第4話
「SEEKER? これって……これって……凪緒! 見えた? 今の、見えたよね?」
千夏は怯えた表情で、私の腕を強く掴んだ。
私は小さく頷く。
「うん、見えた。」
「SEEKERって……あのSEEKER?! 私たちが遊んでた、あのゲーム? でも……そんな、これって夢じゃ……?」
恐怖のせいか、千夏の声はかすかに震えていた。
私は答えなかった。
ただ、UIに表示された【確認】のボタンを押す。
「……ふぅ、来た……!」
尾てい骨の奥から、懐かしい感覚が伝わってくる。
狐族特有の、しなやかで軽やかな腰の後ろに、白くて温かな大きな尻尾が生まれ、行き場を失ったように、そよ風に揺れていた。
白い前髪が一筋垂れ、その先端は淡い桜色へと溶けていく。
滝のように流れる長い髪。
頭の上では、二つの狐耳が警戒するように、ぴくりと動いた。
――戻ってきた。
やっぱり、この身体のほうが落ち着く。
狐族の
尻尾は驚くとすぐに逆立ってしまうのが玉に瑕だけれど、
その柔らかな毛並みは風速や風向きにとても敏感で、本能的に矢の軌道を微調整してくれる。
……それに、夜に抱きしめると本当に柔らかくて、温かい。
「凪緒……?」
千夏の声で我に返る。
彼女もすでにキャラクター変換を終えており、信じられないものを見るような目で、私を見つめていた。
千夏の職業は人族のウィッチ。
初心者用装備の尖った魔女帽子に、くたびれたローブ。
陽だまりみたいな金色の長髪が、肩に流れている。
「ひっ……ひぃっ……妖怪――!」
店員の男は私を見るなり悲鳴を上げ、レジカウンターの裏へと逃げ込んだ。
「妖怪じゃないよ。ただの職業……」
思わず溜息が出る。
異種族転職って、本当に面倒だ。序盤は特に、簡単にモンスター扱いされてしまう。
あらかじめ用意しておいた夜行用のマントを取り出し、大きな尻尾を覆い隠す。
ついでに、狐耳もフードの中へしまい込んだ。
それだけで、見た目はずいぶんと冷淡な雰囲気になる。
これなら、モンスターと勘違いされて殴られる危険もない。
「店主さん、これ、ラーメン代。」
私は代金をカウンターに置き、一瞬だけ言葉を選んでから続けた。
「ここにいてください。外に出ないで。」
「――あぁっ!!」
突然、通りの向こうから、鋭い悲鳴が響き渡った。
「助けて! 助けてくれ!! う、うわああああ――!!」
道路の中央で、一人の中年男性が血の海に倒れていた。
右腕が、肩口から無残に引き裂かれ、血が噴き出している。
そのすぐ傍らには、半人ほどの背丈を持つ巨大なウサギ。
その口は、何かを咀嚼していた。
よく見ると、口元には男の指の欠片や、引き裂かれた布切れがこびりついている。
巨大なウサギは「ぐちゅり」と喉を鳴らし、男の腕を丸ごと飲み込んだ。
口の端についた血を舐め取り、何事もなかったかのように――
凍りつくほど無邪気な表情で、周囲の通行人たちを見渡す。
「ひ、ひぃっ……怪物だ――!!」
人々は悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
「【腕喰い(アームイーター)】?!」
千夏が、息を呑んで叫ぶ。
――《SEEKER》をプレイしたことのある者なら、忘れるはずがない。
あの異様なウサギ。
初心者の村の外で最初に遭遇するモンスター、魔化ウサギ。
人間の“腕”に対して異常なまでの執着を見せるため、
冒険者協会では、こう呼ばれていた。
――腕喰い。
「現実に……腕喰いがいるなんて……そんなの、ありえない……!
私、きっとまだ夢を見てるんだ……」
千夏は震え、今にも崩れ落ちそうだった。
その気持ちは、痛いほど分かる。
かつての私も、同じように――自分が狂ったのではないかと疑った。
でも。
これが、現実だ。
「夢じゃないよ。私も信じがたいけど……
今は生き延びること。レベルを上げることが最優先。」
私はインベントリを開き、《世界樹の果実》を取り出すと、そのまま口に放り込んだ。
今まで味わったことのない、心地よい温もりが、全身へと一気に広がる。
それは魔力が満ちる感覚とは違う。
まるで――
魂の内側に、まるごと一つの世界が切り拓かれるような感覚。
《異常な魂エネルギーを検知。世界樹との融合を開始します……》
……待って、何これ!?
世界樹の果実の効果って、
職業神器を一つ具現化するだけじゃなかったっけ?
どうやら、私が“重生者”であることが原因で、
世界樹の機能そのものが変質しているらしい。
《ジジジ――ドン!!》
頭の奥で、何かが爆ぜた。
果実を飲み込んだ直後、
私の視界に、世界樹そのものを思わせるほど巨大な選択パネルが跳ね上がった。
しかも、成長可能な職業神器の具現化は、
その膨大な機能の中でも、ほんの基礎に過ぎない――!
……けれど、今はそれを調べている暇はない。
【腕喰い】は、すでに私と千夏を標的に定めていた。
こちらの方向を睨みつけ、
筋肉で膨れ上がった後脚が、低く沈み込む。
――まずい、避けられない!
千夏の顔から、血の気が引いた。
その瞬間。
私は左腕を前に伸ばし、虚空を掴むように――強く、握り込んだ。
周囲の霊素が、激しく揺らぎ始める。
まるで太陽光が糸のように圧縮され、四方八方から私の手の中へと集まってくるかのように。
光は一瞬で凝縮され、形を成した。
象牙のように白く、無駄のない――美しい長弓。
右手で弦を引き絞り、魔力を込める。
一本の魔力の矢が、まっすぐ前方を指し示す――
その時すでに、【腕喰い】は跳躍の準備を終えていた。
発達した脚が伸びきる瞬間、地面が小さく砕け、耳障りな破裂音が響く。
「――ッ!」
そして、ほぼ同時に。
私は、弓弦を放った。
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