第2話 グレイの師父

さて、平民の子で名字もないような俺がなぜ賢者でも習得が難しいとされているエルフ語を知っているか、ちょっとした理由がある。


それは今から20年以上前。グレイがまだ10代半ばの、無鉄砲な駆け出し冒険者だった頃の話だ。


当時のグレイは、スラム街の掃き溜めで、一人の変わり者と一緒に暮らしていた。  


男の名は、ガランド。


片足を失い、酒と博打に溺れる、薄汚い老人のエルフだった。


彼はエルフの里を追放された「はぐれ者」だったが、その知識量は底がなかった。剣術、古代魔術、薬学、歴史……そして何より、言語学の天才だった。


「いいか、小僧。エルフ語ってのはな、喉で喋るんじゃねぇ。『心根』で歌うんだ」


安酒をあおりながら、ガランドはよくそう言っていた。


身寄りのない俺を拾い、基礎的な剣術とエルフ語を徹底的に叩き込んだのがこの老人だった。


「人間の寿命は短い。だが、言葉を学べば、千年前の歴史とも会話ができる。……それに何より、エルフのねーちゃんを口説く時に便利だぞ?」


そんな不純な動機(半分は冗談だろうが)で始まった特訓は、地獄だった。


エルフ語には、人間の言語にはない「音域」がある。風のそよぎ、水のせせらぎ、そういった自然音に近い発音を聞き分け、再現しなければならない。


俺には、その才能があった。「音」に対する異常なほどの聴覚と感受性だ。


来る日も来る日も、ガランドの罵倒(エルフ語)を浴びせられ、それを翻訳して言い返す日々。


3年が経つ頃には、グレイはエルフの古語(ハイ・エルフ語)から、里の若者が使うスラングまで、ネイティブレベルで理解できるようになっていた。


 ――そして、ある日。事件は起きた。


ガランドが流行り病であっけなくこの世を去る、数日前のことだ。


病床に伏せったガランドは、看病するグレイに向かって、いつものように共通語で憎まれ口を叩いた。


「けっ……辛気臭い顔をするな。俺はまだ死なんぞ。貴様のような出来の悪い弟子を残して死ねるか。とっとと水を持ってこい」


そう言って、背を向けたガランド。


だが、その背中から、震えるようなエルフ語が漏れた。


『(……ああ、怖いな。死ぬのは怖い。……だが、それ以上に……この子を一人にしていくのが、寂しくてたまらない)』


グレイは、水差しを持つ手を止めた。


師匠は、続けて呟いた。


『(愛しているぞ、グレイ。私の息子よ。お前は私の誇りだ。……どうか、幸せに生きておくれ)』


その時、俺は悟ってしまった。  エルフという種族は、本音を語る時ほど、母国語に逃げる生き物なのだ、と。


プライドが高く、他種族に対して素直になれない彼らは、最も大切な感情を、最も伝わりにくい言葉で覆い隠す。


俺は、溢れる涙をこらえ、聞こえていないフリをして答えた。


「……水だ。ほら、飲めよクソ親父」


『(……ありがとう。優しい子だ)』


それが、俺が「エルフ語がわかることを隠す」と決めた瞬間だった。


全部わかってしまうことは、時に野暮なのだ。  


彼らの高潔なプライドを守るために、そして、彼らが隠した「本当の愛」をこっそりと受け取るために、グレイは「無知な人間」を演じることを選んだ。

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