第5話 書いておかないと
夜は、音が減る。
外を走る車の数が少なくなって、遠くの信号音も間隔が空く。昼間は気にならなかった冷蔵庫の低い唸りや、壁の向こうで誰かが椅子を引く音が、妙に近く感じられるようになる。夜は、生活の裏側が浮き出る時間だ。
彼女は先に眠っていた。ベッドの片側だけが少し沈んでいて、毛布の端が彼女の肩にかかっている。寝息は静かで、一定だ。呼吸のリズムが安定していると、人は無防備に見える。私はその横顔を、しばらく見ていた。
眠っている彼女は、起きているときより少し幼い。眉の力が抜けて、口元も緩んでいる。昼間、川沿いで見せた不安そうな表情も、同じ質問をしたときの真剣な目も、ここにはない。ただ、眠っている人の顔がある。
私は、そっとベッドを抜けた。
リビングの電気はつけず、デスクライトだけを点ける。小さな明かりが、机の上だけを照らす。光の円の外は暗くて、部屋の輪郭が曖昧になる。全部が見えないくらいが、ちょうどいい。
机の引き出しを開けると、ノートが一冊入っている。表紙は無地で、色も地味だ。特別なものには見えない。だからいい。特別じゃないもののほうが、続く。
私は椅子に座って、ノートを開いた。紙の匂いがする。インクの匂いじゃなくて、紙そのものの匂い。新しい匂いと、少しだけ湿った匂いが混ざっている。手書きのものには、こういう匂いがある。
ペンを持つ。指に少しだけ力が入る。書く前の、この一瞬が好きだ。まだ何も決まっていない感じがするから。
日付を書く。
今日の日付。
……私は一瞬、考えた。
スマホを見ればいい。正確な日付が分かる。でも私は見なかった。見なかった理由を、うまく説明できない。確認することが、何かを壊す気がした。曜日を聞かれたときに、画面を見なかったのと同じ理由。
私は、思い出そうとした。今日が何日で、何曜日で、どんな一日だったか。
書いた。
――今日は、散歩に行った。
文字が紙に乗る。乗った文字は、もう私の頭の中には戻らない。紙の上に固定される。固定されると、安心する。
――川沿いを歩いた。焼き芋を食べた。
焼き芋。甘かった。指が熱くなった。そういうことは覚えている。感覚の記憶は、形を持たないから残りやすい。甘さ、熱さ、冷たさ。名前のいらないもの。
――彼女は、今日も同じ質問をした。
私はそこで、少しだけペンを止めた。
同じ質問。
どのくらい同じだったか。何回だったか。朝と、外で、帰り道で。
数えようとしたけれど、途中でやめた。数にすると、急に現実味が出る。現実味は、必要以上に人を追い詰める。
――曜日のこと。
そう書いて、私は一度、ノートから目を離した。デスクライトの外側は暗い。暗い部屋の中で、私とノートだけが浮いている。世界が、これだけになったみたいだ。
私は、なぜ書いているんだろう。
自分のためだ。そう思う。忘れないため。整理するため。頭の中に溜まった小さな違和感を、外に出すため。言葉にしないと、形にならないものがある。
それに、彼女のためでもある。彼女がもし、「また同じことを聞いた?」と不安になったとき、私は「大丈夫だよ」と言える。その裏付けとして、ここに書いておけばいい。
そう思った。
でも、その考えのどこかに、引っかかりがあった。
裏付け。
誰のための、裏付けだろう。
私は考えるのをやめて、続きを書いた。
――彼女は少し怖いと言っていた。
怖い。
その言葉は、重い。理由が分からない怖さは、理由が分かる怖さより扱いづらい。
――私は「大丈夫」と言った。
大丈夫。
私は、何度この言葉を使っただろう。大丈夫は便利だ。説明しなくていいし、考えなくていい。大丈夫と言ってしまえば、その場は終わる。
終わらせたいときに、人は大丈夫と言う。
私は、ページをめくった。前のページには、昨日の記録があるはずだ。昨日。昨日も、同じように書いた気がする。散歩。質問。曜日。
私はページを見た。
文字は、私の字だった。間違いない。少し右上がりで、角が丸い。急いで書いたところは、線が少し震えている。
――今日は、特に何もない一日だった。
昨日の一文。
特に何もない。
私は、その一文をしばらく見つめた。特に何もない、というのは、本当に何もなかった日の言葉だ。でも、それは同時に、何かを見ないようにした日の言葉でもある。
昨日のページにも、書いてあった。
――彼女は、同じ質問をした。
その前のページにも、同じような文がある。
その前も。
その前も。
私は、ページをめくる手を止めた。
同じ文が、同じ言葉で、同じ位置に並んでいる。微妙に違うのは、日付と、私のペンの勢いだけ。内容は、ほとんど変わらない。
私は、急に喉が渇いた。
水を飲もうとして立ち上がり、キッチンに行く。冷蔵庫を開けると、冷たい空気が顔に当たる。私はコップに水を注いで、一気に飲んだ。
冷たさが体に落ちていく。現実に戻る感じがする。
大丈夫。
これは、彼女の変化を記録しているだけだ。そういうこともある。人は、少しずつ変わる。忘れっぽくなることだってある。
私は自分にそう言い聞かせて、机に戻った。
ノートを閉じようとして、ふと、最後のページに何か書いてあるのに気づいた。ページの端のほうに、小さな字で。
――書いておかないと。
それだけ。
いつ書いたのか、分からない。インクの色は、他のページと同じだ。私の字だ。でも、その文を書いたときの記憶が、ない。
書いておかないと。
何を?
誰のために?
私はその文を指でなぞった。紙の凹凸が指先に伝わる。確かに、ここに書かれている。現実だ。
私は、もう一度今日のページに戻って、続きを書いた。
――私は、ちゃんと覚えておく。
書いた瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった。宣言みたいなものだ。宣言は、人を安心させる。
何を覚えるのか、具体的には書かない。具体的にすると、失敗したときがはっきりしてしまう。ぼんやりとした約束のほうが、守りやすい。
私はペンを置いた。
デスクライトを消すと、部屋はまた暗くなる。ベッドに戻る前に、もう一度彼女の顔を見る。眠っている。変わらない。今は。
私はベッドに潜り込んで、目を閉じた。
暗闇の中で、今日の質問が反響する。
今日って、何曜日だっけ。
答えは分かる。分かるはずだ。
でも、答えより先に浮かぶのは、ノートの中の同じ文たちだった。
――彼女は、同じ質問をした。
その文が、なぜか、私のことを指しているような気がして、私は目を開けた。
天井は暗い。影が、昼間とは違う形をしている。影の形は、時間で変わる。でも、変わっているのに、同じに見えることもある。
私は息を整えて、もう一度目を閉じた。
書いておかないと。
その言葉が、子守唄みたいに頭の中で揺れる。
何かを忘れないために、私は書いている。
そう信じることでしか、眠れなかった。
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