第3話:決別のテーブル
あの日から、三ヶ月が過ぎた。季節は初夏を迎え、窓から吹き込む風が頬を優しく撫でていく。私の水面下の準備は、着々と最終段階に入っていた。沙織が紹介してくれた弁護士の先生とはすでに数回面談を重ね、集めた証拠も十分に精査してもらった。ICレコーダーに記録された音声データは数十時間に及び、日記は三冊目に突入している。医療事務の通信講座も順調に進み、先日行われた模擬試験では合格圏内の成績を収めることができた。
私は今、自分でも驚くほど穏やかな心で毎日を過ごしている。目的が定まったことで、これまで私を苛んできた不安や恐怖はすっかり鳴りを潜めていた。和也と佳代子さんの言動は相変わらずだったが、それらはもはや私を傷つける刃ではなく、未来を切り拓くための貴重な「証拠」に過ぎなかった。
彼らは、私が従順な仮面の下で何を考えているのか、夢にも思っていない。むしろ、すっかり意のままになったと思い込み、その支配欲をますます増長させていた。
「美咲、今度の週末、俺の会社の同僚を家に呼ばないか? お前も、母さんに鍛えてもらった料理の腕を披露するいい機会だろ」
「まあ、美咲さんが作ったものなんて、お客様に出せるかしら。私が手伝いに行って、しっかり監督してあげないと」
電話口の向こうで交わされる、母と息子の会話。私はスピーカーフォンにしたスマートフォンの傍らで、静かに日記にペンを走らせる。
「はい、ぜひ。和也さんのお役に立てるなら嬉しいです。お義母様にも来ていただけると心強いですわ」
完璧な嫁の返答に、電話の向こうで二人が満足げな声を出す。ポケットの中のレコーダーは、そのやり取りも忠実に記録していた。弁護士の先生からは「証拠は十分すぎるほどです。いつでも動けますよ」という心強い言葉をもらっている。私は、このホームパーティーを最後の舞台に選んだ。
そして、運命の土曜日。私は朝からキッチンに立ち、いつも以上に手の込んだ料理を準備した。もちろん、佳代子さんの「指導」と称する監視付きで。
「あら、そのドレッシング、市販のもの? ダメよ、手作りしなさい」
「盛り付けが地味ね。もっと彩りを考えないと」
佳代子さんは私の背後から矢継ぎ早に指示を飛ばす。私はすべてに「はい」「勉強になります」と答えながら、冷静に作業を進めた。やがて、和也の同僚たちがやってきて、賑やかなパーティーが始まった。
「奥さん、料理上手いなあ! このローストビーフ、最高だよ!」
「本当ですね。お店みたいです」
同僚たちからの純粋な賞賛の言葉に、私は「ありがとうございます」と微笑んだ。しかし、その笑顔を佳代子さんが許さない。
「あら、皆様、お口に合いました? でも、これはまだまだなのよ。私がこの子に、一から料理を教えている最中なんですの」
「えっ、そうなんですか?」
「そうなの。嫁に来た時は、本当に何もできなくて。高坂家の嫁として恥ずかしくないように、私が躾け直しているところですのよ、おほほ」
同僚たちは気まずそうに顔を見合わせ、場の空気が一瞬で凍りつく。和也はそんな空気に気づきもせず、「いやあ、母には敵いませんよ」などと笑っている。見せつけ、貶め、支配する。これが、佳代子さんのやり方。そして、それを是とする和也。もう、うんざりだった。
パーティーが終わり、同僚たちが帰っていく。彼らが私に向ける同情的な視線が、少しだけ胸に痛んだ。
後片付けを終えたリビングで、和也と佳代子さんはソファに座って寛いでいた。戦いを終えた将軍とその側近のように、実に満足げな表情だ。
「今日のパーティーも、私のおかげでうまくいったわね、和也」
「ああ、母さんがいてくれて助かったよ。美咲だけじゃ、どうなっていたことか」
「美咲も、少しは感謝してる? 私がこうして面倒を見てあげていることに」
佳代子さんが、値踏みするような視線を私に向ける。私は黙って頷き、深呼吸を一つした。
さあ、始めよう。私のための、最後のパーティーを。
「和也さん、お義母様。少し、大切なお話があります。こちらにお座りいただけますか」
私は、いつも彼らが座るダイニングテーブルに二人を促した。私のいつもと違う、硬質な声の響きに、二人は訝しげな顔をしながらも席についた。
私が合図をすると、玄関のチャイムが鳴る。和也が「誰だ?」と立ち上がろうとするのを、私は手で制した。ドアを開けると、そこにはスーツ姿の沙織と、初老の穏やかな物腰の男性――沙織が紹介してくれた、鈴木弁護士が立っていた。
「……誰だ、あんたたちは」
突然の訪問者に、和也が警戒心を露わにする。佳代子さんも、不審そうに眉をひそめていた。
「私の友人、相沢沙織と、私の代理人をお願いしている鈴木弁護士です。どうぞ、お入りください」
私の言葉に、和也と佳代子さんの顔が凍りついた。沙織と鈴木弁護士は静かにリビングに入り、私の隣の席に座る。異様な緊張感が、部屋を支配した。
「な……なんだよ、美咲。代理人って……どういうことだ」
和也の声が震えている。私は彼の目をまっすぐに見つめ、テーブルの上に、一枚の紙を滑らせた。白い紙の上に書かれた『離婚届』という三文字。
「ご覧の通りです。和也さん、あなたと離婚させていただきます」
私の静かな宣告に、和也は「は……?」と間抜けな声を出した。佳代子さんは、わなわなと唇を震わせている。
「何を馬鹿なことを言っているの! 和也、この女が何を言っているか説明しなさい!」
「いや、俺だって、何が何だか……」
狼狽する二人を前に、鈴木弁護士が穏やかな口調で切り出した。
「高坂和也様、高坂佳代子様。本日、我々は、妻である美咲様への長年にわたる精神的苦痛、いわゆるモラルハラスメントを理由とした、離婚協議の申し入れに参りました」
「モラハラですって!? 私たちがいつそんなことを!」
佳代子さんが甲高い声で叫ぶ。私はその言葉を待っていたかのように、テーブルの上に小さなICレコーダーを置いた。そして、再生ボタンを押す。
『美咲さん。こんなにこってりしたもの、和也に食べさせるつもり? あの子、最近健康診断の数値が良くなかったのよ』
『ベランダに置いてあった、あのゴチャゴチャした鉢植え、私が捨てておいたわよ。虫が湧いたらどうするの』
『大げさだよ。ただの植木だろ? 母さんに悪気はないんだから、許してやれよ』
スピーカーから流れてきたのは、三ヶ月前の記念日の夜の、生々しい会話だった。自分たちの声だと気づいた瞬間、佳代子さんと和也の顔から、さっと血の気が引いていくのが分かった。
「なっ……これは……」
「まだありますよ」
私は次のデータを再生する。
『妻は夫と、その母親に従うのが一番幸せなの。それがあなたの分というものよ』
『そうだよ、美咲。母さんの言うことを聞いていれば間違いないんだから』
『嫁に来た時は、本当に何もできなくて。高坂家の嫁として恥ずかしくないように、私が躾け直しているところですのよ』
次々と流される音声に、佳代子さんは言葉を失い、顔面蒼白になっている。和也は「待ってくれ、美咲、これは……」と何かを言おうとするが、言葉が続かない。
「これらの音声データに加え、結婚当初から現在に至るまでの、お二人からの言動を詳細に記録した日記もございます」
鈴木弁護士が、私の日記帳の束をテーブルに置く。それは、紛れもない物的な証拠の山だった。
「これらは、慰謝料請求の根拠として、十分に有効なものです。美咲様のご希望は、和也様との離婚。そして、和也様、佳代子様、お二人に対して、これまでの精神的苦痛に対する慰謝料を請求させていただきます」
弁護士の淡々とした説明が続く。佳代子さんは最初こそ「この恩知らず! 嘘八百を並べて!」と激昂したが、自分の声がはっきりと録音されているという動かぬ事実を前に、ぐうの音も出ないようだった。やがて、がっくりと肩を落とし、俯いてしまった。
問題は、和也だった。彼は事態が全く飲み込めていないようで、ただただ混乱している。
「待ってくれ、美咲。なんで……なんでこんなことに。話し合おう。俺、何か悪いことしたか? 教えてくれれば、直すから!」
「もう遅いんです、和也さん」
私は静かに首を振った。
「私は、何度もあなたにサインを送っていました。悲しい、辛い、助けてほしい、と。でも、あなたは一度だって、私の声に耳を傾けてはくれなかった。いつだって、お義母様の言うことが絶対で、私の気持ちは二の次だった。もう、あなたを愛してはいません」
私の目を見て、和也は初めてことの重大さを理解したようだった。彼の顔が、絶望に歪む。
「そん……な……。じゃあ、今までのあの態度は何だったんだ? 俺に、母さんに従順だったじゃないか!」
「ええ、演じていました。あなたたちに油断してもらうために。あなたたちが無神経な言葉を重ねてくれるおかげで、これだけの証拠が集まりました。感謝しています」
私の冷たい言葉に、和也は愕然とした表情で私を見つめた。そして、絞り出すようにこう言ったのだ。
「待ってくれ、俺一人じゃ決められない……。お母さんに、相談しないと……」
その場にいた全員が、一瞬、時が止まったかのように静まり返った。沙織は呆れて天を仰ぎ、鈴木弁護士は静かに溜息をつく。私の中に残っていた、彼へのほんのわずかな同情すら、その一言で完全に消え失せた。
ああ、この人は、最後の最後まで、こうなのだ。
自分の人生の最大の岐路に立たされてもなお、母親の判断を仰ごうとする。そんな人間と、これ以上一緒にいられるはずがない。
「もう、結構です。あとは、弁護士の先生を通してお話しください」
私は静かに席を立った。長年の呪縛から、ようやく解き放たれる。外はすっかり暗くなっていたけれど、私の心の中には、夜明け前の澄んだ光が差し込んでいるような気がした。
品位を保ったまま、私は勝ったのだ。自らの力で、この理不尽なチェスゲームに、終止符を打ったのだ。その静かな自信が、これからの私を支えてくれるだろう。私は振り返ることなく、沙織と鈴木弁護士と共に、その家を後にした。
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