繰り返す初めましての恋
彼女視点
朝が来るたびに、私は少しだけ息を整える。
大げさな決意なんてものじゃない。ただ、靴紐を結ぶ前に深呼吸するみたいな、ほんの一拍。
今日は、何日目だろう。
三日目かもしれないし、四日目かもしれない。
正確な数字は、もう数えるのをやめた。
数え始めると、どうしても「終わり」が見えてしまうから。
彼女は、今日も私のことを知らない。
少なくとも、昨日までの私のことは。
でも、それを不幸だと思ったことは、最初の頃を除けば、あまりない。
悲しくないと言えば嘘になるけれど、悲しみだけでここには立っていない。
私は毎朝、彼女の顔を見る。
眠そうな目、少しだけ乾いた唇、起き抜けの曖昧な表情。
それは、何度見ても同じで、何度見ても違う。
「おはよう」
その一言を、私はいつも少しだけ慎重に選ぶ。
言い慣れた名前を、喉の奥にしまったまま。
本当は、呼びたい。
何度も呼んだその名前を、癖みたいに、無意識に。
でも呼ばない。呼ばないことを、私は選ぶ。
名前を呼ぶと、彼女は一瞬だけ、戸惑った顔をする。
その顔を見るたびに、胸の奥がぎゅっと縮む。
思い出せないことより、思い出せない自分を責めるその顔が、私はいちばん苦手だった。
だから、私は最初から始める。
はじめまして。
今日は何曜日?
寒いね。
コーヒー、飲む?
それらは全部、確認のための言葉だ。
曜日を知りたいわけじゃない。
天気を話したいわけでもない。
彼女が今、ここにいるかどうか。
私の声を聞いて、私を見て、返事をするかどうか。
それを確かめるための、合言葉みたいなもの。
答えが返ってきた瞬間、私は胸の奥で小さく頷く。
今日も大丈夫。
今日も、始められる。
最初の頃は、怖かった。
質問をするたびに、もし返事が返ってこなかったらどうしよう、と考えていた。
もし、私の存在そのものが抜け落ちていたら。
もし、目の前の私は、もう私を必要としなくなっていたら。
でも、それでも私はここにいる。
だって、彼女は答えてくれる。
少し迷いながらでも、少し不安そうでも、ちゃんと私のほうを見て、答えてくれる。
それは、記憶じゃない。
反射でもない。
その瞬間の、選択だ。
私は、その選択を信じることにした。
「また同じ質問してるね」
彼女がそう言って、少し照れたみたいに笑うことがある。
そのとき、私は冗談めかして肩をすくめる。
「寝ぼけてるの、私のほうかも」
本当は違う。
私は起きている。
ずっと、起きている。
忘れられる側になる覚悟は、もうとっくに済ませた。
でも、忘れる側にさせてしまう罪悪感は、今でも慣れない。
それでも私は、彼女の前からいなくならない。
彼女が何度も迷子になるなら、何度でも地図になる。
道しるべじゃなくていい。
ただ、戻ってこられる場所でいられれば、それでいい。
私たちは、完璧な恋人じゃない。
将来の話も、思い出話も、積み重ならない。
でも、朝は来る。
彼女は目を覚ます。
私はそこにいる。
それだけで、十分だと思える日が、確かにある。
はじめまして、は、別れの言葉じゃない。
私にとっては、選び直すための言葉だ。
今日も、あなたを選ぶ。
昨日のあなたじゃない、
明日のあなたでもない、
今、ここにいるあなたを。
だから私は、今日も少しだけ息を整えて、
いつもの声で、問いかける。
「ねえ、今日って、何曜日だっけ」
その答えを聞ける限り、
この恋は、まだ終わっていない。
「私は彼女の“最初の人”であり続ける。」
――何度でも、はじめまして。
私は今日も、あなたに恋をする。
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