第3話 Shine On You Crazy Diamond
古き横濱の丘陵地――山手。
石畳の坂道を登り切った先に建つ一軒の洋館は、開港時の外国人居留地の名残を色濃く留めていた。煉瓦造りの壁は長年の雨風に苔むし、蔦が絡みついている。窓枠は白く塗られているものの、どこか陰鬱な影が宿り、夜ともなれば人を拒むかのような佇まいを見せた。
そんな屋敷の居間に、奇妙な対照を成す二人の影があった。
「だからさ、さっきから謝っているだろ?ウアル」
プラチナブロンドの髪色をした、一見すると優男然とした佇まいの男が長椅子にうつ伏せになりながら、
仁王立ちしている大柄の軍人上がりの風貌を持つ男にへらへらと笑いながら謝罪していた。
乱れた前髪の下に覗く青い瞳は、妙に虚ろで、それでいてときおり血の色を宿すように光る。
仕立ての良いシャツの袖を無造作にまくり上げた腕には、戦場で刻まれたらしい火傷や古傷が幾筋も走っている。
ウアルと呼ばれた軍人の方は苦虫を噛み潰したような顔で金髪の男を見下ろしている。短く刈り込まれた髪型、隙のない背筋、彫りの深い顔立ちに刻まれた皺――すべてが軍人の堅物ぶりを物語っている。
「そんな顔で謝っていると言っても、少しも反省しているようには見えんが」
「でも結果的には成功だったじゃん?」
ウアルは額に皺を刻み、深々と嘆息する。
バラムが昨夜引き起こしたのは――《喚起》。
しかも好奇心の一念で、帝都には棲まぬ巨大な獣、ニホンヒグマを出現させた。
現場は修羅場と化し、大使館や警察を巻き込み、外交問題すれすれの騒動となったのだ。
「バラム、お前さんの所為でしばらく横濱で大人しくしていなければならん。我々の計画が遅れてしまうではないか」
バラム・ムーン。
大英帝国王立超自然作戦部(R.P.O.D.)所属の魔術師であり、先の大戦では、最前線で攻撃魔法を塹壕突破に応用し、勝利を呼び込んだ男であった。だが、その有能さの裏には、人格上の致命的欠陥が隠れていた。
「ムーン・ザ・ルーン(狂気のムーン)」――。
戦場の狂騒に触れれば、歯止めがきかなくなる。負傷をきっかけにモルヒネへ依存し、平時には無軌道な衝動が顔を覗かせる。王立超自然作戦部にとっては、功績と同じ重さで頭痛の種でもあった。
その暴走に手綱をつけられる唯一の存在こそ、同じ所属のウアル・エントウィッスルである。
穏やかながら、一度キレれば「ジ・オックス(雄牛)」の渾名どおり手がつけられない。ゆえに、問題児バラムの“抑止力”として同行を命じられていた。
「ひとつ言い訳させてもらうなら、
「はっ?お前の好奇心であの
「いやぁ、熊ってぬいぐるみみたいに可愛いかと思ったらさ、やっぱり猛獣だったね。まぁ、目撃者の口を封じたから、結果良しという事で」
「バラム……。お前やっぱり反省していないだろ」
横濱の山手にある、元々は商人の住居を根城にして二人は大英帝国大使館からの連絡を待っていた。
この地区は横濱開港以来、外国人が比較的多く住む土地であり、外国人相手に商売をしていた商人の街「元町」、欧州の商人に随行してきた中国人の街「中華街」と様々な人種に溢れており、身を潜めるのにはうってつけの土地であった。
ウアルは卓上の地図を荒々しく叩いた。
広げられたのは日本全土の地図。赤いインクで四つの点が記されている。
「我らは
「わかってるさ」
「わかってなどおらん!」
「わかってるってば。ただ――」
バラムは口の端を吊り上げ、不気味な笑みを浮かべた。
「『刻』のためなら、僕は何だってするよ。だってさ、あれが来たら、もう全部どうでもよくなるんだろ?ほら、戦争も終わっちゃったし、もう退屈でさあ」
「退屈で人を殺すな!」
「僕は殺してないよ。テディを使ってちょっと驚かせただけ。ふん、んん。」
今朝、元町で買って来たばかりのイギリスパンを頬張りながらバラムが頷く。
その姿を見て、緊張感の欠片を微塵も感じさせない奴だとウアルは再び嘆息した。
――《あれ》。
彼らが口にするたびに、空気がひやりと冷える。
名状しがたい何かを、彼らは確かに呼び込もうとしていた。
「
「そうやったんか。五神君、すまん!手を貸したもんせ」
利国は振り返ると範洲に深々と頭を下げた。
「いやいや、頭を上げて下さい上水流さん。俺のことはハンスって呼んで下さい。君付けってヤツに慣れてないもんで」
二人は、犯行現場となった煉瓦造りのビルの建築現場へ向かった。
排管の継ぎ目から漏れた蒸気が、ひんやりした朝の空気に触れ、白い靄となって地表を這う。
範洲の胸には初仕事の緊張が小さく脈打っていた。
現場は「施工ミス」による立入禁止を装い、捜査後の痕跡が保たれていた。
床には、辛うじて読み取れる魔法円の痕。塗料の香と、煤の焦げた匂いが混じる。
上水流は魔法円をしゃがみ込んで調べ、手帳に几帳面な筆致で写し取っていく。
「こいが、魔法円か……。多分『えゔぉけいしょん』を使うたごたる」
「上水流さん、その『えゔぉけいしょん』って何です?」
「ああ、下位の存在を召喚する魔術じゃ。『喚起』と訳せば良かか」
その時、範洲の肩掛け鞄から、黒い鼻先がぬっと現れた。
「のう、坊ちゃん。事件を見た者から話を聞けば良いではないか?」
クンネが範洲の肩掛け鞄から顔を覗かせ利国と範洲の会話に割り込んできた。
「目撃者はいないんだとさ、ってクンネ、いつの間に!」
「ん、そん猫はハンスの使い魔か?」
利国が興味深そうにクンネに視線を落とした。
「ええ。『猫又』らしいんですけど、正体は不明なんすよ」
「失敬な!正真正銘の猫又じゃ!まぁ良い、わしの配下にも手伝って貰おうかの」
クンネはぬるりと鞄から這い出し、虚空に向かって問いかけた。
「
ひゅんと一陣の風が巻き起こったと思ったら、長毛の白猫と短毛の黒猫がクンネの前にかしずいていた。どちらも尾が二つに分かれている。
「雪風、時雨、
「範洲様、お初にお目に掛かります。雪風に御座います」
と白猫、続いて黒猫が
「お初にお目に掛かる、範洲殿。私めは時雨に御座います」
「其方たちの事を詳しく紹介するのは後回しじゃな。頼んだぞ!」
クンネの掛け声で二頭の猫又はふわりと煙のように消え失せた。
「坊ちゃん、今日はお八つを奮発してもらおうかの?」
クンネは目を細めて、ひょいと範洲の肩に飛び乗った。
現場を利国と範洲はしばらく検分したが、犯人に繋がる新たな遺留品も見つからず、そろそろ引き上げようかと話をした頃合いに、雪風と時雨が一頭の茶虎の猫を連れて戻って来た。
「お館様、この子が夜の散歩の折に一部始終を見ていた様子で」
雪風がクンネに説明する。傍らでは時雨が茶虎の猫と何やら会話をしていた。
「どうやら二人組の外国人がここに忍び込み、奇妙な図形から大きな獣を呼び出して人を襲わせたと」
時雨が茶虎の目撃した仔細を言葉にした。
「怖くて、言葉も日本語ではないので話の内容までは分からないと」
「くそっ!行き詰まったか」
それを聞き利国は思わず絶望して顔を覆った。
ふと、思いついたように範洲は鞄に手を入れ、何やらごそごそと探し出して茶虎猫の前でしゃがみ込んだ。
「ぼ、坊ちゃん!それ、わしの!!」
クンネが切なそうな声をあげて抗議した。
範洲は猫用のチューブに入った練り餌を茶虎猫の前に差し出した。するとしばらく匂いを嗅いでいた茶虎は、次の瞬間勢いよくチューブを舐め回した。
「非道い、坊ちゃん……」
クンネは恨めしそうに範洲を見つめていたが、その行動が計算されたものだと分かるまでさほど時間が掛からなかった。
(……この
「よし、良い子だ。ちょいと大人しくしててな」
範洲はゆっくりとした動きで猫の身体に手を当てて、優しく撫でると霊力を集中させ、自らの意識と茶虎猫の意識をまるで水面の波紋が一つになるように同調させた。
「……うっ……ぷっ」
範洲は突然口を押さえ、部屋の隅に駆け出し、胃の中のものを勢いよくぶち撒けた。
「いやはや、初日からきっついぜ。上水流さん、俺、犯人の顔分かりましたよ。どうやら、英語を話すヤツらで、横濱の山手辺りに潜伏先があるかも。断片的に聞き取れたんで」
範洲はぜえぜえと肩で息をしながら、心配して駆け寄って来た利国に向かって大丈夫だと手で制した。
だが、覗いた記憶の中で一つ気になる言葉が範洲の脳裏から離れようとしなかった。それは大柄な男が言っていた言葉。
「……ナマズ」
その響きが、どこか深い地の底を震わせるように思われた。
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