第3話
準備は、夕暮れまで続いた。
私は腕時計に目を落とした。
「サーバー停止まで、残り三十分。」
――ちょうどいい。
あと三十分で、ゲームは現実世界へと降臨する。
やるべきことは、ほとんど終わっていた。
これ以上ゲーム内に留まる意味はない。
これからは、現実で備える段階だ。
「千夏、今どこ?」
この時間なら、もう放課後だ。
私は千夏と合流するつもりだった。
前の世界では――
千夏は下校途中の地下鉄に閉じ込められ、その通路がダンジョン化した。
何の準備もないまま、魔物の群れに飲み込まれた。
今の時間なら、まだ地下鉄には乗っていないはず。
「今、駅に向かってるよ」
スマホが小さく震え、千夏からの返信が届く。
「地下鉄には乗らないで! 学校で待ってて!」
「え?」
千夏は少し驚いた様子で聞き返してくる。
「どうしたの?」
本当のことを話しても、千夏は信じない。
きっと、私が変になったと思うだけだ。
だから――言い訳を用意した。
「……夕飯、外で食べない?
ちょっと……藤乃屋のラーメンが恋しくて」
嘘じゃない。
本当に、あの店の味が恋しかった。
私と千夏は、小学生の頃からの付き合いだ。
藤乃屋は、私たちが高校生になるまで、ずっとそばにあった店だった。
特別に驚くほどの味じゃない。
でも、失ってから思い出すと、どうしようもなく懐かしくなる。
今になって思えば――
私が恋しかったのは、あのラーメンじゃなくて。
一緒に食べてくれる人たちだったのかもしれない。
「昨日も行ったばかりじゃなかった?」
千夏は少し考えてから、
「……うん、まあいいか。じゃあ、行こ」
それ以上、千夏は何も聞かなかった。
たぶん、私に何かあることを察したんだと思う。
私:「先に注文しておいて。すぐ行くから」
ほっと息をつく。
藤乃屋は学校からそう遠くない。
地下鉄駅みたいな危険な場所に行く必要もない。
購入したアイテムをすべて整理し、私は出発した。
最短ルートで、千夏のもとへ。
ゲーム降臨まで、残り十五分。
一杯くらい、ラーメンを食べる時間はある。
「どうしたの?」
千夏が心配そうに私を見る。
「凪緒……なんか、様子おかしいよ?」
当然だ。
生と死の境界で十年も生き延びてきた。
身体を張り詰め、常に警戒することは、もう本能になっている。
千夏が私の額に手を当てる。
「大丈夫。熱、ないね」
私はそんなことにも構わず、時間を惜しむようにラーメンをすすった。
女の子らしい慎みなんて、どこにもない。
「ちょっと、ゆっくり食べなよ!
そんなに急いで……あつっ!」
千夏は呆れたように笑う。
――ばかだな。
本当に、本当に、本当に……この味が恋しかった。
「……なんで泣いてるの?」
千夏は眉をひそめ、小さな拳をぶんぶん振り回す。
「誰かにいじめられた? 言って! 一緒に殴りに行くから!」
「……違うよ」
前の世界で、たとえ英雄と呼ばれたとしても、何になった?
攻略の果てに待っていたのは、孤独だった。
信じていた仲間に、私は殺された。
全力を尽くした結果、
私は彼らが報酬を得るための“邪魔者”になった。
本当の友達は――
みんな、魔物に殺された。
だからこそ。
今度こそ。
この世界では、絶対に傷つけさせない。
「ゲーム降臨まで、残り一分」
最後の一口を飲み干し、私は立ち上がる。
ラーメン屋の外、空を見上げた。
「三十秒」
胸の奥で、太鼓が鳴っているみたいだった。
最後の瞬間を、刻むように。
「十秒」
「九」
「八」
「七」
「六」
「五」
「四」
「三」
「二」
「一」
私は千夏を、背中にかばう。
空が、一瞬だけ歪んだ。
すべては、予定通り。
――「吼————」
街中で、すべての人が足を止めた。
それは、あまりにも長く、低い咆哮。
天地そのものを震わせる、低音の長号のような音。
天穹から……正確には、西南の方角から響いてきた。
そこには、世界的にも知られる古い雪山が、静かにそびえている。
三百年以上、眠り続けてきた山。
だが今、雲一つない空の下で、誰もがはっきりと見てしまった。
――白き山頂に。
一本の“手”が、伸びている。
漆黒の巨腕。
表面には赤い紋様が走り、
まるで血管のように、マグマが脈打ち、流れている。
人々は、富士山が目覚める無数の可能性を想像してきた。
だが、こんな“目覚め方”だけは、誰も考えなかった。
「……あれは……あれは……」
誰もが、自分の正気を疑った。
――だが、これは始まりにすぎない。
地面が、激しく揺れ始める。
街の人々は足元を取られ、よろめいた。
テレビやスマートフォンには、次々と地震警報が表示される。
「16時20分ごろ、地震がありました。
震源地は静岡県東部。
震源の深さは約20km。
地震の規模を示すマグニチュードは6.9と推定されています。
最大震度5強。」
これは、単なるプレートの衝突による地震ではない。
二つの世界が重なり合うことで生じた、圧迫。
しかも、その重なりは――
物質だけではない。
もっと恐ろしいのは。
――ルールだ。
「――ン……」
天の彼方から、火の筋が一直線に降下する。
推力を失った大型旅客機は、回避することもできず――
東京タワーへと、突っ込んだ。
「轟——!!」
富士山を中心に、半径百五十キロ圏内は、
すべて魔龍「燼天(じんてん)」の領域と見なされる。
禁空領域の展開が確認された。
この範囲内では、いかなる生物も高度百メートル以上の飛行を禁じられる。
「……何、これ……?」
恐怖は、瞬く間に都市全体へと広がっていく。
次の瞬間。
全員の視界に、血のように赤いホログラムウィンドウが展開された。
まるで、ゲームのUI画面のように。
「――『SEEKER』へ、ようこそ。」
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