第5話 Mine All Mine
横濱の空は茜色から群青に変わり、店先の紅いランタンが灯り始めるころ。
範洲と利国は二日目の夜を迎えていた。
昼は山手の旧外国人居留地を巡ったが、成果はなかった。
異国人の出入りが多いこの地なら、何らかの目撃談があると思っていたが、空振りに終わる。
「……ま、そう簡単には見つからんか」
利国が肩を竦めた。
範洲は気落ちを隠すように笑う。
「明日また当たってみましょう」
梁は「高級店でもてなしたい」と申し出たが、利国が固辞し、範洲と利国は路地裏の街の調理人たちが集う小さな店へ入った。
鉄鍋の音と湯気、煙草の煙と油と香辛料の匂いが入り混じる。
厨房からは油が弾ける音。客席では中国語が飛び交い、狭い空間が生き物のようにざわめいていた。
「
利国は器に湯気立つ餃子を並べ、小皿に醤油と唐辛子の粉を混ぜて渡した。
「うわっ……香りがすげぇ」
範洲は箸でつまみ上げ、つるりと口に放り込んだ。
「あっつ!!」
「ばかたれ! 一口で頬張る者があるか!」
利国が呆れ、笑う。
範洲は口を押さえながら、それでも嬉しそうに言った。
「皮がもちもちで……肉汁がすごい、うめぇ!」
ニラと肉の旨味が溢れ、熱気が舌に残る。
範洲は夢中で次の餃子へ箸を伸ばした。
その瞬間、範洲の鞄がもぞりと動いた。
前足がにゅっと伸び――餃子が一つ、見事に掠め取られた。
「雪風や時雨にも食わせてやりたいのう」
「クンネ!」
「坊ちゃん、餃子のひとつやふたつ良いではないか。食い物に意地汚くてどうする」
猫又は満足げに頬張りながら言う。
利国が目を細めた。
「ところでクンネ、雪風と時雨っちゅうのは何者なんじゃ?」
「ワシの嫁じゃ」
「なっ――!」
二人は揃って声を上げ、餃子を喉に詰まらせかけた。
「子猫のくせに嫁ぇぇ!?」
「何を驚く。若い者には“聞けば気の毒、見れば目の毒”というもんじゃ」
クンネは鞄の口から顔を出し、ふふんと鼻を鳴らす。
「……噂をすれば影じゃ」
その言葉と同時に、店の扉が開いた。
風鈴が鳴り、ランタンの灯が揺らめく。
そこへ、ふたりの女が音もなく現れた。
一人は白い洋装に金糸の髪――雪風。
「お邪魔いたしますわ、範洲様。……ご相伴にあずかっても、よろしゅうございますか?」
その仕草は完璧な礼儀を保ちつつも、どこか小悪魔的だ。
もう一人は黒の和服に身を包み、高く結んだ髪が凜としていた。
瞳は夜明け前の刀身のように鋭く――時雨。
「無礼いたす。利国殿、御膳に加わらせていただく」
声の調子は低く、芯がある。武家の女そのもの。
店内の空気が一瞬で変わった。
誰もがふたりの姿に目を奪われ、ざわめきが遠のく。
まるで異国と古都、二つの美が肩を並べて現れたようだった。
「……」
範洲と利国は思わず背筋を伸ばす。
「雪風、時雨、坊ちゃんと利国殿が餃子を御馳走してくれるそうじゃ」
クンネがしたり顔で言う。
「はぁっ!?」
「お邪魔でしたか? 範洲様?」
「時雨との食事は、お嫌か? 利国殿?」
雪風と時雨、それぞれが柔らかく首を傾げながらも、瞳の奥には冗談の色ひとつない。
「クンネっ、なんとかしてくれよ!」
範洲が小声で叫ぶ。
クンネは涼しい顔で尻尾を揺らした。
「女性の一人や二人に取り乱すでない。遊郭ぐらい行ったことはあるじゃろう?」
――その瞬間。
「お館様! お控えくださいませッ!」
「お言葉が過ぎまする!」
雪風と時雨が同時に、凛とした声でクンネを叱責した。
店中が一瞬で静まり返る。
小さな猫又は、ぴくりと耳を伏せて小さくなった。
範洲は堪えきれず吹き出す。
(まるで姉さんたちみたいだ。このふたり、怒ると怖ぇ……)
外ではランタンが風に揺れ、異国の夜の匂いが流れていた。
笑い声と箸の音。
中華街の夜は、ようやく彼ら四人の奇妙な晩餐を受け入れたようだった。
夜はすでに底を打ち、中華街の通りも次第に息を潜めていた。
紅いランタンは一つ、また一つと消え、油と香辛料の匂いだけが、昼間の名残として路地に沈殿している。
料理屋の裏手。
湿った石畳に面した狭い通路で、女給は
「……これで最後っと」
店主に言われた言葉が脳裏をよぎる。
最近は蓋をきちんと閉めておかないと、野良猫に荒らされて朝の掃除が大変になる、と。
女給は薄暗がりの中、箱の縁に指をかけ、ぎい、と音を立てて蓋を閉めた。
金具が噛み合うのを確かめ、軽く叩く。
よし、大丈夫。
そう思った、その瞬間だった。
鼻をつく、腐肉に似た、甘ったるい悪臭。
「……なに、これ」
生ごみの匂いにしては、濃すぎる。
血と鉄と、獣の体温が混ざったような、ぞっとする匂い。
嫌な予感がして、女給は周囲を見渡した。
路地の奥。
闇の縁を、黒い塊が横切った。
「……もう、猫?」
そう呟き、肩をすくめる。
背を向け、裏口へ戻ろうとした、その刹那――
――ドンッ。
背後から、空気を裂く音。
重く、速い。
振り向く暇もなく、首元に叩きつけられた衝撃で、視界が跳ねた。
ぐしゃり。
骨が鳴る音を、女給自身は聞いていない。
意識が落ちるよりも早く、首が折れ、視界は闇に沈んだ。
ごとり、と鈍い音。
頭部と胴体が、石畳の上で別れた。
血が噴き上がる間もなく、影が覆いかぶさる。
巨大な前足が、胴体を掴み上げた。
爪が食い込み、内臓が潰れ、赤黒い液体が滴り落ちる。
「……ああ、やっぱり」
路地の入口に立つ男が、楽しげに息を吐いた。
「よっぽどお腹が空いてたんだねぇ、テディ」
バラム・ブーンは、頭部と胴体を引き裂かれた女給が、熊に抱えられたまま咀嚼されていく様子を、微笑みながら眺めていた。
熊――いや、熊の形をした“何か”は、肉を噛み砕くたびに、ぱきり、ぱきりと乾いた音を立てる。
肋骨が割れ、背骨が折れ、内臓が引きずり出される。
むせ返る血の匂い。
バラムはその中で、恍惚と目を細めた。
(……いい。すごく、いい)
こめかみを締めつけていた鈍い頭痛が、少しずつ遠のいていくのが分かる。
「ほら、テディ」
彼は足元に転がる女給の頭を拾い上げた。
髪を掴み、ぶら下げる。
目は見開いたまま、口は何かを言いかけた形で固まっている。
「ちゃんと、片付けないとね」
そう言って、バラムは軽く腕を振った。
ぽーん、と。
まるで球を投げるように、頭部は塵芥箱へ放り込まれた。
蓋に当たり、鈍い音を立てて中へ消える。
「大人だからさ。ゴミは、きちんと」
熊は胴体をあらかた食い尽くすと、鼻をひくひくと鳴らした。
血の匂いの向こう。
温かい、生きた人間の匂い。
熊は料理店の裏口へ向き直る。
木製の扉を、鋭い前足の爪で――
ばきり。まるで紙のように、押し破った。
「あれ?」
バラムは首を傾げる。
「まだ足りない?」
肩をすくめ、楽しげに言う。
「仕方ないなぁ。営業時間外だけど、特別に食事させてもらおうか」
厨房。
後片付けをしていた恰幅の良い店主は、異音に顔を上げた。
手には、油の残った中華鍋。
「……?」
裏口の方から、湿った足音。
振り向いた瞬間、視界が黒で埋まった。
血に濡れた毛皮。壁のような体躯。
「ワァァ!!」
悲鳴と同時に、店主は腕を振り回す。
鍋の油が宙を舞い、床に飛び散る。
熊は唸り声を上げ、一歩踏み込んだ。
――ドン。
前足が突き出される。
五本の爪が、ずぶり、と顔面に食い込んだ。
眼窩を貫き、鼻梁を砕き、口腔を引き裂く。
薙ぎ払う勢いで、顔の皮膚が捲れ上がった。
「ギャウン!」
声にならない音。
熊は肩口に噛みつく。歯が鎖骨を砕き、肉を裂く。
そのまま身体を振り回し――
がしゃん!
店主は厨房の床へ投げ捨てられた。
皿が割れ、鍋が転がり、調理器具が散乱する。
「……ッ、……ッ」
喉から漏れる、泡混じりの呼吸。
熊はゆっくりと歩み寄り、顔を近づける。
まだ、生きている。
確認すると、大きく口を開いた。
ぶつり。
頭部が、根元から引きちぎられた。
血が噴き、床を染める。
熊はそのまま、頭の無い胴体にむしゃぶりついた。
「テディ」
バラムは満足そうに言う。
「ご飯が済んだら、お礼にちゃんと片付けて帰ろうね」
彼は掌を開く。
青い火球が、そこに生まれた。
ふわり、と浮かび上がり、室内を漂う。
まるで、小鳥のように。くるり、と一回転。
そして――
バラムが店を出た、その直後。
火球は、巨大な灼熱の翼を広げた。
青白い炎が、厨房いっぱいに咲き誇る。
叫び声は、もう、なかった。
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