『××市における非実在■■の観測記録』

末次 緋夏(なつしゅ)

『××市における非実在■■の観測記録』

 クマ被害――そんな言葉は、もう××市では死語となっていた。


 かつて山の王として君臨していた月の輪熊たちは、どこへ消えたのか。代わりに現れたのは、分類不能の「異形」だった。


 その生物は、クマのシルエットを歪に引き伸ばしたような姿をしている。肩の肉は癌細胞が自己増殖を繰り返したかのように異様に膨れ上がり、裂けた皮膚の隙間からは、赤黒い筋肉の束が内側から蠢いている。


 彼らが発するのは咆哮ではない。濡れた布を絞り、骨を砕くような、生理的な嫌悪感を誘う異音だ。濁った琥珀色の瞳は、数キロ先にいる人間の体温を捉え、ただ純粋な「摂食」と「破壊」の対象としてじっと見つめてくる。


 それが突然変異なのか、あるいは環境の変化に適応した未知の種なのか――学術的な正体は誰にもわからなかった。


 ただ一つ、揺るぎない事実がある。

 それは農作物を荒らすだけでは飽き足らず、明確な殺意を持って人間を狙うということ。


 その事実だけで、町は音を立てて崩壊していった。子どもは校庭から消え、農家は先祖代々の畑を捨て、太陽が沈めば街灯の下を歩く者さえいなくなった。


 山と町を分けていた、数世紀にわたる暗黙の境界線は、その日、完全に壊れた。



 ​* * *



 ​ 結城湊(二十二歳)は、自治体が急造した「バケモノ対策特殊班」の新人隊員だ。


 採用から数ヶ月、彼はシミュレーターで射撃を学び、解体現場で異形の腐敗臭に耐える訓練を積んだ。だが、手に持つ最新式の対バケモノ用ライフル――三十口径のマグナム弾を装填した鉄の塊は、今の彼にはあまりに冷たく、そして重すぎた。


 林道の入り口。湿った土の匂いに、結城の背中にはじっとりと嫌な汗が滲む。


(……何で、こんな仕事選んじまったんだろ)


 脳裏をよぎるのは、再開発で立ち退きを迫られている実家の家族。高額な危険手当。それだけが動機だった。ヒーローになりたいわけでも、街を救いたいわけでもない。


 そんな希薄な覚悟は、山の闇に吸い込まれて消えそうだった。


 ​「手が震えてるぞ。銃の重さに負けてちゃ、獲物は落とせねぇ」


 ​ 不意に背後からかけられた声に、結城の肩が跳ねた。


 振り返ると、そこに立っていたのは白川剛、七十代の老ハンターだ。


 白い髪は短く刈り込まれ、顔には深い谷のような皺が刻まれている。だが、使い古された狩猟服に包まれたその背筋は、垂直に立つ古木のように一点の揺らぎもない。


「白川さん……。今日、よろしくお願いします」


「慌てるな。死に急ぐ奴ほど、バケモノには美味そうに見えるらしい」


 白川は淡々と、だが獲物を見定めるような鋭い眼差しで結城の震えを射抜いた。その目は、恐怖を知らないのではなく、恐怖の飼い方を知っている者の目だった。



 ​* * *



 ​夜明け前の山は、濃密な霧が視界を遮っていた。


 一歩踏み込むごとに、鼻腔を突くのは鉄錆の匂い。それに、獣脂が腐ったような甘ったるい悪臭が混ざり合い、胃の奥をかき混ぜる。


「……近いな。風下にいやがる」


 白川の足取りは、驚くほど静粛だった。

 七十代の肉体は、衰えを経験という名の最適化で凌駕している。落ち葉を踏んでも音を立てず、木の枝を避ける動作にはミリ単位の狂いもない。必要な筋肉だけを動かし、山の気配に完全に同化している。


(これが、本物のハンターか……)


 結城は息を殺し、ただ必死にその背中を追った。ライフルの重みが、徐々に責任の重みへと変わっていくのを感じながら。


 ​ 茂みが、爆発したように揺れた。

 黒い塊が視界に飛び込む。四足歩行だが、関節は不自然な方向に曲がり、背中に生えた硬質の突起が木漏れ日を弾く。


「ひ……っ!」


 結城の思考が白濁した。指が、凍りついたようにトリガーから離れない。バケモノの濁った目が、結城を「食い物」と認識し、泥のような唾液を垂らす。


 バケモノが跳ねた。その巨大な質量が空を裂く。


 ​ ――ドン!

 

​ 鼓膜を貫く一発の銃声。

 白川の動作には予備動作がなかった。

 ただ銃を上げ、ただ引き金を引く。

 その弾丸は、空中で放物線を描くバケモノの眉間を、正確無比に射抜いていた。

 異形は声もなく地面に叩きつけられ、二、三度痙攣して沈黙した。


「終わりだ。獲物はもう動かん」


 白川はスコープから目を離さず、短く言った。その冷静さに、結城はただ呆然と立ち尽くすしかなかった。


 ​「……すご……。一発で、あんな……」


「惚れてる場合か。薬莢を拾え。山に余計なものを残すな」


 白川の言葉はどこまでも実務的だった。無駄のない動き。それは、命を奪うことへの敬意ではなく、命を守ることへの徹底した執念のように見えた。


 ​白川は死骸を検分し、弾丸の着弾点を確認しながら語り始めた。


「昔はな、山と町には見えない『線』があった。互いに踏み込まねぇ、沈黙の境界だ。山が恵みを出し、俺たちはその端っこを頂く。それが、この街の理だった」


「でも、今は……」


「消えたな。バケモノが先に線を越えやがった。ルールを破る奴には、報いが必要だ。ここで俺たちが止めなきゃ、線はどんどん家の中まで、寝床の中まで押し込まれる」


 結城は、その枯れた背中に圧倒された。


(俺の覚悟なんて、この人の前じゃ砂粒みたいなもんだ)


 だが、その砂粒が、熱を持って結城の胸の奥で疼き始めていた。


* * *



​ 山を下る帰り道、白川が不意に足を止めた。


「……犬がいたんだ」


 その声は、山道に吹き抜ける風よりも寂しげだった。


「掌に乗るくらい小さくてよ。茶色い、どこにでもいる雑種だ。それがいつの間にか、俺の膝を追い越すくらいに育った。十年だ。十年間、俺の隣にはいつもあいつがいた」


 白川の瞳に、かつての散歩道の光景が映っているようだった。


「雨の日も、雪の日も、暑い日も……あいつが先に走ってさ。角を曲がるたびに振り返って、俺がちゃんと来てるか確かめるんだよ。あの目が、今も忘れられねぇ」


 白川の拳が、ライフルの銃床を強く握りしめる。


「ある日、散歩コースにあのバケモノが現れた。俺の目の前で、あいつは……。助けられなかった」


 結城は息を呑んだ。最強のハンターが、目の前で家族を失う。その無念は想像を絶する。


「そしたら、ネットじゃこうだ。『散歩していたのが悪い』『年寄りの不注意だ』。顔も名前も出さねぇ連中が、俺とあいつの十年を、たった一行のコメントでゴミクズみたいに扱いやがった。……あいつの命は、自己責任なんて言葉で片付けられるような、軽いもんじゃなかったはずだ」


 白川は、泣きそうな顔で、それでいて激しい怒りを湛えて笑った。


「だから、俺は引き金を引く。これは街を守るためじゃねぇ。あいつの、弔いだ。あいつがいた世界を、あいつを奪ったバケモノに食い尽くされるのが、我慢ならねぇんだ」



 ​* * *

 

 ​それから数日後、恐れていた「線の崩壊」が

具現化した。

 バケモノが、絶対の安息地であるはずの市街地中心部に現れたのだ。


 響き渡る悲鳴。砕け散るシャッター。横転した軽トラックの下で、子供が泣き叫んでいる。

 結城は震える足で現場へ走った。白川もまた、老いた身体を酷使して横に並んでいた。


 ​「結城、右だ! 逃がすな!」

「はいッ!!」


 二体の異形が民家の屋根から降り立ち、牙を剥く。

 結城はライフルを構えた。だが、街中という極限状況で、視界に逃げ惑う人々が入る。


(当たらない……外したらどうなる……!)


 迷いが指を鈍らせ、放った弾丸は虚しくアスファルトを跳ねた。


 ​「くっ……!」


 その瞬間、一体が結城の喉元へ跳躍した。死が網膜に焼き付いた刹那、白川が結城の身体を力任せに突き飛ばした。


「下がれッ!!」

 ガチッ、パン!

 白川の放った一撃が空中で異形の頭部を粉砕する。だが、残る一体が反射的に白川の右肩へと食らいついた。


「白川さん!!」


 鮮血がアスファルトに花を咲かせる。白川は苦悶の表情を浮かべながらも、噛みついたバケモノの喉元へライフルの銃口を直接ねじ込んだ。


「――弔いだ。地獄で、あいつに謝ってこい」


 ドッ!

 至近距離での轟音。二体目が沈黙し、同時に白川の身体も、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。



 ​* * *



 ​白川は、集中治療室で九死に一生を得た。

 だが、バケモノの唾液に含まれる未知の毒素と、複雑に噛み砕かれた肩の傷は深刻だった。


「……神経がやられています。以前のように銃を握ることは、もう……」


 医師の言葉を結城は静かに聞いた。

 結城は、病室のベッドの横に立ち尽くしていた。

 白川は片目だけを開け、酸素マスク越しに微かに笑った。


「……仕留め、たかったんだよ。……あいつらに、この街まで奪われたままじゃ、死んでも死にきれねぇ」


 その声は細かったが、宿る意志の重さは、あの山で見た背中のままだった。

 結城は拳を握りしめ、震える声で告げた。


「白川さん。俺、あなたみたいになりたい。……今はまだ、銃もまともに構えられない新人ですけど。時間がかかっても、いつか、この『線』を守れる人間になります。あなたの弔いを、ここで終わらせたりしない」


 白川は、満足そうに目を閉じた。


「……なら、二度と逃げるな。……これからの線は、お前が引くんだぞ」

 ​病室のテレビからは、他人事のようにニュースが流れている。


「本日も隣接する〇〇市で、クマに似た生物による被害が確認されました。住民には厳重な――」


​ 街は救われていない。境界線は今も破られ続け、異形は夜の闇を嘲笑うように増え続けている。


 結城は病院を後にし、署の装備室へと向かった。


 白川から受け取った「覚悟」という名の重み。

 彼は静かに自分のライフルを分解し、整備を始めた。白川の手さばきを、その呼吸を、一分一秒の記憶を呼び起こしながら。


 ​(いつか、あの背中に追いついてみせる)

 

​ 窓の外、夕日が血のように赤く街を染めていく。

 夜が来る。バケモノが動く。

 それでも、線はまだ、守らなければならない。

 ​結城は、深く、長く呼吸を整え、重い鉄の塊をその手に取った。 

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