和服越しにも厚い胸板と腕の筋が覗く。若い頃には「鉄扇の銀」と呼ばれ、ひと振りで荒くれ者を沈めたと噂される武闘派だ。膝の上の鉄扇をパチリと鳴らすと、瞼を閉じて葉舟の到着を待った。
十数年来の知己である葉舟が、また昨晩ものらりくらりと約束の話を避けた。それが今朝、銀午郎をここへ押し出した理由だ。今日こそは白黒つける。もしうやむやにされるなら、春祭りの下働きなど知ったことではない。
思い返せば、事の始まりは十数年前。祭りの席で酒を酌み交わし、葉舟が「俺には息子がいる。お前には娘がいる。これも縁だ、許嫁にしようじゃねぇか」と持ちかけ、銀午郎も「おうよ」と即座に承諾した。泥酔の戯れ言にしては、妙に心に残った約束だ。
障子が音を立てて開き、葉舟が入ってきた。先程までの狼狽は影もなく、飄々と笑っている。
「よぉ、銀午郎。待たせて済まねぇな。で、今日は何の用向きでぇ?」
「葉舟。今日という今日は、逃げられねぇぞ」
鉄扇をパチン。笑っているのに、背筋が自然と伸びる圧が客間を満たす。
「おいおい、そう気色ばむなよ」
葉舟も、範洲に黙って縁談を決めていた負い目がある。下手をすれば話し合いの余地がなくなる。ここは慎重に――と思った矢先。
襖が勢いよく開き、範洲が土下座で飛び込んできた。
「銀午郎小父さん!俺、まだ嫁を貰えません!!御免なさいッ!」
「ハンちゃん!?なんでぇ、藪から棒に!」
「銀午郎!すまねぇ!許嫁の件、白紙にしてやってくれッ!」
葉舟も慌てて並び、畳に額を擦りつける。
「約束を反故にして申し訳ねぇ!堪忍してくれッ!」
しばし二人を見比べた銀午郎は、ぷっと吹き出すと腹を抱えて笑った。
「……ハンちゃん、立派になったなぁ。それに比べて葉舟は相変わらずだ」
範洲と葉舟が顔を上げる。
「こっちこそすまねぇ。今日は破談を言いに来たんだ。娘に『勝手に決めないで』って叱られてよ」
「え!? それで来たのか!」
「おうよ。きっちり話しておきたくてな。それなのにお前、いつもいつも話をはぐらかしやがって」
「この馬鹿野郎、縁談を進める話かと思ったじゃねぇか!」
「このすっとこどっこい!人の話を聞かねぇお前が悪い!」
笑い声が障子の向こうに広がっていく。外からは祭囃子の練習が聞こえ、範洲はふと、自分が確かに実家へ帰ってきたのだと胸の奥で感じた。木漏れ日のような温かさが、心に染みていった。
同じ頃、東京――
満開の桜が春の光を浴びる昼下がり。東亰警視庁の受付に、場違いな来訪者が立っていた。
「ここに、上水流利国が居るって聞いたんだけど」
二十代前半ほどの外国人女性。ストロベリーブロンドの髪に、エメラルドの瞳がきらりと光る。シルクハットにゴーグルを載せ、細身のテイルコートのヴェストを纏い、背丈ほどの大きな旅行鞄を二つ足元に置いている。どうやら日本に着いた足で、真っ直ぐここへ来たらしい。
「エ、エート……カミヅルハ、ココニイマセン」
英語に不慣れな受付職員は、ぎこちなく答える。
「居ないって!? どういうことよ」
「キュ、キュウカデス」
(信じられない!……手紙に『今日着く』って書いたのに!)
女性は怒りを隠さず手帳を開き、ペンを走らせてページを破る。
「利国が戻ったら渡して。ジョーの機嫌を直すなら早いほうがいいって、伝えて」
「ハ、ハイッ!」
その剣幕に、警察官の威厳も形無しだ。
ジョーと名乗った女性はくるりと踵を返し、大きな鞄を軽々と持ち上げて玄関を出た。突風が吹き抜けた瞬間、その姿は春霞のように溶け、残されたのは――ひとひら、ふたひらの桜の花弁だけだった。
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