第7話 Teardrinker

 「いざ、推して参るっ!」


 弾け飛んだ鎖の破片を躱しながらクンネは子猫の姿から、本来の巨大な身体に姿を変え熊と対峙した。

 ぬばたまの闇に溶けるような熊――いや、熊の皮を被った異形と言うべきか。

 毛並みは煤けた黒に沈み、体格は並の熊を遥かに凌ぐ蠢く闇の塊が、のしり、と近づく。

 クンネの変容に意表を突かれた熊はすぐさま、身体を大きく見せようと立ち上がり

「ふぁーァ!ふぁーァ!!」と大きく威嚇音を出した。


「貴様は力に任せて前足を振り回すのじゃろ」


 クンネは首筋を狙う一撃を事も無げにふわりと躱す。この五本の爪に触れれば肉を削ぎ落とすぐらいでは済まない。


「クンネっ!大事なかかっ!」

「利国殿のその人斬り包丁でも、此奴にはてこずるぞよ」


 抜き身の刀を蜻蛉に構えた利国は今にも熊に飛びかかりそうな気迫に満ちている。

 クンネは目で利国を制して、

「引導をワシが渡してやろうぞっ!」


 と全身に力を漲らせ筋肉を一気に増大させると、攻撃を躱された熊が四つん這いになったところを見計らい、頭部に前足によるハンマーの如く重い連撃を繰り出した。


「ぐぉうっ!」

 一打目で熊の首の骨はぼきりと折れ、二打目で頭骨を粉砕、三打目で脳漿が熊の鼻から吹き出し、四打目で辛うじて脊髄に繋がっていた頭部が向こうへ千切れ飛んで行った。

 すかさず範洲は霊符を放ち真言を唱え、熊の身体を縛り上げた。


「坊ちゃん、そのまま縛り続けるのじゃ!」


 熊を縛り上げた霊符は光を帯び、切れそうになるギリギリのところで熊の姿は煌めく光の粒となり、ふっと消え失せた。


「送ってやれたのう……」

「終わったのか?……」半信半疑の範洲がクンネに問いかける。


「……うむ。望まぬ形で生を終えたが、これで良かったんじゃよ。じゃがの……此奴をこんな風にしたヤツには反吐が出る思いじゃ!!」


 クンネの両のまなこは怒りに満ち、身体から触れられないほどの熱を発して、範洲ですら掛ける言葉を失ってしまった。


「魔術によって呼ばれた存在が消滅すっと、そん事は術者にも伝わっちょる。なんか仕掛けてくっぞ」

 利国はそう言うと、倉庫の外にざっと駆け出した。


 もうすっかり日は暮れて、辺りは街灯と船の航海灯で仄かに照らされ、波音が波止場を騒めかせる。

 利国は周囲を見渡し、こちらに向かって駆けて来る数人の姿を視界に捉えた。


「上水流サン!大丈夫カ?」

 どうやら梁の部下達のようで、利国を囲み無事を確認していた。

 その中には幾人か見知った顔も混じっている。


「ああ、こっちは無事じゃ。おはんたちは戻って、街ん警備にあたった方が良か。次の襲撃が……」

 と利国が言い終わる前に、目の前の声を掛けてきた男の体が青白い炎に包まれた。


「ギャアァァ!」

「!!!」

 利国を除いて次々と周りの男たちが絶叫と共に青白い炎によって炭と化した。


「……そこの……サムライ。君が僕のテディを殺したんだろ?」


 いつの間にか、利国の三けん(約五・四メートル)先にプラチナブロンドの髪色の男がゆらりと俯いて立っていた。

 (コイツが、由良さんを……)


「……どうせテディは捨てちゃうつもりだったけど。でもね、僕以外がお気に入りのおもちゃを壊しちゃうのは……」


 指を鳴らしたと同時に、その男、バラム・ブーンは青い火球を利国に向け撃った。

「……許せないねッ」

「くっ!」


 反射的に利国は迫る火球を受け身を取ってギリギリで躱した。どうやら少しでもこの青い炎に触れると消せない火災が起きてしまう様だ。

 バラムは間合いを詰めながら、火球を次々に撃つ。


「ヒューッ!!肉や脂の焦げる臭いって、たまらないよねぇ!!サムライ!!」


 辛うじて刀で軌道を逸らし火球の直撃を利国は避けた。軌道の変化した火球の一つは範洲たちの居る赤煉瓦の倉庫に吸い込まれた。


「しもうた!」


 倉庫の窓からは青い炎が吹き出し、爆ぜる音が聞こえるのと入れ替えにクンネの背中に乗った範洲が飛び出した。


「ふぅ、危ねぇ、危ねぇ」

 範洲もバラムの姿を確認し、クンネの背中から降りて防御のための邪気返しの形代を放った。


「簡単にやられてたまっかよっ!」

「ハンス!そいつの炎の魔術には気をつけぇぇ!」


 利国はバラムの執拗な攻撃に押し込まれつつある。

「ほら、サムライ!かかってこいよぉ!!その刀は飾り物かい?そう言えばこの間も刀を振り回してテディに食い殺された愚かなサムライがいたなぁ!!」


火球が容赦なく連射される。利国の頭、胴体、腕、足に同時に命中し、周囲にいた範洲たちは利国の身体が燃え盛る炎に包まれる光景を想像した。


「そらっ、サムライの丸焼きだぁぁ!」

瞬きの間に、利国の姿は朧げに消えた。

「一閃 ……」

示現流の足技である「一閃 」は、瞬時に高速移動し相手の間合いに飛び込む神業とも言うべき技術だ。利国は魔力を足に集中させ、それを研ぎ澄ました。

気配も音もなく、彼の姿がバラムの目の前に現れた。


「……おいが言葉を解らんと思っちょるな。英国人 ジョン・ブル、良いモンを見せてやろう」

その声は冷徹かつ流麗な英語で響いた。

バラムは火球を躱しながら先を走っていたが、突然目の前に利国が現れ、虚を突かれた形となった。

玉響たまゆら……」

利国はそう呟くと、バラムの右腕が手首からぽたりと地面に落ちた。何が起きたのか理解できぬまま、次に右肘、右肩が断たれていく。


「えっ???」


次々と襲う激痛と流れる鮮血に、バラムは本能的な恐怖を感じた。

それは、目の前の男が攻撃する瞬間を一瞬も視認できなかったことに起因していた。


「き、貴様ァァァァァ!!何を!何をしたァァァァ!!」


バラムは左手で噴き出る血を抑え、絶叫する。赤い滴がプラチナの髪を汚す。

何が起きたか理解できぬまま、目の前のサムライは刀を構えて立っている。

抜刀の瞬間すら見えなかった。

足元には三つに裂かれた右腕が転がる。

(この場から逃げ出さねば……マズい、マズすぎる)


バラムは怒りと恐怖を燃やしながら胸のポケットからモルヒネ錠剤を数錠取り出し、硬い殻を砕くように口に放り込んだ。


「バラム!フラッシュボムだ!!」


背後からウアル・エントウィッスル の大声が響き渡る。

促されてバラムは左腕で目を覆った。

利国とバラムの間に細長い金属製の筒が放り投げられ、地面に接触した瞬間、「ばんっ」という破裂音とともに、眩い閃光が周囲を昼間のように照らし出す。


「くそっ!目がっ!」

利国の視界が眩い光のため真っ白になった。機を伺いながら、ウアル は羽織っていたトレンチコートを脱いでバラムの身体を覆い隠すと、炎の中へと逃げていった。

その激しい光は利国のみならず、近くにいた範洲やクンネの視力も奪い、身動きも取れぬほど身体を硬直させた。

「なんじゃ、この光は!!」

「畜生!何も見えねぇ!」

ウアル はバラムを逃した後、ここで戦闘力の一番低いと思われる範洲を排除しようと動き出した。

「ボーイ、悪く思うな」

範洲の斜め前に位置を取り、斜めに踏み込む反動で床を強く蹴り、身体全体の力を込めて右足を高く上げて範洲の首筋に鋭い蹴りを叩き込んだ。

ハイキックが決まると思われた瞬間、誰かに足首を掴まれた感触が走り、攻撃は阻止された。

「――護れ。八色雷公やくさのいかづち!」


範洲の詠唱が夜気を裂いた。

その瞬間、彼の足元に広がる陣が青白く閃き、空気が一変する。

形代たちが震え、墨のような煙となって宙へ舞い上がった。


煙はやがて、八筋の稲妻となって絡み合い、ひとつの巨大な影を形作る。

雷鳴が大地を揺るがし、範洲の外套が爆風に翻った。


姿を現したのは――八体の雷蛇。

その身体は黒曜石のように艶めき、鱗一枚ごとに電光が走る。

八つの首が天を仰ぎ、咆哮のような振動が空気を裂いた。

その頂にあるのは、朽ち果てた人の髑髏。

雷の蛇神はそれを仮面のように戴き、範洲の背に影のように従う。


「なんだ……この怪物はっ!」


ウアルが叫んだ。

彼の声は震え、恐怖と怒気が混ざり合う。

だが次の瞬間、雷蛇の尾が閃き、轟音とともにその身体を絡め取った。

締め付けは容赦がない。

雷が皮膚を焼き、関節が悲鳴を上げる。

骨が軋み、筋が切れ、乾いた破砕音が静寂を支配した。

「ぐぉぉぉッ!!」

血と唾を吐きながらも、ウアルは抗う。

だが、範洲の目は冷ややかだった。

瞳に宿るのは、理を越えた静謐な意思。

「おめぇが何を言っているか分からねぇが……今から記憶を覗かせてもらう。拒めば精神崩壊だ。」

範洲はゆっくりと歩み寄る。

焦げた匂いの漂う中、雷蛇が彼の背後で蠢き、八つの瞳が同時に光を放った。

倒れたウアルの額に範洲は掌を置いた。

触れた瞬間、肉体の境界が溶け、意識が闇の底へと沈む。

霊の膜を越え、記憶の淵へ――。

「や、やめろぉぉぉッ! 俺を見るなぁぁぁ!」

ウアルの叫びが反響する。

範洲は静かに呟いた。

「うるさい。暴れるな。」

その声は雷の奥に潜む神の声のように重く、響いた。

八色雷公がさらに唸り、八つの閃光がウアルの四肢を封じる。

骨が崩れ、神経が悲鳴を上げ、肉体と魂の境が曖昧になる。

範洲は腰に宿る雷神の一柱を引き寄せた。

稲妻の紋を指で撫でると、それが蛇の舌のように動き、光の帯となって彼の掌を包む。

そのまま、彼はウアルの口に押し込んだ。

閃光が走り、声が焼き切られる。

静寂。

ただ、雷鳴の鼓動だけが辺りを支配していた。

背後で見守る子猫――クンネが、小さく舌を鳴らす。

「坊ちゃん……伊邪那美いざなみに纏いし雷神を使役するとは、何とも出鱈目な力じゃのう」

範洲は微笑を浮かべた。

「出鱈目でもいいさ。こいつの記憶の底を見届けるまでは――」

再び光が走る。

雷蛇の眼が白く燃え上がり、範洲とウアルの精神がひとつに沈んでいった。

世界が裏返り、視界が闇へと飲まれていく。

そこは――禁忌の記憶領域。

かつて誰も見たことのない、『堕天』の記録の始まりだった。


 

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