何度でも、初めまして
小肌マグロ
第1話 それ昨日も聞いた
朝はいつも、音から始まる。
電気ポットが小さく唸って、沸ききる直前に呼吸を整えるみたいに一度だけ間を置く。冷蔵庫の奥で氷がひび割れる乾いた気配。窓の外では、遠くの道路を走る車のタイヤが濡れたアスファルトを撫でる音を、薄い壁越しに押し広げている。
カーテンの隙間から落ちる光は、昨日より少し白い。冬の朝の白さは、優しいというより、潔い。何もかもを平等に、はっきり見せてしまう。
私たちの部屋は、二人で暮らすには少しだけ狭い。だけど、狭いからこそ、彼女の気配がすぐ分かる。キッチンの床を素足が擦る音、パジャマの袖がテーブルに触れて立てる小さな布の音、背伸びしたときに鳴る肩の関節の音まで。
私はまだ布団の中で目だけ開けて、天井の角にできた影を見ていた。影は毎朝同じ場所にできるくせに、毎朝ちょっとだけ形が違う。それが、今日という日の唯一の証拠みたいで、ぼんやりと安心する。
「起きてる?」
彼女の声は、寝起きにしては妙に澄んでいる。起き抜けの喉がこすれる感じもなくて、まるで昨日の続きの会話をそのまま再生しているみたいだ。
「うん」
返事をしながら、私は布団の端を指でつまんだ。毛布の繊維が指先に絡む。こういう細い感覚だけが、朝の現実に繋ぎ止めてくれる。
テーブルに置かれたマグカップから、湯気が立っている。湯気がまっすぐ上がらず、少し揺れて消えていく。彼女がコーヒーを淹れたのだろう。香りが部屋の空気に混ざっていて、眠気の奥に、甘い苦さがゆっくり落ちてくる。
「ねえ」
彼女は、マグカップを両手で包むみたいに持ちながら言った。熱を逃がさないようにしているのか、それとも、熱が欲しいだけなのか。
「今日って、何曜日だっけ?」
その言葉が落ちた瞬間、私の中で小さな何かが「まただ」と鳴った。
まただ、と思った。昨日も同じだった。たぶん一昨日も——と、ここまで考えて、私はその続きの確信を、うまく掴めなかった。昨日は、何曜日だったっけ。そもそも昨日、彼女がそう聞いた場面の光の色は、どんなだったっけ。
薄い焦りが喉の奥に生まれる。水分が足りないときに起きる、言葉のひっかかりみたいな感覚。
私はそれを飲み込んで、唇だけ動かした。
「……土曜日」
言ったあとで、スマホの画面を見ようとする自分を止めた。確認のために覗き込むのは簡単だ。でも、それをしてしまうと、私たちの間に「確認する人」と「確認される人」ができてしまう気がした。
彼女は「そっか」と笑った。笑うとき、口角が少しだけ先に上がる。それが彼女らしい。私が好きなところでもある。
「じゃあ、今日はゆっくりできるね」
彼女はそう言って、カップの縁を親指でなぞった。指の腹が陶器の滑らかさに吸い付くのが見える。
ゆっくりできる。確かにそうだ。なのに私は、その一言で少しだけ胸が詰まった。ゆっくりできる日ほど、こういう小さな「まただ」が目立つから。
彼女は、忘れっぽい。昔からなのか、最近なのか、どのくらいなのか、私には分からない。彼女の忘れ方は、物を失くすとか、約束を飛ばすとか、そういう派手なものじゃない。むしろ生活は丁寧で、冷蔵庫の中の食材もちゃんと順番に使うし、洗濯物も畳む。部屋の隅の埃に気づくのは、いつも彼女のほうだ。
なのに、「質問」だけが、同じ形で繰り返される。
私のほうが、気にしすぎなんだろうか。恋人同士が同じ質問を何度もするなんて、よくある話なのかもしれない。何曜日だっけ、何時だっけ、今日寒いね。そういうのは、会話のきっかけでしかない。意味があるわけじゃない。
意味があるわけじゃない。
私はその言葉を、自分に向かってそっと唱える。音にすると壊れそうだから、心の中で。
彼女はテーブルの上に視線を落とし、砂糖の瓶を軽く振った。瓶の中で砂糖が、さらさらと細かい音を立てる。耳を澄ますと、その音は、雨が遠くで降っているときに似ている。均一で、途切れない。
「ねえ、今日さ」
彼女は言いながら、コーヒーに砂糖を落とした。スプーンがカップの底に当たって、軽く鳴る。金属と陶器の音は、いつも少しだけ冷たい。
「……うん?」
私は身を起こして、テーブルに近づいた。床がほんのり冷えていて、足裏から眠気が抜けていく。彼女の向かいに座ると、距離が近い。視線を上げれば、彼女のまつ毛の影が頬に落ちているのが見える。
「今日って、何曜日だっけ?」
彼女は、さっきと同じ調子で言った。
私は、一瞬、言葉を失った。
冗談みたいに、あまりにも自然に、同じ質問が同じ角度で戻ってくる。私の頭の中で、さっきの返事がまだ熱を持っているのに、それを知らないみたいに。
その瞬間、何かが「違う」と言った。大きな異変じゃない。ただ、コーヒーの香りの中に混ざった、ほんのわずかな焦げ臭さみたいな違和感。
彼女の目は真剣だった。ふざけている表情じゃない。むしろ、答えを待つときの、少しだけ不安そうな目。
私は笑おうとした。笑って「さっき言ったでしょ」って言えば、空気は軽くなるはずだ。笑いで包んでしまえば、私は優しい人でいられる。彼女も傷つかない。
でも、その言葉が喉に引っかかって出ない。
「……土曜日だよ」
私はもう一度言った。自分の声が思ったより低くて、少しだけ乾いていた。まるで、同じ場所を二回踏んだときの床みたいに、確かさが薄い。
彼女は「土曜日」と口の中で反復して、それから安心したみたいに笑った。
「よかった。なんか、分かんなくなっちゃって」
分かんなくなっちゃって。
その言い方が軽いのに、私の胸の奥には重いものが残った。
「大丈夫?」
私は、できるだけ普段通りの声で言った。心配してるふりじゃなく、心配を形にするための言葉として。
彼女は肩をすくめる。
「大丈夫、大丈夫。寝ぼけてただけかも」
寝ぼけてただけ。そうかもしれない。朝は誰だって曖昧だ。自分の顔だって、鏡を見ないと確信できないことがある。現実と夢の境目がまだ柔らかい時間帯。
私は頷いた。頷きながら、彼女の指先を見た。カップを持つ指が、ほんの少しだけ震えている。寒いから?熱いから?それとも——。
考えが余計なところへ走りそうになって、私はテーブルの上のパンを見た。焼き目のついたトースト。バターが溶けて、表面が少しだけ艶っぽい。そこにジャムを塗れば、甘さが広がって、きっと世界は簡単になる。
「ジャムあるよ」
私は言った。話題を、食べ物に逃がす。逃がす、という言葉が頭に浮かんだことに、私は少し驚く。日常の会話に逃げるなんて、そんなに悪いことじゃないのに。
彼女は「ありがと」と言って、ジャムの瓶を開けた。蓋が外れるときの小さな「ぷちっ」という音が、妙に大きく聞こえる。密閉されていた空気が解放される音。
「ねえ」
彼女がまた言う。
私は、体のどこかを固くしたまま「うん」と返事をした。
「今日、何か予定あったっけ?」
その質問に、私は少しだけ安心してしまった。違う質問だったから。繰り返しの輪が、別の形になったから。
「今日は……」
私は言葉を探した。予定。今日は土曜日。ゆっくりできる。買い物?掃除?会う約束?
思い出そうとした瞬間、頭の中が白くなる。真っ白というより、薄い霧がかかったみたいに、輪郭がぼやける。予定があるかどうかだけは分かるのに、内容が掴めない。
私は笑ってごまかす。
「とりあえず、洗剤買いに行きたい。あと、米がちょっと少ない」
彼女は「米、昨日買ったよ」と言った。
その一言で、部屋の音が一瞬遠くなる。ポットの残り湯が落ちる音、冷蔵庫のモーター音、外の車の音。全部が遠ざかって、自分の心臓の音だけが大きくなる。
昨日、買った。
買ったのは、彼女。
私は、それを知らなかった。
「……そっか」
私は短く言って、コーヒーを飲んだ。熱さが舌を刺し、苦さが喉に残る。飲み込むと、胸の奥に重いものが沈む。
彼女は何も気にしていないみたいに、ジャムを塗ったトーストを一口かじった。サクッ、という音。パンの壊れる音は、やけに正直だ。壊れるものは壊れる、という音がする。
「今日はさ」
彼女はトーストを咀嚼しながら言う。口の端にジャムがほんの少しだけついている。
「どこか、散歩でも行かない?天気いいし」
私は「いいね」と答えた。
答えながら、彼女の質問が同じ形で繰り返されたことより、彼女が「昨日買った」と言ったことのほうが、胸に残っていた。
私は忘れていたのか。
それとも、聞いていなかったのか。
その区別は、たぶん簡単につく。
つくはずなのに、私には今、うまくつけられない。
「ねえ」
彼女がまた言う。
私は反射で顔を上げた。
彼女は、今度は少しだけ慎重な表情をしている。言葉を選ぶ前の人の顔だ。
「今日って、何曜日だっけ」
私は、息を止めた。
さっきと同じ質問。
同じ声。
同じ目。
部屋の中のすべてが、さっきと同じ配置に見える。カップの位置、パンくず、光の角度。なのに、私の中だけが、ほんの少しずつ削れていく。
私は笑った。ようやく笑えた。笑ってしまったほうが、この瞬間を保てる気がした。何かを正そうとするより、崩れない形を選ぶみたいに。
「土曜日だよ」
言いながら、私は思った。
この質問がもし、明日も来たらどうする?
明日も。
その言葉が頭に浮かんだ瞬間、私は確信する。
明日のことを、私はまだ知らない。
彼女は「土曜日ね」と繰り返して、ほっとしたみたいに笑った。
その笑顔が、あまりにもきれいだったから、私は何も言えなかった。
言えなかったことだけが、音を立てて残る。
カップを置く音。
スプーンの音。
トーストをかじる音。
それらの音が、同じ朝を支えている。
そして私は、同じ返事を、何度でも用意する。
——用意しておけば、きっと大丈夫だと。
そう思うことでしか、今日を終わらせられない気がした。
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