白き花弁と吸血姫
@mare0325
プロローグ いつかの白昼夢
昇る朝日に照らされた薔薇の色を、私達はもう忘れてしまった。
降りしきる雨の中、金属が砕けるような音が断続的に響いていた。
跳ね返った水滴が視界を奪う。踏み込むたび、靴底が滑る。
金色の影が迫り、次の瞬間、衝撃が腕を痺れさせた。
巨体の拳を受け止めきれず、体が後ろへ弾かれる。
『その得物じゃ、あれ倒せないわよ?』
頭の奥で、冷えた声が囁いた。
「分かってる……!」
声の主の言う通り、私は握っていた槌を投げ捨てた。
反射的に身を低くする。直後、さっきまで頭があった場所を、重たい風が通り過ぎた。即座に後ろに飛び移る。
雨音を遮るように、鈍い足音が近づいてくる。速い。
『ちゃんと呼吸しなさい。ほら、私の言う通りに』
声は私を落ち着かせるかのように言った。
意識を集中し、影の中へと身を沈める。視界が一瞬、闇に塗り潰された。
次の瞬間、地面を蹴る。
「っ……!」
跳躍。視界が反転し、金色の影が下に見えた。
槍を持つ腕を勢いよく振り抜く。赤い軌跡が、雨を切り裂いて落ちていく。
しかし、軌跡は怪物を貫くことはなく乾いた音とともに飛んでいく。
「弾かれた……!」
力が空に散り、喉の奥から小さく息が漏れる。
『大丈夫。予定通りよ』
その一言で、思考が静まる。
焦りも、不安も、すべて押し流されていく。
落下。着地。足裏に伝わる感触が、嘘みたいに軽かった。
怪物は動かない。
不自然なほど、動かない。
怪物の視線が下に落ちた、その瞬間だった。
『……もう遅いわ』
地面から伸びた薔薇の蔦が、怪物の脚に絡みついていた。
引き剥がそうとする動きが、かえって深くまとわりつかせた。
空気が、静かに張りつめる。
「今なら……」
腰の、何もないはずの場所が、熱を持った。
血が集まり、形を成し、赤い刀へと変わっていく。
掌に伝わる温度。
それが――自分のものなのか、彼女のものなのか、もう分からない。
『貸してあげる。ちゃんと振り抜きなさい』
「……うん」
短く返事をして、柄を握る。
力が、最後の一滴まで引き出されていく感覚。
降りしきる雨の音が遠くなっていき、やがて何も聞こえなくなった瞬間。
振り切る。
澄んだ鈴の音が鳴り、
次の瞬間、鼓膜は再び波を捉え始めた。
雨だけが、何事もなかったように降り続いている。
金色の怪物は、音もなく霧散していた。
――限界だった。
膝が崩れ、視界が揺れる。
そのまま、地面に倒れ込む前に。
「……あ」
意識が溶けていく、その直前。
彼女の腕は迷いなく私を抱いた。
濡れた外套越しに伝わる体温が、やけに生々しい。
骨の細さ、肩の線、胸元の起伏――抱き寄せられた距離が近すぎて、息をするたびに、彼女の鼓動と自分の鼓動が混じる。
「……本当に、無茶をする子ね」
囁きは、叱責の形をしているくせに、
声の底に、微かに滲んだ優しさを隠しきれていなかった。
私は、彼女の服を掴んでいた。
意識して掴んだわけじゃない。
落ちていく途中で、縋るように、指が勝手に。
それに気づいた瞬間、
彼女――ルクレツィアは、ほんの一拍だけ、動きを止めた。
……あ。
今の、まずかったかな。
そう思ったけど、
彼女は私の手を振り払うことはしなかった。
それどころか、
その指ごと包み込むように、そっと押し当てる。
「離れないで……今は」
低く、吐息交じりの声。
命令でも、お願いでもない。
でも、抗えるはずがなかった。
彼女の額が、私の額に触れる。
雨の冷たさと、彼女の熱が、境界を失っていく。
「ねえ、ユーナ」
名前を呼ばれるだけで、
胸の奥が、きつく締めつけられる。
「あなたが傷つくのを見るのは……あなたが思っている以上に、苦しいのよ」
その言葉は、あまりにも正直で、
残酷なほど、甘かった。
「だから……次はもう少し、私を頼って」
「……十分頼ってるよ……」
かすれた声で答えると、
彼女の唇が、私の耳元すれすれに近づいた。
触れていない。
触れていないのに、そこに在ると分かる距離。
「いいえ……全然足りないわ」
それは、まるで秘密を共有するようで、
この夜に、私たち以外は存在しないみたいだった。
「命も、選択も、感情も……全部」
一瞬の沈黙。
そして、決定的な一言。
「私に、預けなさい」
胸が、跳ねる。
それがどれほど危険な言葉か、分かっているのに。
それでも、拒めない。
「……うん」
答えた瞬間、
ルクレツィアの腕に、はっきりと力がこもった。
逃がさない、というより、もう返さない、と言われている気がした。
「私は……あなたを手放すつもりはないわ」
その宣言は、願いよりも重く、契約よりも甘かった。
瞼が、完全に落ちる。
最後に感じたのは、
額に触れた、かすかな温もり。
それが何かを確かめる前に、私は、彼女の腕の中で、深く眠りに落ちた。
雨は、まだ降り続いている。
しかし、いつかは止んでしまう。
私達の関係もきっとそう。
それでもまだ、この甘い沼に浸かっていたい。
それがあの日の約束だから――
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