第3話 覚えていること
夜になると、部屋は少しだけ広くなる。
昼間、外の音に押されていた壁が、夜になると元の位置に戻るみたいに、静けさが戻ってくる。カーテンを閉めると、外の世界はそこで終わる。テレビはつけていない。つけなくても、二人でいるときは音が足りている。
キッチンの明かりだけが点いていて、リビングは半分、影の中だ。影はやさしい。はっきりしないものを、はっきりしないまま置いておいてくれる。
彼女はソファに座って、膝を抱えていた。外から戻ってきたときのコートはもう脱いでいて、部屋着の柔らかい布が、彼女の輪郭を少し曖昧にしている。私はキッチンでお湯を沸かしながら、その背中を見ていた。
ポットが沸くまでの時間は、ちょうどいい。長すぎず、短すぎない。考えすぎずに済む。
「紅茶でいい?」
私が聞くと、彼女は振り向かずに「うん」と答えた。その声は、昼間より少し低い。疲れた声。外にいるときの声と、部屋の中の声は違う。部屋の声は、守られている。
ティーバッグをカップに入れて、お湯を注ぐ。湯気が立ち上る。昼間のコーヒーより、匂いが丸い。カモミール。彼女が好きなやつ。私はそれを覚えている。少なくとも、それは覚えている。
カップを二つ持ってソファに行くと、彼女は自然に少しだけ体をずらして、私の分の場所を空けた。言葉がなくても成立する動き。こういうところで、私はいつも安心してしまう。関係がちゃんと、今も続いている証拠みたいだから。
「ありがと」
彼女はカップを受け取るとき、必ず両手を使う。片手で受け取れるはずなのに、両手を使う。丁寧というより、癖だ。私はその癖が好きだった。大切なものを扱うときの手つきに見えるから。
カップに口をつけた瞬間、彼女が小さく息を吐いた。
「あつ」
その言い方が可笑しくて、私は笑った。彼女も笑う。笑いは連鎖する。理由がなくても。
「いつも言うよね」
私が言うと、彼女は首を傾げた。
「え、そうだっけ」
その一言で、昼間の違和感が一瞬、頭をよぎる。でもすぐに消える。だって今、彼女はちゃんと、ここにいる。熱い紅茶に驚いて、同じように息を吐いて、同じように笑っている。
「ほら、前も」
私が言いかけると、彼女はすぐに続けた。
「前も言った、って言うんでしょ」
私は言葉を止めた。
彼女は、にやっと笑う。
「分かってるよ。それ」
胸の奥が、少しだけほどけた。彼女は気づいている。少なくとも、自分の反応が繰り返されていることを。だから私は、「忘れてる」という言葉を、また胸の奥にしまう。しまって、蓋をする。
「ねえ」
彼女が言う。
私は一瞬だけ身構えた。でも、彼女の声は穏やかだった。
「あなたさ、靴下、左右いつも逆だよね」
「……え?」
私は思わず、自分の足元を見た。確かに、色が微妙に違う。右が濃くて、左が薄い。言われるまで気づかなかった。
「ほら。片方、ワンポイント入ってる」
彼女はそう言って、私の足先を指差した。距離が近い。私は少しだけ足を引っ込めた。
「前から?」
私が聞くと、彼女は頷いた。
「前から。あなた、気づかないの」
その言い方には、からかいと、慣れが混ざっている。彼女は私をよく見ている。よく見ている人の言い方だ。
私は、胸の奥で、ほっと息をついた。
覚えている。
彼女は、ちゃんと覚えている。
靴下の癖。
紅茶が熱いと必ず言うこと。
私が眠いとき、左の肩から先に触れること。
「それと」
彼女は、少し考えるみたいに視線を上に向けた。
「あなた、嫌な音あるでしょ」
私は息を止めた。
「金属が、乾いた床に落ちる音。あれ、苦手」
正解だ。
私は、自分でも忘れているようなことを、彼女は覚えている。
「だからさ」
彼女は言って、私の手に自分のカップを重ねた。カップ越しに、じんわりとした温度が伝わる。
「今日はスプーン落とさないように気をつけた」
その一言で、私は完全に負けた、と思った。
この人は大丈夫だ。
忘れてなんかいない。
大切なことは、ちゃんと覚えている。
そう思いたかった、というより、そう思わせる力が、彼女にはあった。
私はカップをテーブルに置いて、彼女の手を握った。昼間よりも温かい。部屋の中の温度。安心の温度。
「ありがとう」
私が言うと、彼女は少し驚いた顔をして、それから笑った。
「なに、急に」
「なんでもない」
なんでもない、という言葉は便利だ。意味を持たないから、どんな感情も包める。
彼女は紅茶を飲みながら、テレビのリモコンを探した。リモコンはテーブルの端にある。いつもそこにある。私はそれを覚えている。少なくとも、それは覚えている。
テレビをつけると、バラエティ番組の明るい音が流れた。笑い声。効果音。作られた明るさ。部屋の空気が一段、軽くなる。
彼女は画面を見ながら、時々、私のほうを見る。何か言いたそうにして、でも言わない。その間が、少しだけ気になった。
「なに?」
私が聞くと、彼女は首を振った。
「ううん。ただ」
ただ、のあとに何が続くのか、私は聞かない。聞いてしまうと、昼間の川の音みたいに、遠ざけていたものが近づいてくる気がする。
番組の中で、芸人が何かを落とした。派手な金属音。私は肩をすくめる。彼女がすぐに音量を下げた。
「ごめん」
「大丈夫」
彼女は、ちゃんと覚えている。
覚えているから、気をつけてくれる。
それが愛だとしたら、愛はまだここにある。
テレビが終わる頃、彼女は少し眠そうだった。目をこすって、ソファに深く沈む。
「先、寝る?」
私が聞くと、彼女は頷いた。
「うん。でも、その前に」
彼女は私のほうを見た。その目は、昼間よりもずっと落ち着いている。安心している目。
「今日、楽しかった」
その言葉に、私は少し驚いた。特別なことはしていない。ただ歩いて、焼き芋を食べて、紅茶を飲んだだけ。それでも、楽しかったと言える。
「よかった」
私が言うと、彼女は笑った。
「あなたと一緒だとね」
その続きはなかった。でも、続きがなくても意味は分かる。分かると思ってしまう。
彼女は立ち上がって、寝室に向かった。私はその背中を見送ってから、テーブルの上を片付けた。カップを洗う。水の音。泡の感触。こういう作業は、考えなくていいから好きだ。
洗い終えて、カップを伏せたとき、私はふと、違和感に触れた。
彼女は、今日のことを「楽しかった」と言った。
昼間の不安も、怖いという言葉も、全部含めて。
それは、覚えている人の言葉だ。
忘れている人の言葉じゃない。
私は、その結論に、少しだけ安心してしまった。安心して、そして、安心した自分に気づいて、目を伏せた。
安心するのは、早すぎる。
そんな声が、どこかで小さく鳴った気がしたけれど、私はそれを聞かなかったことにした。
電気を消して、寝室に向かう。廊下は暗い。暗さは、ものの輪郭を消す。輪郭が消えると、不安も少しだけ溶ける。
ベッドに入ると、彼女はすでに横になっていた。私が入ると、自然にこちらを向く。距離が近い。呼吸が触れる。
「おやすみ」
彼女が言う。
「おやすみ」
私が返す。
同じ言葉。
同じ距離。
同じ夜。
目を閉じながら、私は思う。
彼女は覚えている。大切なことを、ちゃんと。
だからきっと、大丈夫だ。
そう思うことでしか、私は眠れなかった。
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