第2話 外の音は思ったより大きい



 玄関のドアを閉めるとき、部屋の空気が一枚、剥がれる。


 鍵が回る音は短く、乾いていた。金属同士が噛み合う音には、どこか決定的な感じがある。戻れない、というほどではないのに、戻らない、という選択が入る音。


 彼女は靴紐を結ぶのが早い。片足を持ち上げて、結び目を作って、指先で引く。迷いがない。その動きは、彼女が日常を丁寧に回している人だということを、何度でも証明する。だから私は、さっきの朝の会話を「寝ぼけてただけ」に収めたい自分を、責めきれない。


 廊下の蛍光灯は白く、冷たい。エレベーターの扉が閉まると、二人の呼吸だけが少し大きく聞こえる。彼女は私の肩に軽く寄りかかって、スマホを眺めていた。画面の光が頬に青く映る。青い光は、人の顔を少しだけ不安そうに見せる。


 「どこ行く?」


 彼女が聞く。今日の散歩は「散歩」であって、「目的地」ではない。目的がない外出は好きだ。目的がないぶん、二人の歩幅だけが決まる。


 「公園、でもいいし。川沿いとか」


 私が言うと、彼女は「いいね」と言って笑った。笑うとき、彼女は必ず目を細める。それが、今日も同じで、私は少しだけ安心する。同じ、というのは救いだ。少なくとも、今この瞬間は。


 外に出た途端、空気の硬さが頬に当たった。冬の空気は、触れるものだと思う。見えないくせに、肌に触れて、息の出入りを少しだけ重くする。吐いた息が白くなって、すぐ薄くなる。生きている証拠が、目に見える季節。


 車の音、信号機のピッ、という音、遠くの子どもの声。部屋の静けさに慣れていた耳には、外はうるさい。うるさいというより、情報が多い。音の層が重なって、どれを聞けばいいのか分からなくなる。


 彼女は私の袖を軽く引いた。


 「寒い?」


 「ううん、平気」


 私は答えた。平気と言いながら、彼女の指先の温度が伝わってくる。外の冷たさの中で、体温だけがはっきりする。こういうとき、恋人という言葉がなくても、関係は成立してしまうのだと思う。触れるだけで、成立してしまう。


 駅前の商店街を抜けると、人が増えた。休日の昼前の人の流れは、少しだけ軽い。買い物袋を下げた人、犬を連れた人、同じように散歩しているカップル。誰も急いでいないように見えるのに、すれ違うたびに肩がぶつからないように微妙な角度を調整する。人は無意識に、たくさんの計算をしている。


 彼女は歩くのが上手い。人混みの中でも、迷わずに進む。私はいつも少しだけ遅れてついていく。遅れるのは、歩幅のせいでもあるけれど、私が周りを見すぎるせいでもある。見ておかないと、置いていかれそうな気がする。何を、という問いには答えられない。ただ、置いていかれる感覚だけが先にある。


 「ねえ、見て」


 彼女が指差した先に、露店が出ていた。焼き芋の屋台。甘い匂いが、冷たい空気の中で強く漂っている。匂いって、音よりも直接的だ。匂いが来ると、記憶が一気に引っ張られる。私は思わず足を止めた。


 「焼き芋、食べる?」


 彼女が聞く。声が少し弾んでいる。こういう小さな贅沢を見つけるのが上手な人だ。


 「食べたい」


 私が言うと、彼女は嬉しそうに「じゃあ買う」と言って、屋台の前に立った。おじさんが新聞紙の上に芋を並べている。新聞の文字がちらっと見える。政治の見出し。世界はいつも何かが燃えているのに、私たちは焼き芋の匂いに救われる。そういうズレが、現代の普通なのかもしれない。


 「二つください」


 彼女が言った。声がはっきりしている。迷いがない。私はその横顔を見て、また少し安心する。彼女はちゃんと、ここにいる。


 紙袋を受け取って、二人で歩きながら、熱い芋を分け合った。指先が熱くなる。甘さが舌に広がる。外の冷たさと、中の熱さが喧嘩して、体の中で小さな季節ができる。


 「おいしい」


 彼女が言う。「ね」と私も言う。噛む音。紙袋が擦れる音。こういう音は、生活の音だ。生活は、たぶん壊れるまで気づかない。


 川沿いの道に出ると、空が広くなった。ビルの隙間から見ていた空は細かったのに、ここでは広い。広い空を見ると、人は少しだけ黙る。言葉が必要なくなる。言葉が減ると、気配が増える。


 川の水は、冬の色をしている。銀色に近い灰色。陽が当たるところだけがきらっと光って、その光がすぐ流れていく。掴めない光。掴めないものほど、見つめてしまう。


 彼女は欄干にもたれて、川を見ていた。髪が風に揺れる。私はその横に立った。肩が少し触れる距離。触れるか触れないかの距離は、恋人にしか許されないものだと思っていたけれど、そうでもない。許すのは制度じゃなくて、当人同士の気分だ。


 「ねえ」


 彼女が言う。私は反射で「うん」と返事をした。返事は、思考より先に出る。相槌は、愛情の最小単位だと思う。


 「今日って、何曜日だっけ」


 川の流れる音の中で、その質問は、不自然なほどはっきり響いた。


 私は、笑ってしまいそうになった。部屋の中で聞かれるより、外で聞かれるほうが、ずっとおかしく感じる。音が多い場所で同じ言葉が繰り返されると、それは会話じゃなく、記号みたいになる。


 でも彼女の顔は真剣で、少しだけ不安そうだった。目の端がほんの少しだけ揺れている。泣きそう、とは違う。答えが欲しい、という揺れ。


 私は息を吸った。冷たい空気が喉を通って、胸の奥がひんやりする。


 「土曜日」


 私は言った。言いながら、私は昨日の自分を探した。昨日も土曜日だった?違う。昨日は金曜日だったはずだ。金曜日。金曜日の夜、私たちは——。


 そこまで考えたところで、記憶が薄い膜の向こうに引っ込む。触れようとすると逃げる。湿った石鹸みたいに、指から滑る。


 彼女は「そっか」と言って、ほっとしたように笑った。笑った顔は、いつも通りで、そのいつも通りが余計に怖い。いつも通りの中に、異物が混ざっている。


 「ねえ、私さ」


 彼女は川を見たまま言った。声が小さくなる。川の音に溶けそうな声。


 「ちょっとだけ……怖いんだよね」


 私は彼女の横顔を見た。怖い。何が。誰が。どうして。問いが頭の中にいくつも浮かぶのに、どれも口に出せない。口に出した瞬間、言葉が現実になってしまう気がした。


 「何が?」


 私はやっと聞いた。声が自分のものじゃないみたいに遠い。


 彼女は少し黙って、それから、私のほうを見た。


 「わかんない」


 わかんない、という言葉は、何でも包める。便利で、残酷だ。わかんない、の中には、わかりたくないも、わかってるけど言いたくないも、全部入る。


 彼女は笑った。さっきより少しだけ無理な笑い方。


 「ね、変だよね。こんなこと言うの」


 「変じゃないよ」


 私は言った。言ったけれど、その言葉が正しいのか分からない。変じゃないと言うことで、変なものを隠してしまっている気がする。


 彼女は欄干から離れて歩き出した。私は慌ててついていく。歩きながら、彼女の背中を見てしまう。背中は、本人が気づいていない感情を背負う場所だ。肩が少しだけ上がっている。寒いせいかもしれない。でも寒さは言い訳になりすぎる。


 川沿いの道を進むと、小さなベンチがあった。誰かが落とした手袋が片方だけ、ベンチの端に置いてある。忘れ物。片方だけ。そういう景色に、胸が引っかかる。


 彼女が座ったので、私も隣に座った。距離は、肩が触れるくらい。彼女のコートの布が擦れる音がする。外の音に混ざって、その音だけがやけに近い。


 彼女は突然、私の手を取った。指先が冷たい。冷たいのに、その冷たさが強く生きている。


 「ごめんね」


 彼女が言った。


 「え、何が」


 私が聞くと、彼女は首を振った。


 「わかんない。でも、ごめん」


 謝罪も、わかんないと同じで、何でも包める。便利で、残酷だ。私はその謝罪を受け取るべきなのか、それとも突き返すべきなのか分からない。受け取った瞬間に、私が何かを認めたことになってしまう気がする。


 だから私は、受け取らないまま、握り返した。


 「大丈夫」


 そう言うしかなかった。大丈夫は、どこにも根拠がないから。


 彼女は私の手を見ている。私の指を、一本ずつ確かめるみたいに。まるで、そこにあることを確認するみたいに。


 「ねえ」


 彼女がまた言う。私は、心臓が小さく跳ねるのを感じた。嫌だ、とも違う。怖い、とも違う。期待、とも違う。


 「今日って、何曜日だっけ」


 私は息を止めた。


 外の音が全部、遠くなる。川の音、車の音、子どもの声。全部が一瞬だけ薄くなって、彼女の声だけが残る。


 私は、彼女の目を見た。目の中には、私が映っている。私が映っているはずなのに、その像が少しだけ揺れる。揺れているのは彼女の目なのか、私の認識なのか。


 「土曜日」


 私は言った。言った瞬間、彼女の肩がふっと落ちた。安心したみたいに。いや、安心というより、納得したみたいに。何かを確認して、次の段階に進める人の顔。


 私はその表情に、言葉にならない違和感を覚えた。質問は、彼女のためではなく、何か別の目的がある。そう思ってしまった自分に、すぐに罪悪感が追いかけてくる。そんなふうに疑うのはひどい。彼女は怖いと言った。わかんないと言った。私の手を握って謝った。疑う方が、間違っている。


 でも——。


 私のスマホが、ポケットの中で震えた。通知。画面を見れば答えが出る。今日は土曜日。確認すれば簡単だ。


 私は画面を見ない。見ないまま、彼女の手を握る。握ることで、今を確かめたかった。今さえ確かなら、それでいい。そう思いたかった。


 彼女は私の手を握り返して、笑った。少しだけ、いつもより丁寧な笑い方。


 「ありがとう」


 私は何もしていないのに、ありがとうと言われた。ありがとうは、何かを受け取った人が言う言葉だ。彼女が受け取ったのは、私の返事。私の存在。私の「土曜日」。


 それが、胸の奥で小さく鳴った。


 私たちはベンチを立って、また歩き出した。日差しが少し強くなって、川の水がきらきらする。きらきらはきれいで、きれいなものほど怖い。きれいなものは、壊れるときもきれいだから。


 商店街に戻る途中、彼女が突然言った。


 「洗剤、買おうね」


 私は「うん」と答えた。答えながら、朝の自分の言葉が頭の中で反響する。洗剤。米。予定。昨日。今日。


 彼女は歩きながら、ふと立ち止まった。


 「ねえ」


 私は、また心臓が跳ねる。


 「今日って、何曜日だっけ」


 私は笑った。今度は、ちゃんと笑えた。笑ってしまった。笑うしかなかった。


 「土曜日」


 彼女は「よかった」と言って笑った。私たちは同じように笑っているはずなのに、笑いの温度が違う気がした。彼女の笑いは、安心の笑い。私の笑いは、誤魔化しの笑い。


 外の音は大きい。

 大きい音の中で、同じ質問だけが、何度でも戻ってくる。


 それは、呼びかけというより、確認だ。


 確認されているのは、曜日じゃない。

 曜日の答えで、確かめられているものがある。


 私は、その正体をまだ言葉にできない。言葉にした瞬間、世界が決まってしまう気がして。決まってしまった世界の中で、彼女の笑顔が曇るのが怖い。


 だから私は、今日も同じ返事を差し出す。


 土曜日。

 土曜日。

 土曜日。


 返事を繰り返すほど、私はなぜか、何かを失っていく気がした。

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