第1章 魂は泡沫に揺蕩い、可惜夜に果てる

第1話 邂逅 

 「久しぶり……顔色は、そこまで悪くなさそうで安心した」


 「全然元気だよ、心配しすぎ」

僕が大げさに胸に右手を当てる仕草をすると、彼は笑った。


 「病気になったっていうから心配してきてみたけど、まだまだ大丈夫そうだね」

「まだ死ねないよ~。やりのこしたこといっぱいあるし」

「そうだよね、また元気な姿の悠真に会えるの待ってるから頑張ってね」

「もちろん、任せて」


 客人は手を振り、病室から去っていった。

ドアの向こうの足音が遠ざかる。

やがてそれは消え、シーツには、数滴の雫の跡だけが残っていた。



 点滴が、ポツ、ポツと音を立てて滴る。

それはまるで、僕に残された命のリミットを指し示す砂時計のようだった。

白い壁。消毒液の匂い。窓の外には、いつもと変わらない風景と青い空。

なのに、ここで流れる時間だけは、僕の死へ向かって静かに沈んでいく。

この白血病専門の治療病棟は──僕にとっての棺桶だった。


 少し視線を下に向けると、膝の上に置いた病院手帳に目が留まる。

これを見ると、病名を告げられた時の光景がありありと浮かんでくる。


 『はしばゆうまさん、はしばゆうまさん。3番診察室に、お入りください』

スピーカーから僕の名前がアナウンスされ、心臓の鼓動が少し早くなるのを感じる。


 「大丈夫、ただ少し調子が悪いだけ!」

そう自分に言い聞かせて医者の待っている部屋に入る。



 「はしば、羽柴悠馬君だね?」

目の前の医者が、噛み締めるように、決して間違いのないように言った。


「はい、羽柴悠馬です」

少し声が上ずりそうになりながら答える。


 「今日はおひとりかね」

「そう……ですね、今は一人暮らしをしているので」

「そうか……本来であれば親族の方々にも一緒に聞いてほしかったが仕方あるまい」


 医者は一度押し黙り、それから僕に告げた。

「端的に言おう、悠馬君。君は白血病──つまり血液のがんだ。しかも、”急性”のものだ。余命は……もって半年といったところだろう」


 時間が止まった。

医者の口はまだ動いていたが、その音はもう、僕には届かなかった。



 余命半年。その理由はただ一つ、僕の希少な血液型のせいだ。

AB型、Rhマイナス。国内に0.5%、いや、それ以下とも言われる希少な型。

だから僕に適合するドナーも、ほとんどいなかった。


 思い返しただけで、胸が苦しくなる。 

僕は唇を強く噛み締めた。

まだ……この世界で、何もなせていないし、残せていない。

これじゃあまるで、僕が生きていた価値なんてなかったみたいじゃないか。


 「まだ……いやだ……」

僕の嗚咽は、どこにも届かず消えていく。

 

 こんな状況になっても、誰にも胸中を打ち明けられずに明るく振る舞ってしまう自分が嫌になる。

そんな自己嫌悪とやるせなさから逃れるために、僕は深く眠りについた。


 

 その夜、僕はお手洗いに行くために、点滴スタンドを引きずりながら、うすら寒い病衣のまま廊下を歩いていた。

病棟はしんと静まり返り、ナースステーションにも人気がなかった。



 そのときだった。 ──耳をつんざくような爆音とガラスが砕ける音が響いた。

振り返ると、廊下の先。病院の正面玄関に繋がる階段が、黒煙と金の光に包まれていた。


 火災警報が鳴るよりも先に、何かが蠢いているのが視界に映った。

人のようで、人でない。

視界の先に現れたのは、全身を金の鎧に包んだ異形の集団だった。

目が光り、口元からは長い犬歯がのぞいていた。

熊よりも遥かに大きな身体。

さらに、それに全く釣り合っていない小さな腕のようなものが張り付いていた。


 「な、なんだよこれ……」

意味がわからない。

自分の心臓の音がやけにはっきりと聞こえる。


 僕が身を隠し、呟いたのと同時にやつらは動き出す。

病室を一つずつ破壊しながら、まるで何かを探すように。



 瞬間――空気がひび割れ、背筋に、冷たい指でなぞられたような感覚が走る。

これは爆音でも吸血鬼たちの殺気でもない。

もっと静かで、もっと抗いがたい──“異物”の気配。


 「──見つけたわ、珍しい血の匂い」


 その声は、まるで喉の奥に直接落とされた一滴の濃い蜜のようだった。

震えるほど甘く、けれど冷ややかで、世界の色を塗り替える力を持っていた。


 おそるおそる振り返った。

そこに彼女は“いた”。


 深紅の長髪が、病院の薄光を奪い、揺らめく。

まるで一本一本が血潮の糸で紡がれたように、艶やかで、生きているようだ。

肌は雪より白く、触れれば砕けてしまいそうなほど薄い。

紫紺の瞳、焔のような赤いドレスと漆黒のローブは、彼女の非現実感をより増させていた。

ここは病院の廊下なのに、彼女の存在だけが切り取られているようだった。


 言葉が出てこない。

これはきっと恐怖でも驚愕でもない。


「──あなた、もう長くないのね」


 薄く笑った。

赤い花弁が綻ぶように、静かに。



 「……っ…!」

声が震えた。喉が乾く。

彼女はゆっくりと首を傾け、紫の瞳で僕を射抜いた。

その瞬間、心臓が強く締め付けられる。

足はすくみ、立ち上がることすらできない。


 「私はルクレツィア=ヴラド=ノクターン。

この世界の“吸血姫”──吸血鬼の王の娘よ」


 彼女は僕に、手を差し伸べながら告げた。

「あなたの命の残り火――それを、私に預ける覚悟はある?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

次の更新予定

毎日 12:00 予定は変更される可能性があります

白き花弁と吸血姫 @mare0325

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画