第4話:選ばれなかった男と、未来を選んだ女
あの決別の夜から、半年が過ぎた。私の名前は、高坂美咲から旧姓の橘美咲に戻っていた。
離婚協議は、驚くほどスムーズに進んだ。あれだけの証拠を突きつけられた和也と佳代子さんに、抵抗する術はなかったのだろう。弁護士の先生が間に入ってくれたおかげで、私は一度も彼らと顔を合わせることなく、有利な条件で離婚を成立させることができた。慰謝料は、今後の私の生活を支えるのに十分すぎるほどの額だった。
私はそのお金を元手に、都心から少し離れた、緑の多い静かな街に小さなアパートを借りた。一人で暮らすには十分すぎる広さの、日当たりの良い角部屋だ。ベランダには、新しく買ったハーブの鉢植えが並んでいる。ローズマリーの清々しい香りが、風に乗って部屋の中まで届く。誰にも邪魔されずに、自分の好きなものを育てられる幸せを、私は毎日噛み締めていた。
通信講座で勉強していた医療事務の資格も無事に取得でき、今は近所のクリニックで受付として働いている。院長先生も同僚の看護師さんたちも皆親切で、患者さんから「橘さんの笑顔を見ると元気になるよ」と言われるたび、胸が温かくなった。誰かの言いなりになるのではなく、自分の力で働き、誰かの役に立っているという実感。それが、失いかけていた自己肯定感を少しずつ取り戻してくれた。
「美咲、お疲れー! 今日、この後どう? 新しくできたイタリアン、行かない?」
仕事終わり、ロッカールームで沙織から明るい声が飛んでくる。彼女は時々こうして、私の職場近くまで会いに来てくれるのだ。
「行く行く! パスタが食べたい気分だったの」
私たちは腕を組んで、夕暮れの街を歩く。何でもない会話をしながら笑い合う、そんな当たり前の時間が、今は何よりも愛おしい。
「しかし、あんた、本当に綺麗になったわよね。前はなんていうか、いつも何かに怯えてる子猫みたいだったけど、今はすっかり自信に満ちたいい女って感じ」
「そうかな? でも、沙織のおかげだよ。あの時、背中を押してくれなかったら、私はまだあの家にいたかもしれない」
「よしてよ、水臭い。全部、美咲が自分で掴み取った未来じゃない」
レストランで、私たちはワインで乾杯した。自分のためだけに作る料理も楽しいけれど、気の置けない友人と美味しいものを囲む時間は、また格別だ。
「そういえばさ、風の噂で聞いたんだけど」
沙織が、少し声を潜めて言った。
「元旦那、婚活で相当苦戦してるらしいわよ」
その言葉に、私はパスタを巻く手を止めた。和也のことは、もう過去の人間として意識の外に追いやって久しい。
「そうなの?」
「うん。あの姑が躍起になって、お見合いとかマッチングアプリとか、色々やらせてるみたいなんだけど、ことごとく玉砕してるんだって」
沙織の話によると、こうだった。
離婚後、佳代子さんは「あんな出来損ないの嫁はこちらから願い下げよ! 今度こそ、家柄も良くて従順な、完璧なお嬢様を見つけてあげるわ!」と息巻いた。そして、和也を高級結婚相談所に登録させたり、自分の人脈を駆使してお見合いをセッティングしたりと、精力的に動き回ったらしい。
しかし、いざお見合いやデートの席になると、和也の「マザコン」ぶりが炸裂するのだという。
「初対面の女性に、『母が、女性は三歩下がって男性を立てるべきだと言っていまして』とか言っちゃうらしいのよ。信じられる?」
「……想像がつくわ」
私は思わず苦笑した。目に浮かぶようだ。
「お相手の女性がキャリアウーマンだったりすると、『女性が働くことに、母はあまりいい顔をしませんが、あなたはどうお考えで?』とか。料理の好みを聞かれて、『母の味付けが基準なので、それに合わせてもらわないと』とか。悪気なく、素で言っちゃうんだって」
当然、女性たちはドン引きだ。「この人、自分というものがないんだな」「結婚したら、お義母さんとの二人三脚が待ってそう」と、皆すぐに彼から離れていく。マッチングアプリでも、プロフィールの自己紹介文が『母を尊敬しています。母のように家庭的な女性がタイプです』という一文で始まっているらしく、それだけで「地雷認定」されて、全くマッチングしないのだとか。
「挙句の果てには、お見合いの席で相手の女性に言われたんですって。『高坂さんは、まずはお母様からご卒業なさるのが、ご結婚への一番の近道ではないでしょうか』って。ごもっとも!」
沙織は愉快そうに笑うが、私はなぜか、あまり笑えなかった。哀れみ、だろうか。いや、それとは少し違う。ただ、「ああ、やっぱりあの人は変われないのだな」という、静かな諦めのような感情だった。
「それでね、最近じゃ『マザコン地雷男』として、婚活界隈でちょっとした有名人になってるらしいわよ。お見合いをセッティングしても、事前に噂を聞いた相手から断られることも増えたとか。姑の方も、自分の息子の市場価値の無さにイライラして、『あなたの伝え方が悪いのよ!』とか『最近の女は見る目がない!』とか、親子喧嘩が絶えないんですって。まさに、自業自得よね」
その光景を想像し、私は静かにワインを一口飲んだ。ざまあみろ、という爽快感よりも、空しさが先に立つ。彼らは、自分たちの何が問題だったのか、きっと今も理解していないのだろう。ただ、自分たちの価値観に合わない世の中を呪っているだけだ。
一方、その頃。高坂家のリビングでは、重苦しい空気が漂っていた。
「和也! またお断りの連絡が来たわよ! あなた、一体お相手にどんな態度を取っているの!」
佳代子のヒステリックな声が響く。和也は、この数ヶ月でずいぶんと痩せこけ、自信なさげに俯いていた。婚活市場での連戦連敗は、彼の脆弱なプライドを粉々に打ち砕いていた。
「だって……母さんの言う通りに、僕の考えを伝えただけじゃないか」
「私の教えは間違ってないわ! それを理解できない、今の女たちがどうかしているのよ!」
もはや責任のなすりつけ合いだ。かつては鉄壁の結束を誇った母子の間には、修復しがたい亀裂が入り始めていた。
佳代子が出て行った後、和也は一人、薄暗いリビングでソファに沈み込んだ。なぜ、こうなってしまったのだろう。美咲がいた頃は、こんなことにはならなかった。彼女は、いつもにこやかに俺の話を聞いてくれた。俺が母の話をしても、嫌な顔一つしなかった。家はいつも綺麗で、温かい手料理が待っていた。それが当たり前だと思っていた。
美咲は、俺に合わせてくれていただけだったのか。
美咲は、無理をしていたのか。
美咲は、本当はずっと、苦しんでいたのか。
今更ながらに、そんな考えが頭をよぎる。婚活で出会った女性たちに次々と言われた言葉が、脳内でこだまする。「あなた自身の考えはないのですか?」「お母様と結婚するわけではないのですが」。
そうだ。彼女たちは皆、俺自身を見ていた。そして、俺の中に「自分」というものが空っぽであることを見抜いたのだ。
美咲は、そんな俺を、どうして愛してくれたのだろう。いや、本当に愛してくれていたのだろうか。決別の夜の、あの氷のように冷たい瞳が脳裏に蘇る。
『もう、あなたを愛してはいません』
その言葉の重みが、今になってずしりと体にのしかかってくる。失って初めて、彼女がいかに素晴らしい女性だったかを、和也は痛感していた。優しくて、聡明で、芯が強くて……そして、そんな彼女を、自分は母親と一緒になって、どれだけ傷つけてきたことか。
「美咲……」
後悔の念に駆られ、和也は震える手でスマートフォンを手に取った。そして、連絡先の中から、もう主のいない『美咲』という名前を探し出し、発信ボタンを押す。
しかし、耳に届いたのは、呼び出し音ではなく、『おかけになった電話番号は、お客様のご都合によりお繋ぎできません』という、無機質なアナウンスだけだった。着信を拒否されている。その事実が、彼にとどめを刺した。
もう、遅いのだ。全てが。
彼女はもう、自分の手の届かない、遠い世界へ行ってしまった。和也は力なくスマートフォンを落とし、その場に崩れるように蹲った。暗い部屋の中で、ただ嗚咽だけが響いていた。
その頃、私は沙織と別れ、一人暮らしのアパートへの帰り道を歩いていた。夜風が心地よい。見上げれば、空には満月が静かに輝いている。
ふと、私のスマートフォンが短く震えた。見知らぬ番号からの着信履歴。おそらく、非通知設定を解除してかけてきた和也だろう。先ほど、沙織から話を聞いたばかりだった。
私は少しの間その番号を見つめていたが、何もせず、画面をオフにしてポケットにしまった。もう、私の人生に彼らが入り込む隙間はない。
アパートのドアを開けると、ハーブの優しい香りが私を出迎えてくれた。私は電気もつけずに、まっすぐベランダへ向かう。月の光に照らされた小さな緑の葉が、風にそよいでいる。
過去を振り返ることはない。私は、自分の力で未来を選んだのだ。穏やかで、自由で、ささやかな幸せに満ちた、この新しい人生を。
私は深く息を吸い込み、夜空の満月に向かって、そっと微笑んだ。私の品格ある復讐は終わり、そして、輝かしい再生の物語が、今、始まったのだ。
「お母さんの言うことが絶対」と私を捨てたマザコン夫、婚活市場で誰からも選ばれず後悔しているそうですが、もう遅いです @jnkjnk
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