第6話 Kveikur

 範洲たちが賑やかに食卓を囲んでいたその日の深夜、中華街の一画で起こった火災は店の内部と、外の塵芥箱ごみばこの中味だけきれいに燃やし尽くすという、地元の消防署も首を捻る不可思議事象が発見された。原因も何なのか一切判らないあり得ない現象で、しかも近所の誰も彼も、火事があった事に気づかないという有様であった。警察と消防が現場の検分をしても焼け跡は全てが灰になっており遺体の一部すら発見できなかった。

 

 不審火の件はリャンの部下によって範洲達の宿泊先に、二人が朝食を摂っている最中にもたらされた。

 範洲からバターをたっぷりつけたパンを貰って、今まさに食わんとしていたクンネは不満の声を漏らした。


「食事の邪魔をするとは、何と不粋なヤツめ」


 利国は梁の部下から現場の状況を訊くなり、顔を曇らせ、取るものも取り敢えず範洲を連れて現場に急いだ。

 現場を見るなり利国は、未だ残る魔力の残滓を見て確信した様に範洲に告げた。


「ハンス、これは魔術師の仕業じゃ。きっと俺たちが追っているヤツに間違いなか」

「えっ?見ただけで利国さん、分かるんですか」

「魔力っていうのは使った後、少しの間痕跡が残る。どうやら、高位の火の魔術を使うたようじゃ。店の内部だけ綺麗に燃やし尽くして……普通の火事じゃ絶対にこんな風にはならん」

「そう言えば、燃え残りが全く無いですね」

 店の入口越しに、中を覗き込み範洲は頷く。


「坊ちゃん、雪風と時雨にも怪しい人物が居なかったか、今調べさせておる」

 何を思ったか、クンネは範洲の鞄から飛び出して、店内に入り裏口へ駆け抜け抜けて行った。うっかり小さな身体を見失いそうになる。


「おい、待て、クンネ!」

 店は警察と消防によって立ち入り禁止になっていたので、慌てて範洲も裏口へと回り込む。

「ほほう、ここを襲った怪物はどうやら図体のデカい熊のようじゃの」

 裏口に残る木製のドアの残骸に鼻を近づけ、クンネは呟いた。ドアにはまだ新しい大きな爪痕も生々しく残っている。


「……獣が血に飢えおって、不憫なものじゃ。のう、坊ちゃん」

 クンネは範洲の方に駆け上がった。

 少し遅れて裏口に現れた利国は範洲たちに、ここを襲った熊の存在を伝えられた。そして色々と準備のため、一旦東亰に戻ると言い残し、急いで踵を返した。

「利国さん。俺たちも出来るだけの事は備えておきますんで、後で宿で合流しましょう」

「ああ、くれぐれも独断専行だけはしないでくれ」


 利国の背中を見送りつつ、クンネはわくわくした声で範洲に催促した。

「では、ワシらは宿に戻って飢えぬよう、食事の続きを楽しもうではないか。腹が減っては戦はできぬと言うじゃろ」

「あ、わりぃ。もう下げていいって言っちまった」

「な、何じゃとぉぉぉっ!」

 クンネは前足で範洲の頬をペタペタと叩き、恨めしそうな顔をして嘆き悲しんだ。


 昼を少し過ぎたころ。

 範洲とクンネは、港近くの食堂で遅めの昼食を終え、ようやく一息ついていた。

 海風が窓を抜け、スープの湯気を攫っていく。


 そこへ、元町と山手を中心に聞き込みを続けていた雪風と時雨が戻ってきた。

 二人の足取りには確かな手応えがあり、範洲は思わず立ち上がる。


 「雪風、時雨、でかしたなっ! よくやった、ほら――これでも食べて一息ついてくれ!」

 範洲は鞄から猫用チューブの新品を二本取り出して、それぞれに差し出した。

 袋には大きく《焼かつお味・徳用》の文字。


 雪風は一瞬きょとんとしたが、すぐに微笑んだ。

 「まぁ……人の姿でございますと、皆さま本当に親切にお話してくださいますの。

 あの……範洲様、これ、戴いても……?」

 言葉こそ控えめだが、その青い瞳はチューブに釘付けである。


 隣で時雨がぐっと息を呑んだ。

「は、範洲殿っ……! こ、これは帝都でも噂の……“猫用チューブ”ではありませぬか!?しかも――徳用のっ!!」

 目を丸くしたまま、まるで戦場の武功のごとく震えている。


 範洲は思わず吹き出した。

 「……おまえら、そんな姿で食うと違和感すげぇから。せめて猫に戻ってからにしろよ」

 「申し訳ございません……でも、もう少しだけ……」

 雪風はチューブの端をそっと押し出し、うっとりとした表情で舐め取った。

 「ふにゃぁ……この香ばしさ……久方ぶりでございます……」


 時雨も負けじと一口。

 「むっ……これは……まことに戦の後の膳に匹敵いたす……」

 言葉とは裏腹に、尻尾があれば確実に立っている勢いである。


 範洲は苦笑しながら、横で顎をしゃくった。

 「坊ちゃん、ワシには?」

 「何言ってんだ、さっき昼飯食ったろ」

 クンネが口を尖らせると、雪風と時雨が同時に振り向いた。


 「お館様!」

 「常々、我らに申されておいでではありませぬか――」

 雪風がぴしりと扇子を閉じ、時雨が続く。

 「『働かざる者、食うべからず』と!」

 「……む、むぅぅ」

 さすがのクンネも小さく唸って黙り込んだ。


 範洲は笑いながら話を戻す。

「で、例の二人組は何者だった?」


 雪風はチューブをちびちび舐めつつ、淡々と報告した。

 「製薬会社の方々という触れ込みで、ここ最近横濱へ参ったそうですの。山手に住居を借りておりますが、勤めに出る様子もなく……ご近所付き合いも、ほとんどなされていないようですわ」


 続いて時雨が、少し得意げに頷く。

 「地元の猫どもに聞いた話では、港の波止場にある貸倉庫を行き来しておるとか。

 時折、食料らしき荷を運び込む姿も見たと」


 範洲は腕を組み、唸った。

 「なるほど……。利国さんが戻ったら、どっちかに張り込んでみるか。その前に梁さんにも一言伝えておこう。中華街の顔役に筋を通しておいた方が何かと楽だ」


 雪風は軽く礼をして微笑んだ。

 「承知いたしましたわ。梁殿も、わたくしたちの報告をお喜びになるでしょう」

 時雨はチューブを飲み干して、きっぱりと一礼する。

 「此度の働き、無駄にはいたしませぬ。殿の御策、しかとお預かりいたす」


 昼下がりの港町を、潮の香りと遠い汽笛が包み込む。

 その静けさの中で、三人と一匹の間には小さな連帯感が芽生えつつあった。

 


 利国が宿に戻って来たのは、すっかり夕暮れ迫る頃であった。制服を着込み、刀を携えていた。

 範洲は早速雪風と時雨が得た情報と、梁にも既に話を通しておいた事を利国に伝えた。

「そんなら、まず、波止場の倉庫に張り付いてみるか」

「そうっすね。俺はどっちかと言えば人より熊を相手した方が良さそうだし」

「ハンス!そりゃ本気かっ!やられたらひと溜まりもないぞっ!」

「ええと、これでも一応陰陽師なんで、化物や妖が専門分野なんですよ」

「おっ、そうじゃった。つい忘れちょった。では、行くか」

 波止場の倉庫群は日中の賑やかさが嘘の様に静まり返っていた。波止場に停泊する船にも人影はなく、一日の仕事を終えた人々は、明日への英気を養うために盛り場へ繰り出している。

 日が傾いてぽつん、ぽつんと街灯に火が入り石畳を淡く照らしていく。

 目当ての倉庫は波止場の外れにあった。赤煉瓦造りで正面の鉄製の大きな扉にはそれに合うだけの巨大な錠前が掛けられており扉を開けて中を覗く事が出来ない。

「坊ちゃん、利国殿、どうやら大当たりじゃ!」

 クンネが壁を器用に駆け上り、するりと二階の窓の隙間から中に入り込んだ。

「無茶すんなよっ!」

 範洲がどうやって倉庫の中に入り込もうかと思案している間に、利国は特殊警棒をひゅんと振り出し、正面扉の錠前に向け腕を一気に振り下ろした。金属の打撃音が響いた後、呆気なく錠前の固定が外れその場にぼとりと落下した。


「すげぇ!」

「……中に入るぞ」


 かんぬきを外し、鉄製の扉を片方だけ開けて二人は中に侵入した。暗い倉庫に目が慣れた頃、鎖に繋がれた巨大な熊が目に入った。がしゃりと鎖を引き摺る音、獣の息遣いと濃厚な臭いが薄暗い倉庫の中を満たしていた。


 ゆっくりと範洲は熊が襲いかかっても大丈夫な様に距離を計算して近づく。

 既にクンネは熊と正対し睨み合っていた。利国は辺りを見回し警戒を緩めない。


「クンネ!コイツか?」

「そうじゃ、坊ちゃん。……もうコイツは野生にも戻れぬ」

「ハンス!クンネ!罠だっ!その鎖には魔術がかけられておるぞっ!」


 どうやら一定の距離に近づくと熊を拘束する鎖が解放する様、仕掛けを施していたようだ。

 鎖は自らが噴出した金色の火花に覆われ利国が叫ぶのと同時に四方に弾け飛び、黒鉄の雨飛礫が範洲達を襲った。


 

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