第6話 前と今の違い




 病院の待合室は、音が少ない。


 正確には、音はあるのに、どれも意味を持たない。空調の低い唸り、遠くで閉まるドアの音、誰かが咳をする気配。どれも生活の音に似ているのに、どこかよそよそしい。ここでは、音が人に向かわない。


 白い壁に囲まれて、私は椅子に座っていた。ビニール張りの椅子は、体温を吸わない。長く座っても、座った感じがしない。自分の重さが、どこにも残らない。


 彼女は隣に座っている。コートを膝に畳み、両手を重ねて、視線を前に向けている。姿勢が良すぎて、少し緊張しているのが分かる。病院に慣れている人の姿勢じゃない。


 「寒くない?」


 私が聞くと、彼女は一瞬遅れてこちらを見た。


 「ううん、大丈夫」


 返事は普通だった。声の高さも、間の取り方も、いつも通り。でも、その「いつも通り」が、今日は少しだけ重たい。


 私たちは、なぜ病院に来ているんだっけ。


 その問いが、ふと浮かんだ。

 浮かんでから、すぐに打ち消す。理由は分かっている。分かっているはずだ。彼女が「一応、診てもらおうか」と言ったから。最近、ちょっと忘れっぽい気がするって。大したことじゃないけど、念のため。


 念のため。

 その言葉は便利だ。大げさじゃない顔をして、不安を正当化できる。


 待合室のテレビでは、音を落としたワイドショーが流れている。芸能人の顔が笑ったり、曇ったりしている。字幕だけが、やけに元気だ。何かが起きて、何かが問題になって、何かが解決したらしい。でも、その何かが何なのか、ここにいる私たちには関係ない。


 「名前、呼ばれたら行こうね」


 彼女が言う。


 「うん」


 私は頷いた。

 呼ばれる名前。どちらの名前だろう。


 その疑問に、自分で驚く。どちらの名前、なんて考える必要はないはずだ。診察を受けるのは——。


 私は、口を閉じた。

 考えを深く掘ろうとすると、頭の中がざらつく。指で撫でると引っかかる、古い紙みたいな感触。こういう感覚は、あまり信用しないほうがいい。感覚は、いくらでも嘘をつく。


 名前が呼ばれた。


 彼女が立ち上がる。私も立つ。動きは自然で、どちらが先ということもない。二人で一緒に立ち上がる動作は、長く一緒にいる人同士のそれだ。


 診察室は、思ったより狭かった。机と椅子と、簡単な診察台。壁に貼られた人体図が、やけに具体的だ。骨と筋肉と内臓。人は、こんなにも中身があるのに、外からは分からない。


 医師は、淡々とした人だった。年齢も性別も、あまり印象に残らない。こういう場所では、印象に残らないことが安心に繋がる。


 「最近、気になることがあると」


 医師が言う。


 彼女が頷く。


 「はい。ちょっと、物忘れというか……同じことを何度も聞いてしまうみたいで」


 私はその言葉を、横で聞いていた。

 同じことを何度も聞く。

 その説明は正しい。正しいけれど、どこか一方向だ。


 医師は私のほうをちらりと見た。


 「ご家族の方ですか?」


 「恋人です」


 私は答えた。即答だった。即答できたことに、少しだけ安心する。こういう基本的な情報は、ちゃんと持っている。


 医師は「そうですか」と言って、彼女にいくつか質問をした。生年月日、最近の生活、睡眠、食事。彼女は落ち着いて答える。詰まることも、迷うこともない。


 私は、その様子を見ながら、胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じていた。ほら、大丈夫だ。ちゃんと受け答えできている。私が気にしすぎていただけだ。


 「では、少し簡単な質問をしますね」


 医師が言った。


 「今日は何年の、何月何日か分かりますか?」


 彼女はすぐに答えた。

 年も、月も、日も、正確だった。


 「今いる場所は?」


 「◯◯病院です」


 「どうしてここに来ましたか?」


 彼女は一瞬だけ、私のほうを見た。それから、


 「最近、同じ質問をしてしまうことがあって……心配になったので」


 と答えた。


 医師は頷き、今度は私のほうを見た。


 「付き添いの方から見て、何か変化はありましたか?」


 私は少し考えた。

 考えてから、言葉を選んだ。


 「……忘れっぽい、とは思います。でも、生活には支障はなくて」


 その瞬間、彼女がこちらを見た。視線が合う。ほんの一瞬のことなのに、その視線に、言葉にならないものが含まれている気がした。否定でも、同意でもない。確認に近い。


 医師はメモを取りながら言う。


 「いつ頃からですか?」


 「最近です」


 と私は答えた。

 最近。

 便利な言葉だ。範囲が広くて、責任が薄い。


 医師は質問を続ける。簡単な計算、短い単語の復唱。彼女はすべて、問題なくこなす。私の中で、さっきまでの不安が、少しずつ溶けていく。


 「では、最後に」


 医師が言った。


 「今朝、何を食べましたか?」


 彼女は答えた。


 「トーストと、コーヒー。ジャムは……」


 そこで少しだけ、言葉が止まった。


 「いちご、だったかな」


 私は息を止めた。

 ジャムはいちごだった。たしかに。私はそれを見ていた。


 医師は「大丈夫ですよ」と言って、穏やかに頷いた。


 「では、今日はこれで。大きな問題はなさそうです。ただ、気になるようでしたら、また来てください」


 診察は終わった。

 拍子抜けするほど、あっさりと。


 診察室を出て、廊下を歩く。白い床に、私たちの足音が響く。外よりも、ここでは音がよく反響する。閉じた場所の音だ。


 「よかったね」


 私が言うと、彼女は少し笑った。


 「うん……ありがとう」


 ありがとう、という言葉が、また胸に引っかかる。彼女は何に感謝しているんだろう。付き添ったこと?信じてくれたこと?それとも——。


 会計を待つ間、私はスマホを取り出した。時間を確認する。画面には日付が表示されている。曜日も。


 月曜日。


 私はそれを見て、なぜかほっとした。確認できたことで、何かが確定した気がした。現実に触れた感じ。


 彼女は私の画面をちらっと見た。


 「……今日、月曜日なんだね」


 その言い方が、初めて知ったみたいで、私は胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。


 「そうだよ」


 私は言った。


 彼女は頷いたあと、少しだけ首を傾げた。


 「ねえ」


 私は、また来る、と思った。

 質問が。

 でも、それは彼女の口からじゃなかった。


 「この前さ」


 彼女が言う。


 「あなたが言ってたこと、覚えてる?」


 私は言葉に詰まった。

 この前。

 それは、いつのことだろう。


 「……どれ?」


 彼女は、少しだけ困った顔をした。


 「ほら、あの……」


 言葉を探す仕草。探しているのは、彼女の記憶なのか、それとも、私の反応なのか。


 「前にね、あなたが言ったの。

 『それ、前にも話したよ』って」


 私は、何も言えなかった。


 そんなことを言っただろうか。

 言った気もするし、言っていない気もする。


 彼女は私の沈黙を見て、ふっと笑った。


 「ごめん。今の、忘れて」


 忘れて。

 その言葉が、重く落ちる。


 彼女は続けた。


 「私、混ざっちゃうんだよね。前と、今が」


 前と、今。

 その言葉は、私の胸に深く刺さった。


 「あなたにとっては“前”でも、

 私にとっては“今”だったりして」


 彼女は、冗談めかして言った。

 でも、その目は冗談をしていなかった。


 私は笑えなかった。

 笑うべきところなのに。


 「そういうこと、あるよ」


 私はやっと言った。

 自分でも、誰に向けた言葉なのか分からない。


 病院を出ると、外の空気が一気に流れ込んできた。冷たくて、現実的で、少しだけ救いがある。さっきまでの白い世界が、嘘みたいだ。


 彼女は空を見上げて言った。


 「空、きれいだね」


 「うん」


 私たちは並んで歩き出す。

 さっきまでと同じ道。

 同じはずの道。


 でも私は、確信してしまった。

 何かが、前と同じじゃない。


 それが彼女なのか、私なのか。

 まだ、分からない。


 分からないまま、歩くしかない。

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