最終話 問いの転倒

 私は一つの問いから始めた。


「なぜ桃太郎だけが、動物を家来にできるのか?」


 そして世界中を探し回り、日本国内を探し回り、最後に時間を遡った。

 答えは、予想もしないところにあった。


「桃太郎は動物を家来にしていなかった。」


 謎は存在しなかった。私が追いかけていたのは、明治政府が作り出した幻影だった。

 この発見は、私に別の問いを突きつける。

 私たちが「日本的」だと思っているものは、本当に日本的なのか。

 「伝統」だと思っているものは、本当に伝統なのか。

 「昔から」そうだったと思っているものは、本当に昔からそうだったのか。

 桃太郎の「家来」は、百五十年も経たない過去に創作されたものだった。しかし私たちは、それを「昔話」として、まるで太古から伝わるものであるかのように受け入れている。

 昔話は、誰のものだろうか。

 民衆が語り継いできたものか。

 それとも、国家が書き換えたものか。


   * * *


 江戸時代の桃太郎は、仲間と共に冒険する少年だった。

 明治以降の桃太郎は、家来を従えて征伐する将軍になった。

 どちらが「本当の」桃太郎か。

 あるいは、どちらも本当であり、どちらも作り物なのかもしれない。

 昔話とは、語り継がれるたびに変化するものだ。時代の価値観を映し、語り手の意図を反映する。純粋な「原型」など、どこにも存在しないのかもしれない。

 しかし、だからこそ問わなければならない。

 私たちが語り継ぐ物語は、何を伝えているのか。

 「仲間と協力する」という物語と、「家来を従える」という物語は、まったく異なるメッセージを持つ。

 前者は連帯を語り、後者は支配を語る。

 私たちは今、どちらの桃太郎を子供たちに伝えているのだろうか。


   * * *


 世界中を巡る旅は、予想もしない場所にたどり着いた。

 私は「答え」を見つけた。しかしそれは、問いそのものを無効にする答えだった。

 「なぜ桃太郎だけが動物を家来にできるのか」という謎は、存在しなかった。

 そして、その「存在しなかった謎」を追いかけることで、もっと大きな謎が姿を現した。

 私たちは、何を「当たり前」だと思い込んでいるのか。

 その「当たり前」は、いつ、誰が作ったのか。

 この問いに終わりはない。

 桃太郎の向こうに、まだ見ぬ謎が広がっている。


(了)

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