第2話 Epitaph
東亰遷都の決定に伴い、京より結界再構築の任に駆けつけし官人陰陽師と、この地に昔より住まう民間陰陽師らが協力し、江戸開闢以来手入れもなされず緩みかけた結界を、宮城を中心として幾重にも張り直したのであった。
かくして天子は京都と東亰にそれぞれ御所を構えることとなり、東亰に常駐する陰陽師組織の必要性が生じ、その作業を担った集団こそ、後の陰陽庁東亰局に繋がるものであった。
東亰局は宮城の裏鬼門に位置する虎ノ門にあり、帝都全域を警護する東亰警視庁からは『拝み屋』と揶揄される一方、陰陽庁側も薩摩出身者の多い同庁を『薩摩っぽ』と呼んでおり、守護者同士ながら反りが合わぬ関係であった。
それでも、領分を超える事件が発生すれば、両者はしぶしぶながら合同で対処することもあった。
「全く、民間企業が無計画にビルの建設なんぞするもんだから、俺たちの仕事が増えちまうんだ」
「いちいちせからしかね。これじゃっで東亰ん人間は好きじゃなか」
「あーん。テメェ今なんて言った?俺に喧嘩でも売ってやがんのか?」
「おいは事実をいったまでじゃ。無駄口叩っ暇があったやとっとと仕事をすべきじゃ」
べらんめい口調の眼鏡を掛けた白衣に袴姿の男は陰陽庁東亰局の
「俺は白担当なのに、何でおめぇが一緒なんだよ」
「そげん事は知らん。ただおいはおはんの警護を任されただけじゃ」
陰陽庁東亰局は「白」と呼ぶ結界の管理維持及び修復を行う事が主たる業務と「黒」と呼ぶ、都市計画で破壊された結界に侵入する神霊の類から要人を護る事や正体不明の妖を祈祷、武具による調伏等、宮城の護衛を行う事を主たる業務とするニつの部署が存在する。
利根の担当は「白」と呼ばれる結界の維持・修復であり、この日は裏鬼門付近に僅かな異変を検知したため、点検を行うに過ぎなかった。
だが、これまでと異なるのは、東亰警視庁の人間が同行することであり、利根は破壊工作への備えと判断した。
現場は煉瓦造りの建築途中のビルで、土木工事により荒れた土地の浄化が必要かを確認するのが任務であった。資材や機材が散乱する様は、まるで都会の森のようである。
若干の気の乱れは感じられるものの、利根には大きな問題はなさそうに思えた。
彼は建物内に足を踏み入れ、
利根は床に見慣れぬ紋様が描かれた跡に気がついた。
「コレは何だ……何かの術か?」足を止めて眼鏡越しに注意深く観察する。
そこには円形で六芒星が中心に描かれ組み合わせられた様な複雑な図形、梵字や漢字でもない初めて見る文字が辛うじて読めた。
(獣の匂い?何故こんな所で?)
ふと利根が動きを止め、むせかえる程の濃い獣臭の方に顔を向けた。
その瞬間、黒い大きな獣が咆哮し、こちらに向かってくるのが見えた。
「……えっ?」
黒い獣は利根の前ですっくと仁王立ちになり巨大な前足をぶんと勢いよく頭めがけて振り下ろした。みしりと鈍い音と共に頭蓋と顔面に凄まじい衝撃を受け利根はその場に叩き伏せられた。
「がっ!」
気絶しかけた意識の中で利根は自分を襲った獣の正体に気付いた。
生暖かい血飛沫で視界も次第に遮られ、身体も衝撃で動かない。
「……熊!」
大きさは八尺(約二四〇センチ)近いだろうか、堂々とした体躯の熊である。
「チエエーイ!!!」
由良は猿叫と呼ばれる示現流の掛け声を上げ抜刀し、蜻蛉の構えで熊に立ち向かう。
(まさか熊が東亰ん真ん中に出没すっとは!)
由良は
(迷っちょっ暇はなか!)
初太刀を由良は四つん這いになった熊の頭部から袈裟掛けに振り下ろすものの、ごつんと硬い頭骨に弾き返され体勢を崩してしまった。
(しもうた!)
二の太刀を入れる間もなく、再び立ち上がった熊は鋭い五本の長い爪のついた前足で由良の体をぐうんと引き寄せ頭から勢いよく噛みついた。
「うあああっ!!!」
ばりっと頭蓋が割れ、硬い牙が食い込んで血まみれの顔から右目が突出する。
そのまま痙攣を起こした由良の身体を容赦なく熊はぼきりと二つに折り畳んだ。
利根は由良が事切れるのをただ黙って見ているしかなす術がなかった。
式神を召喚しようにも顎の骨が砕かれては真言も唱えられない。
やがて熊は由良の身体を放り出し、横たわる利根へゆっくりと近づいてきた。
ふんふんと荒い息遣いで頭や身体を鼻先で小突くと口を大きく開けてむしゃりと腹部を噛みちぎった。
「!!!!!!」
声にならない断末魔の叫び声がパイプから漏れ出した蒸気の音と共に虚空に響き渡った。
ビルの建設現場で起きた謎の殺人事件は東亰警視庁の捜査本部の調査において、すぐに熊による獣害と結論付けられた。利根の擬人式神である
事件現場は凄惨を極め、残された遺体の損壊は激しく建物の壁や天井にまでおびただしい鮮血が広がっていた。
ただ奇妙な事に熊の足跡は部屋の隅まで続いていたが、そこからはふっつりと消えていた。
陰陽庁東亰局の「黒」の調べでは何者かが熊を召喚、使役し二人を襲わせたとの推理が建てられたが、動機、目的までには至らなかった。犯人につながる遺留品も殆ど発見されず唯一の手がかりは消え掛かった魔法陣のみ。
魔術師がこの事件に深く関与している事は明白であったが、国際手配制度がない以上、公式に諸外国に捜査協力を依頼する事は不可能であった。
「そげん馬鹿な事があっか!こん事件から手を引けとは!」
東亰警視庁の刑事部所属の
「由良さんはおいの大事な先輩じゃ!犯人を挙げんな嫁じょに顔向けできん!」
「そげん事ゆうてん。上からんお達しなんじゃっで、こらえちょくれ」
「おいなら現場にあった魔法円が分かっかも知れんのに、陰陽庁ん奴らが台無しにしたって言うじゃらせんか!」
由良は彼にとって大事な先輩であり、犯人を捕まえなければ遺族に顔向けできない。
公にはされていないが、利国は薩英戦争後から連綿と続く英国留学生で、魔法の教育を受けていた異色の経歴を持つ。帰国後は、国内に魔法を扱う公的機関がなかったこともあり、示現流の技量を活かして東亰警視庁に入庁したのだった。
「ちょっと出掛けてくッ!」
「上水流!ちょっと待て!朝からどこ行く気なんじゃ!」
「休暇じゃ!邪魔すっな!」
扉を開き、吉野の制止を振り切って利国は部屋を飛び出した。朝の静寂を蹴散らす足音だけが、廊下に響いた。
「五神君、陰陽庁東亰局にようこそ」
細面の背広を着た男が顔に張り付いた様な笑顔で
「私が局長を務めている、
羽黒兼光、局長の自己紹介を聞きながら、範洲は応接セットの椅子に腰掛ける。
「早速ですが、君にはすぐに仕事を覚えて貰いたいのです。うちも色々ありまして、常に人手が足りていないのです」
と羽黒は京風のイントネーションで話す。
局長の口調は丁寧だが、冷徹な印象を隠せず、帝大卒らしい選良意識の高さが顔の端々に滲んでいた。
初登庁の範洲にとって、いきなり局長室に通されるのは面食らう出来事であった。
(なんか、いけすかねぇヤツだな)
「君の所属は……。ああ、『白』から『黒』に異動したのでしたね」
(何だ?『白』とか『黒』って?)
書類の束を捲り、赤青の鉛筆で範洲の所属を「黒」と書き直す羽黒の仕草には、つまらなさそうな鼻鳴らしの一音が添えられた。
範洲は、陰陽庁の仕事は現場に出る部署であれば多少の危険が伴うと事前に耳にしていたが、その分給与水準も高いという事もこの陰陽庁に就職を決めた理由のひとつであった。
これといって秀でた才のない範洲にとって、陰陽師の出自を就職に活かすのは当然の成り行きであった。
「五神範洲殿、貴殿を本日付けをもって陰陽庁東亰局『黒』着任を命ず。以上」
辞令が羽黒から手渡されたところで範洲は何だか部屋の外が騒騒しい事に気付く。
「……そこを退け。おいは局長に話があっど!」
「面会の約束無しに失礼です!お止め下さい。おい!誰か!警察に連絡しろ!」
「おいがそん警察じゃち、ゆうちょっじゃろうが!!」
局長室のドアが勢い良く、荒々しい音をたてて開いた。
そこには警備員に羽交い締めにされながら、薩摩弁で怒鳴り散らす精悍な男の姿があった。
「何です?藪から棒に君は」
顔を引き攣らせながら羽黒が男に尋ねた。
「おはんが局長ん羽黒さんと?おいは東亰警視庁ん上水流利国ちゅうもんじゃ。」
男は警備員を振りほどき、羽黒に向けて一礼した。
「由良の件で話があっとです。うちの上層部に手を回して事件に手を出すなと命じたんは貴方ですか?」
どうやら由良の件で、陰陽庁に責任があるのではないかと問うために押しかけたらしい。局長室内には、緊張と静寂が一瞬にして広がる。
「まさかッ!私の一存でそんな命令を下せると思いますか。当方も被害者がいるのに今回の事件に手を出せないのですよ。内務省警保局からの横槍で!」
「内務省が絡んでおるとですか!」
「我々も口惜しいのです、上水流君。陰陽庁として表立っての協力は出来ません。ですが、君が
羽黒は内務省警保局からの横槍によって、表立った協力はできない事情を説明する。しかし、個人的に捜査を行うならば東亰警視庁も干渉できない、と条件を付ける。
範洲は、その状況を静かに見つめながら、初仕事の準備を心の中で整えていた。
「ええ、仰る通りです」
「ならば、同じ悔しい思いを持つ者として
「宜しいのですか?」
「五神君、初仕事です」
羽黒は範洲の方を向き、片方の口角を上げてにやりと笑った。
緊張と苛立ち、そして淡い期待が入り混じる空気の中、これから始まる業務の重みが範洲の肩にずしりとのしかかる。
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