第7話 今回は3日



 病院の廊下は、音が少ない。


 正確に言えば、音はあるのに、意味がない。足音は響くけれど、誰のものか分からない。カートが転がる音も、どこか遠くで鳴っているみたいで、自分と関係のある音だとは思えない。


 白い。壁も床も天井も、同じ白さをしている。その白さは清潔というより、情報を拒む白だ。ここでは、余計な感情は歓迎されない。


 私は椅子に座っていた。背もたれが硬くて、背骨が少し痛い。何分ここに座っているのか分からない。スマホはポケットに入ったままだ。取り出す理由が見つからない。


 向かいに、彼女が座っている。


 彼女は、私よりもずっと落ち着いていた。膝の上に手を重ねて、視線を床に落としている。髪は整っていて、服もきちんとしている。いつも通りの彼女だ。ここが病院であることを除けば、散歩の帰りにカフェで順番を待っているみたいに見える。


 私は、彼女の横顔を見ていた。


 不思議だった。

 私のほうが緊張している理由が、はっきりしない。


 「……大丈夫?」


 私が言うと、彼女はゆっくり顔を上げた。


 「うん」


 短い返事。

 でも、その「うん」は、私を安心させるための音だった。


 名前を呼ばれた。


 呼ばれた気がして、私は立ち上がった。

 いつもの癖で、彼女のほうを見る。


 「行ってきて」


 彼女が言う。

 それは、見送る人の言葉だった。


 私は一瞬、立ち止まった。

 行ってくる、と言われる側と、言う側。

 その配置が、なぜかしっくりこない。


 診察室のドアが閉まる。

 軽い音。

 閉じた、というより、区切られた音。


 椅子に座ると、医師はカルテを見ていた。紙をめくる音が、やけに大きく聞こえる。紙の音は、嘘をつかない。書かれていることがすべてだと、主張する音。


 「体調はどうですか」


 医師が聞く。


 私は少し考えた。

 体調。

 頭が痛いわけでも、熱があるわけでもない。

 ただ——。


 「普通です」


 そう答えた。

 普通、という言葉は便利だ。説明を省ける。


 医師は頷いた。


 「今回は、三日でしたね」


 その言葉が、私の中で止まった。


 今回は。

 三日。


 「……何が、ですか」


 私の声は、思ったよりも静かだった。

 声を荒げる理由が、まだ見つからない。


 医師は私を見ず、カルテに視線を落としたまま言う。


 「記憶です」


 空気が、一段ずれる。


 耳鳴りのようなものがした。でも実際に鳴っている音じゃない。世界の焦点が、少しだけ外れた感覚。


 「短期記憶の保持期間が、今回は三日でした」


 私は、理解しようとした。

 理解しようとして、言葉を頭の中で並べる。


 短期記憶。

 保持。

 三日。


 「……それは」


 言葉が続かない。

 質問の形が作れない。


 医師は、ようやく顔を上げた。


 「ご自身の症状について、どこまで把握していますか」


 私は、口を開けた。

 何かを言おうとして、何も出てこなかった。


 把握。

 把握、しているはずだった。

 私は、彼女のことを心配していた。

 忘れっぽい彼女を、支える側だと思っていた。


 その前提が、静かに崩れる。


 「あなたは、記憶が数日単位で抜け落ちます」


 医師の声は、淡々としていた。

 感情がない声。

 感情を乗せる必要のない説明。


 「新しい記憶から、順にです」


 私は笑いそうになった。

 冗談みたいだ、と思った。

 だって私は——。


 「……でも」


 私は言った。


 「私は、ちゃんと覚えてます」


 何を、と問われる前に、私は続ける。


 「彼女のことも。

  一緒に住んでることも。

  朝、何を食べたかも」


 言いながら、不安が生まれる。

 朝、何を食べた?

 トースト。

 ジャム。

 コーヒー。


 それは本当に、今朝のことだろうか。


 医師は、首を横に振らなかった。

 否定もしなかった。


 「ええ。

  それは、今のあなたが持っている記憶です」


 今の。

 という言葉が、やけに重い。


 「でも、それは更新されます。

  いえ、上書きされると言ったほうが近いかもしれません」


 医師はカルテを閉じた。


 「あなたが“忘れている”ことに、あなた自身は気づけません」


 その一言で、すべてが繋がった。


 同じ質問。

 曜日。

 予定。

 昨日。


 彼女の目の揺れ。

 安心した表情。

 「ありがとう」という言葉。


 私は、支えていたのではなかった。


 確認されていたのは、私だった。


 「彼女は……」


 私は、喉が乾くのを感じながら言った。


 「彼女は、知っているんですか」


 医師は、少しだけ間を置いた。


 「ええ。

  彼女は、あなたの状態を理解しています」


 理解。

 理解して、それでも——。


 診察室を出ると、彼女が立ち上がった。


 「終わった?」


 彼女の声は、いつもと同じだった。

 私の名前を呼ばない声。


 私は、彼女を見た。

 初めて見る人みたいに、見てしまった。


 「……うん」


 それしか言えなかった。


 廊下を歩きながら、私は彼女の背中を見ていた。

 置いていかれると思っていた背中。

 実際には、私が何度も置いてきた背中。


 エレベーターの中、鏡に二人が映る。

 彼女と、私。

 並んで立っているのに、同じ時間を生きていない。


 「ねえ」


 彼女が言った。


 私は、条件反射で身構える。


 「今日って、何曜日だっけ」


 私は、息を吸った。


 そして、初めて気づいた。

 この質問は、忘れたからじゃない。


 私が、まだ“今日”にいるかを確かめるためのものだ。


 「……火曜日」


 言うと、彼女は小さく笑った。

 ほっとした顔。


 「よかった」


 よかった。

 それは、私がまだ彼女の隣にいる、という意味の言葉だった。


 エレベーターが止まる。

 ドアが開く。


 外の光が差し込んで、世界がまた動き出す。


 私は、怖かった。

 でも同時に、知ってしまった。


 彼女は、毎日、私に会い直している。


 私が忘れるたびに。

 何度でも。


 ——それでも。


 それでも彼女は、今日もここにいる。


 その事実だけが、胸の奥で静かに鳴っていた。

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