第4話 はじめましてって、言ったほうがいい?



 夕方の光は、時間を曖昧にする。


 昼でも夜でもない色。カーテン越しに部屋へ差し込む橙色は、物の輪郭を少しだけ溶かして、影を長く伸ばす。朝の白さとは違って、ここには判断を先延ばしにする力がある。


 外出から戻った私たちは、玄関で靴を脱いだまま、しばらく立っていた。特別な理由はない。ただ、外と内の境目にいる時間が、必要だっただけだと思う。


 彼女はコートを脱いで、ハンガーにかけた。動作は丁寧で、音が小さい。布が擦れる音、金具が揺れる音。その一つ一つが、ここが「帰ってくる場所」だと教えてくれる。


 「ちょっと暑くなったね」


 彼女が言う。


 「うん」


 私は靴下を脱いで、床に足をつけた。外より少しだけ温かい。体温が戻ってくる感じがする。外ではずっと、体の表面だけで生きていた気がした。


 リビングの窓から、夕焼けが見えた。さっきまで歩いていた川沿いも、たぶん同じ色に染まっている。世界は、場所に関係なく同じ色になることがある。その事実が、少し怖い。


 彼女はソファに腰を下ろして、スマホをテーブルに置いた。画面が暗くなる。外でたくさん使ったのに、通知は少ない。私たちの生活は、外の世界とそこまで強く繋がっていない。


 「疲れた?」


 私が聞くと、彼女は首を振った。


 「楽しかった」


 楽しかった。

 その言葉に、私はほっとする。楽しかったという感想が、今日を「正常な一日」にしてくれる気がした。


 彼女は背もたれにもたれて、天井を見上げた。夕方の光が、まつ毛の影を長くする。私はその影を見ながら、昼間の質問の数を思い出していた。数えようとして、途中でやめる。数えるほど、現実になってしまう。


 「ねえ」


 彼女が言う。声は軽い。昼間の川沿いで聞いた声より、少しだけ柔らかい。


 「ん?」


 「今日さ」


 彼女は少し言葉を探すみたいに、間を置いた。指先でソファの縫い目をなぞる。布の感触を確かめるみたいな動き。


 「……はじめまして、って言った方がいい?」


 その言葉は、冗談みたいに落ちた。


 一瞬、意味が分からなかった。言葉としては分かる。でも、それがここで出てくる理由が、掴めない。冗談だと判断するには、間が少しだけ長い。


 私は笑った。

 反射だったと思う。


 「なにそれ」


 声に出した瞬間、空気が少し軽くなる。冗談だ、という方向に世界を押し戻す。彼女も、それを待っていたみたいに笑った。


 「だよね。変だよね」


 変だよね。

 その一言で、話は終わるはずだった。


 でも、私は彼女の笑顔の奥に、ほんの一瞬だけ別の表情を見た。確認が取れた人の顔。質問に対する答えが得られた人の顔。


 私はその違和感を、すぐに打ち消す。疲れているせいだ。外出したから、感覚が過敏になっているだけ。人は理由を探すのが得意だ。探した理由を、信じるのも得意だ。


 「何か飲む?」


 私は話題を変えた。話題を変えるのは、逃げじゃない。生活のための技術だ。


 「お茶」


 彼女は即答した。即答できることが、また少しだけ私を安心させる。


 キッチンに立つと、部屋の空気が変わる。リビングよりも少しだけ現実的な匂い。洗剤、食器、冷蔵庫の中の野菜。生きるための匂い。


 お湯を沸かす音がしている間、私は背中越しに彼女の気配を感じていた。ソファに座っているはずなのに、距離が近い。彼女がここにいる、という事実が、音よりもはっきり伝わってくる。


 「ねえ」


 彼女がまた言った。


 私は一瞬、身構える。

 でも声の調子は、さっきまでと同じだ。


 「この前さ、ここで映画見たよね」


 この前。

 私は言葉を探す。映画。確かに見た気がする。どんな映画だったか、ぼんやりと思い出そうとする。画面が暗くて、音が大きくて、途中で彼女が眠ってしまった——。


 「見たね」


 私は言った。言い切るには、少しだけ勇気が必要だった。


 「泣いてたよね、私」


 彼女は笑いながら言う。


 泣いてた。

 私は、その場面を想像する。彼女がどんな顔で泣いていたのか。鼻をすする音。目を擦る仕草。


 「……泣いてた」


 私はそう答えた。正しいかどうかは分からない。でも、彼女がそう言うなら、そうだったのだろう。


 彼女は満足そうに頷いた。


 「よかった。ちゃんと覚えてる」


 その言葉が、胸に引っかかる。


 覚えてる。

 誰が?何を?

 問いが頭の中に浮かぶ前に、ポットが沸いた音が鳴った。現実が割り込んでくる。


 私は湯呑みにお湯を注いで、茶葉を入れる。湯気が立ち上る。湯気は形を持たないくせに、そこにあると分かる。記憶みたいだと思った。


 リビングに戻ると、彼女は姿勢を正していた。さっきまでより、少しだけ緊張している。何かを言おうとしている人の姿勢。


 「ねえ」


 彼女が言う。

 私は、今度は身構えずに「うん」と返事をした。


 「もしさ」


 彼女は一度言葉を切ってから続ける。


 「私が、同じこと何回も聞いてたら……どうする?」


 どうする。

 質問の形は仮定だけど、内容は現実に近すぎる。


 私は考えた。正直に答えるべきか、優しい答えを出すべきか。優しい答えが正しいとは限らない。でも、正直な答えが正しいとも限らない。


 「……何回でも答える」


 私はそう言った。言ってから、その言葉の重さに気づく。何回でも、という言葉は、期限を持たない。未来を含んでしまう言葉だ。


 彼女は、その答えを聞いて、少しだけ目を伏せた。安堵と、別の感情が混ざった表情。


 「そっか」


 彼女は小さく言った。


 沈黙が落ちる。夕方の沈黙は、夜よりも不安定だ。これから何かが起きるかもしれないし、何も起きないかもしれない。その両方が、同時に存在している。


 彼女は湯呑みを手に取って、少しずつ飲んだ。飲むたびに、肩の力が抜けていく。安心しているのが分かる。安心している理由が分からないのが、怖い。


 「ねえ」


 彼女がまた言う。


 私はもう驚かない。驚かないこと自体が、少しだけ異常だ。


 「今日って、何曜日だっけ」


 その質問は、もう衝撃ではなかった。

 むしろ、確認だった。これが来るかどうかを、私は待っていた。


 「日曜日」


 私は即答した。考える前に、言葉が出た。体が覚えてしまった答え。


 彼女は「ありがとう」と言って、微笑んだ。さっきよりも、はっきりした安心の笑顔。


 その笑顔を見て、私は確信する。

 この質問は、忘れているから出てくるんじゃない。


 確認している。

 何かを。

 たぶん、私を。


 でも、その考えを言葉にするのは、まだ早い。早すぎる。言葉にした瞬間、私たちは違う場所に行ってしまう気がする。


 夕焼けが、部屋の中でゆっくり色を失っていく。オレンジが薄くなり、影が濃くなる。昼と夜の境目が、曖昧に溶けていく。


 彼女はソファに深く腰を下ろして、目を閉じた。


 「ちょっと、眠いかも」


 「寝る?」


 「ううん、起きてる」


 起きてる、という言葉が、なぜか胸に残る。起きているとは、何を指すのか。目を開けていることか。意識があることか。今を認識していることか。


 彼女は目を閉じたまま、私の手を探して、そっと握った。昼間よりも、しっかりした握り方。


 「ねえ」


 私は「なに」と答えた。


 「……はじめまして、って言わなくていいよね」


 冗談みたいな言い方。でも、さっきよりも真剣だ。


 私は少しだけ間を置いてから、答えた。


 「うん。言わなくていい」


 彼女は、それを聞いて、安心したみたいに息を吐いた。小さく、深い息。


 そのとき、私は思った。

 もし彼女が、私に“はじめまして”と言わなければならない日が来るとしたら。


 その日は、私が決める日ではない。

 彼女が決める日だ。


 そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ冷えた。


 夕方が終わり、夜が来る。

 今日という一日は、まだ終わっていない。


 でも、私はなぜか、

 今日をもう一度生きているような気がしていた。

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