最終章 今日も、初めまして
朝は、やっぱり音から始まる。
電気ポットが鳴って、キッチンの床を歩く足音がして、カップが置かれる。
その順番は、驚くほど正確だ。昨日も、その前も、その前も。
順番が同じだと、世界はまだ壊れていない気がする。
私は布団の中で目を開ける。
天井の角にできた影を見る。
――知らない影だ。
でも、怖くはない。
怖さは、もう名前を持っているから。
彼女がこちらを振り返る。
一瞬だけ、深く息を吸うのが分かる。
その仕草も、私は知っている。
彼女が、決心をするときの呼吸だ。
「おはよう」
声はやさしい。
でも、昨日より少しだけ慎重だ。
私は体を起こす。
床に足をつけると、冷たい。
この冷たさも、初めてじゃない。
それだけで、少し安心する。
「……おはよう」
自分の声が、少しだけ他人みたいに聞こえる。
それでも、ちゃんと返事になっている。
それでいい。
彼女はマグカップを持ったまま、こちらを見る。
視線が合って、すぐに逸れる。
その間が、すべてを含んでいる。
「ね」
来る。
分かっている。
分かっていても、心臓は小さく跳ねる。
「今日は……」
彼女は言葉を選ぶ。
選ばなくていい言葉なのに、選んでいる。
「はじめまして、だよね?」
私は一瞬、何も考えなかった。
考えるより先に、体が理解していた。
ああ、今日はそういう日だ。
昨日の私が、もういない日。
でも、私という存在が、完全に消えたわけじゃない日。
私は彼女を見る。
彼女の目は、私を映している。
その像は揺れていない。
揺れているのは、たぶん私のほうだ。
「……うん」
頷くと、首のあたりで、何かが軽く鳴った気がした。
錆びた歯車が、また噛み合った音。
「はじめまして」
その言葉は、不思議と重くなかった。
初めて口にするはずなのに、舌が覚えている。
何度も言ってきた言葉だから。
彼女は、少しだけ泣きそうな顔で笑った。
でも泣かない。
泣かない選択を、何度もしてきた人の顔だ。
「よかった」
よかった、の意味が、前と違う。
前は、曜日が合っていることへの「よかった」だった。
今は、私がここにいることへの「よかった」だ。
私は立ち上がって、キッチンへ行く。
彼女の横に並ぶ。
距離は、昨日と同じ。
でも、昨日という言葉が、もう曖昧だ。
「コーヒー、飲む?」
彼女が聞く。
私は少し考えてから、答える。
「……飲む」
少し考えた、という事実が、今の私だ。
即答できない。
でも、選べる。
彼女は頷いて、砂糖の瓶を手に取る。
瓶を振る音がする。
その音は、雨に似ている。
何度も聞いてきた音。
私はテーブルの上を見る。
日記帳が置いてある。
見覚えがある。
でも、中身は知らない。
「それ、読む?」
彼女が聞く。
私は首を振った。
「……今日は、いい」
今日の私は、昨日の私じゃない。
昨日の私の言葉を読んでしまったら、
今日の私が、今日でなくなってしまう気がした。
彼女は「そっか」と言って、日記帳を引き出しにしまった。
無理に勧めない。
その優しさが、胸に刺さる。
「ねえ」
彼女が、少しだけ明るい声を出す。
わざとだ。
空気を変えようとしている。
「今日はさ、散歩行こうか」
私は、その言葉を聞いて、笑った。
理由は分からない。
でも、笑えた。
「いいね」
外に出る準備をする。
靴を履く。
コートを羽織る。
玄関の鏡に、二人が映る。
鏡の中の私は、少しだけ知らない顔をしている。
でも、隣にいる彼女は、知っている顔だ。
それでいい。
ドアを開けると、冷たい空気が流れ込む。
外の世界は、何事もなかったみたいに続いている。
曜日も、季節も、社会も。
彼女が鍵を閉める。
その音を聞きながら、私は思う。
私の記憶は、数日で消える。
それは、もう知っている。
知っている、という状態も、いつか消える。
それでも。
彼女は今日も、ここにいる。
私に向かって、同じように声をかける。
同じように、手を差し出す。
「行こ」
彼女が言う。
私はその手を取る。
初めて取るみたいに、確かめながら。
外の音は大きい。
車の音、人の声、風の音。
全部が混ざって、世界を作っている。
その中で、彼女の声だけが、はっきり聞こえる。
「今日は、水曜日だよ」
確認じゃない。
教えるでもない。
共有だ。
私は頷く。
覚えていなくても、頷ける。
この関係は、積み重ならない。
思い出は、毎回ここで途切れる。
それでも、始まりはある。
始まりだけは、何度でも。
彼女は今日も、
私に恋をするところから始めてくれる。
それで十分だと、
今の私は、思っている。
――だから、今日も。
はじめまして。
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