蒸気奇譚ー無自覚な新米陰陽師と猫又?の物語

浮子喜市

第1話 Tom Sawyer

「何としても、親父さんに認めてもらわねぇとな」


 山の夜気は薄く凍り、範洲の吐く息が青白く揺れた。師である父との約束の刻限までは、もはや一日を残すのみ。陰陽庁の試補から正式任官へ進む最終の試験、それを越えねば公務として結界維持や霊査に携わることも叶わぬ。

 見習い陰陽師五神範洲ごかみはんす。大人びた影を背負いながら、なお身体つきに少年の稜線が残る。成長の途上にあるが故か、ふと光の中で輪郭が透けるような危うさがあった。

 彼の手には、残り数枚となった霊符と紙製の形代。その指先は冷気よりも緊張でわずかに震え、目の前の妖へと慎重に構えられていた。麓の集落で「山に化け物あり」との噂を聞き、三日の追跡の末、ようやく追い詰めた獲物である。

「コイツなら…」

 陰陽師として一人前である事を証明する最後の試練がこの悪行罰示神あくぎょうばっししきがみ。悪事を犯した神霊を捕らえ、式神として縛め従える。それだけの理屈ながら、範洲が挑むと、いつも妖は煙のように逃れ、捕縛に成功したためしがなかった。

「……父様、また逃げられてしまいました」

「お前は式札の扱いは幼い頃に会得したっつうのに。妖ひとつ調伏できんとはな。大物狙いが過ぎるんだ、この大べらぼうめ!」

 と父親から「自分の身の丈に合わない荒御魂あらみたまに挑むから逃げられるのだ」と叱責され、その度に心が折れ、惨めな気持ちになるのが常であったが、今回は何としてもやり遂げねばならない。

 すぅっと呼吸を整え、霊符を放ち真言を唱える。

 放たれた霊符はまるで生き物の様に妖の身体にまとわりつき一瞬にして自由を奪った。均衡を失って倒れ込んだ肉体に軋む音を立てて、その巨躯をじわりと締め上げていく。

「むっ?坊っちゃんは中々強いのう……」

 猫の姿形をした妖はゆっくりと落ち着いた声を発した。体長は九尺(約二七〇センチ)ほどあろうか。

「これ以上痛い思いをしたくねぇなら、とっとと負けを認めて俺の式神にならねぇか?」

「ふむ。人間に悪戯して暇を潰すのにも飽きたからのう……まぁ良かろう」

 猫又程度しか従えぬ力ではあるが、これで課題を一応は果たしたことになる。

「ただ坊ちゃん、お主に仕えるにあたって、一つだけ条件があるのじゃよ。最近帝都には猫用の美味なるお八つがあると聞き及んでおる。それを是非所望いたしたいのぅ」

「へっ?チューブに入った奴か?よく知ってんなぁ、こんな山奥暮らしなのに」

 ふふんと猫又は鼻息を荒くして、さも当然と言わんばかりの表情を浮かべた。

「なに、ワシの眷族どもが噂をしていてな」

 (眷族?ああ、猫達のことか……)

 範洲は敵意のないことを確かめつつ、妖の体に張り付いた霊符を外した。そして重要な義務を思い出して、深くため息をついた。


「はぁ……労働契約書、作らなきゃなんねぇんだ」


 御一新ごいっしん以降、陰陽師の使役制度も欧化の波を浴び、式神との契約はすべて文書化が義務となった。儀式書に基づき条項を読み上げ、使役者と妖の署名を添え、陰陽庁へ提出する。今では、それすら昔ながらの呪的処理とともに行う奇妙な折衷である。

「ところで、お前の名前は何て言うんだ?」

「ワシか。ワシはな『クンネ』と申す」

「俺は五神範洲。よろしくな、クンネ。えーと、ここに俺の名前とクンネの名前を書いてっと」


 範洲は書き上げた契約書を丁寧に鞄に仕舞い込み、控えを小さく折り畳むと式札を取り出し、ふうっと息を吹きかけた。

 たちまち式札は大鴉おおがらすに姿を変え、範洲はその足に付いている軽銀アルミニウム製の通信筒に小さくした書類を入れた。

「陰陽庁東亰局まで頼む」

 大鴉は夜気を裂いて飛び去る。残る問題は、この巨体を現世に留めるか、常世とこよと呼ばれる神域に待機させるかである。


(九尺の猫又なんぞ家に置けるわけねぇ……いっそ橋の下でも借りるか?)


「坊ちゃん、しかつめらしい顔で何を思案しておる?」

「いや……クンネは常世から呼び出すほうがいいかと思ってな。そっちが楽だろ?」


 本音を言えば“住む場所がない”。だが雇い主として揉め事は避けたい。


「ワシは始終そばにおるゆえ、気遣い無用じゃ」

(……そうじゃねぇっての!)


 範洲は頭痛を覚えた。大型の式神を四六時中連れ歩く陰陽師など聞いたことがない。そんな真似をすれば、力の手の内を晒す愚者である。

  このところ、モグリ陰陽師が「御一新ごいっしん以前の霊権を返せ」と騒ぎ、欧州から魔法師も入り込んで不穏な動きがある。陰陽庁の公務員が目立つ行いを許されるはずがない。

「そばにいるのはともかく、そのデケぇ姿じゃ目立ちすぎるんだよっ」

「案ずるな。変化くらい朝飯前よ」

 クンネはころころ笑い、瞬時に仔猫へと姿を変えた。

「どうじゃ? 文句あるまい」

自信満々に見上げるその眼差しは、巨大な姿の時と寸分変わらぬ気迫を宿していた。


 自由な海洋国家として近代社会の枠組みを築き、世界を主導してきたのが大英帝国である。世界人口と地表の約四分の一を支配した史上最大の帝国は、その覇権を極東の日本にも及ぼした。

 幕末、浦賀沖に現れた大英帝国艦隊(黒船)は日本を屈服させ、内戦を経た小国は英国の監督下にある「半独立国家」となり、急速に近代化を迫られた。

その原動力となったのは、英国から導入された最新鋭の紡績機である。蒸気機関による大規模な官営工場が建設され、やがて民間の製糸・紡績会社へと波及。こうして日本は綿糸や生糸の大量生産・輸出を実現し、軽工業において独自の産業革命を迎えた。


 帝都・東亰とうけいは今日も蒸気の白煙に霞んでいる。街路には真鍮の歯車、管路、蒸機の響きが充ち、江戸の面影と奇妙に並立する近代都市となった。英国式の工場や紡績機がもたらした繁栄は光と影を同時に肥大させ、都市の裏側では、人智の届かぬ〈何か〉が日々濃さを増していた。

 

「只今戻りました」

 範洲はクンネを連れて自宅である天王神社に戻って来た。


 五神家は陰陽師を生業にしているとはいえ表向きには神社を長らく営み、その起源は鎌倉時代末期に京から先祖が相州そうしゅう(神奈川県)に渡り、この地に根を下ろしたとの記録が残っていた。

「お帰りなさい。お手回りのものはこっちにね。大変だったでしょう?」

 範洲を自宅兼社務所の玄関で出迎えたのは姉の五神有栖ごかみありすであった。見慣れた巫女装束ではなく普段着姿であったが、旅の荷物を受け取るひとつひとつの所作がゆったりと滑らかで美しい。花香ある女性ひとだ。


 昔からのならいで女性は陰陽師に成れないが、五神家の女性は代々並外れて霊力が強く、陰陽師を婿に取ってきた女系家族である。それ故、五神家で生まれた男性はここを離れて他の土地で陰陽師を営んでいた。

(本当は、姉さんの方が陰陽師に相応しいんだけどなぁ)

 有栖は範洲の耳元でそっと囁いた。

「父様が心配してた。ハンスはちゃんと出来ただろうかって」

「あ、うん。何とかね。初めて悪行罰示神あくぎょうばっししきがみが上手くいった」

「あら、その子?」

 範洲の外套のフードからクンネがくるりと顔を覗かせるのを見て、有栖は雪のように優しく微笑んだ。

「……猫又なんだよ。赤点ぎりぎりってとこ」

「ふふっ。可愛いだけじゃないのね、は。ハンスの事頼みましたよ」

 クンネの顎の下を有栖がそっと四本の指先でくすぐると、ごろごろと喉を鳴らして喜んだ。

 (はぁ?姉さんは何を言ってんだ?クンネは只の猫又じゃんか)

 怪訝そうな顔をして父親の待つ部屋に範洲は向かった。

「父様、只今戻りました。お申し付けの最終課題は無事修了いたしました」

 袴姿の浅黒く大柄な男が床の間を背にして、じろりとこちらを見た。その姿は祓い串より村田式猟銃を持つ方がどう見てもお似合いだ。近所の若い衆が、有栖に熱い眼差しを向ける時に睨みつける顔付きなんかは半端な妖なら色を失うだろう。

 父親で、陰陽師の師である五神葉舟ごかみようしゅうが低いがはっきりとした声で尋ねた。

「おう。ハンス、どうやら上手くいったみてぇだな?」

「……はい。猫又を式神に」

「お前の今の力量なら、猫又でも上等じゃねぇか。ま、とりあえず良しとするか」

 そう言って呵呵かかと笑った。

 

 師としては厳しいが、基本は子煩悩なのだ。子供達の名前を西洋風に名付けたのも当代の文豪に倣って、これからは世界に通用する人間になれという願いを込めたと聞き及んでいる。

「どれどれ。お前さんがハンスの式神になった猫又かい?」

 正座している範洲の横にちょこんと佇んでいるクンネを葉舟はじっと見つめ、おもむろに口を開いた。

「……なぁハンス。コイツぁ、とんでもねぇぞ」

「へっ?」

「猫又どころじゃねぇ!」

「ええっ?」

「尻尾が三本に分かれていやがる!!」

「!?」


 範洲は目の前が真白になる感覚を覚えた。


(……一本取られたねぇ)


 クンネは三本に分かれた尾をゆるりと揺らし、三つ編みにまとめてから、にゃあと鳴いた。

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