第2話:水面下のチェスゲーム
結婚記念日の翌朝、ダイニングテーブルには重い沈黙が垂れ込めていた。私が淹れたコーヒーの香りだけが、気まずい空気の中を頼りなげに漂っている。和也はしきりに私を窺うように視線を送ってくるが、私は何も気づかないふりをして、ただ静かにトーストをかじった。
「美咲……その、昨日は悪かった。せっかくの記念日だったのに」
おそるおそるといった様子で、和也が口を開いた。私は顔を上げず、平坦な声で答える。
「いいえ。お義母様が和也さんの体を心配してくださるのは、ありがたいことだわ」
「え……?」
意外な返答だったのだろう。和也は戸惑ったような声を上げた。きっと、私が泣いたり怒ったりして、彼を責めると思っていたに違いない。でも、もうそのステージは終わったのだ。
「それに、私が作ったものより、お義母様が選んだお惣菜の方が、和也さんも嬉しそうだったし。これからは、もっとお義母様のお考えを尊重しようと思うの」
私はゆっくりと顔を上げ、完璧な妻の微笑みを浮かべてみせた。私の表情に嘘がないと判断したのか、和也は見るからにほっとした顔になる。その単純さが、今はむしろ好都合だった。
「そ、そうか! 分かってくれたんだな、美咲。よかった。母さんも、美咲が理解してくれれば一番いいって言ってたんだ」
母さんも、母さんも。彼の主語は、いつだって母親だ。以前ならその一言に胸が締め付けられただろうが、今の私には何の感情も湧いてこない。ただ、無音のカメラが被写体を捉えるように、彼の言動を冷静に観察している自分がいるだけだった。
「じゃあ、俺、会社行く準備するな!」
すっかり機嫌を直した和也は、足取りも軽くリビングを出て行った。私はその背中を静かに見送り、そっとスマートフォンの連絡先を開く。そして、一件だけ登録されている、特別な名前をタップした。
『沙織へ。急にごめん。今日か明日、少しだけ時間作れないかな』
すぐに、『どうしたの? 今日19時に駅前のカフェで』と短い返信が届く。その頼もしいメッセージに、私はほんの少しだけ口元を緩めた。
午後7時、駅前のカフェの隅の席で、相沢沙織は腕を組んで私を待っていた。大学時代からの、私の唯一無二の親友。法律事務所でパラリーガルとして働く彼女は、いつも理知的で、私が道に迷った時には的確なアドバイスをくれる存在だ。
「で、どうしたのよ、改まって。旦那となんかあった?」
席に着くなり、沙織は単刀直入に切り込んできた。私は苦笑しながら、昨夜の出来事を、感情を交えずに事実だけを淡々と話した。記念日のディナーのこと、義母の乱入、勝手に捨てられたハーブの鉢植え、そして、私を一切顧みなかった和也の言葉。
話が進むにつれて、沙織の表情はみるみる険しくなっていく。私が話し終える頃には、彼女の眉間には深い皺が刻まれていた。
「……ありえない。っていうか、美咲、あんたよく今まで我慢したわね。私なら初手で舅姑(しゅうと)ごとそのマザコン夫、叩き出してる」
「ふふ、沙織らしいね」
「笑い事じゃないでしょ! 記念日の料理をゴミ扱いされて、挙句に鉢植えまで勝手に捨てられるって、普通に考えて器物損壊と精神的苦痛よ。で、和也はなんて?」
「『母さんに悪気はないんだから』って」
その言葉を聞いた瞬間、沙織はテーブルをドン、と軽く叩いた。「出たわね、伝家の宝刀」と吐き捨てるように言う。
「もう決めたの。離婚する」
私のきっぱりとした口調に、沙織は一瞬目を見開いたが、すぐに真剣な表情に戻って深く頷いた。
「そう。……それがいい。あんたがそう決めたなら、私は全力で応援する。で、ただハンコついてさよなら、なんて甘いこと考えてないでしょうね? あいつら親子には、きっちり社会的・経済的な制裁を受けてもらうわよ」
その力強い言葉が、どれほど心強かったことか。私はこわばっていた肩の力を、そっと抜いた。
「お願い、沙織。力を貸して。どうすればいいか、教えてほしいの」
「任せなさい。まずは証拠。奴らの言動が『モラハラ』『嫁いびり』に該当するっていう、客観的な証拠を集めるの。慰謝料をきっちり分捕るためのね。うちの事務所で女性問題に一番強い弁護士、紹介する。その前に、あんたが今すぐやるべきことがあるわ」
沙織はそう言うと、自分のスマートフォンを取り出して何かを検索し、私に見せた。画面に表示されていたのは、手のひらに収まるほど小さな、高性能のICレコーダーだった。
「これを買いなさい。そして、今日から常にオンにしておくこと。和也やあの姑と話す時は、必ず。それから、日記。いつ、どこで、誰に、何を言われ、何を感じたか。なるべく具体的に、毎日記録するの。辛い作業になると思うけど、これが後々、あんたを守る最強の武器になる」
その日から、私の水面下のチェスゲームが始まった。
翌日、私は沙織に指示された通り、家電量販店で小型のICレコーダーを購入した。洋服のポケットに忍ばせても全く気付かれないほどの小ささだ。初めてそれをポケットに滑り込ませ、録音ボタンを押した時の指先の微かな震えを、今でも覚えている。これは、私の決意の証。未来への第一歩なのだ。
その夜、帰宅した和也はすっかり上機嫌だった。私が昨日と同じように従順な態度で出迎えたからだろう。
「美咲、ただいま。今日は母さんから電話があってさ、今度の日曜、うちに来てくれるって。美咲の料理の腕を鍛え直してくれるらしいぞ。よかったな!」
以前の私なら、絶望で目の前が真っ暗になっていただろう。しかし、ポケットの中のレコーダーの存在が、私に冷静さを与えてくれた。
「まあ、嬉しい。お義母様から直接ご指導いただけるなんて、光栄だわ。日曜日、楽しみにしています」
私はにこやかに答えた。和也は「だよな! 美咲もやっと分かってきたみたいで、俺も嬉しいよ」と満足げに笑う。その無神経な言葉が、一言一句、デジタルデータとして記録されているとも知らずに。
週末までの数日間、私は沙織の助言通り、日記をつけ始めた。これまで胸の奥に押し込めてきた、数々の辛い記憶。それを文字に起こす作業は、古傷を自らこじ開けるような痛みを伴った。
『結婚して一ヶ月。佳代子さんから「あなたは高坂家の人間になったのだから、実家にはあまり連絡しないように」と言われる。和也さんに相談すると、「母さんは心配してくれてるんだよ」と笑うだけだった』
『私の誕生日。和也さんは「母さんと食事に行く約束があるから」と出かけてしまった。佳代子さんから「息子の時間を奪う嫁だと思われたくないでしょう?」と電話があった』
『高熱で寝込んでいると、佳代子さんがアポなしで訪問。「家が汚い」「自己管理がなっていない」と一時間以上説教された。和也さんは「母さんも来てくれて助かったろ?」と言った』
書けば書くほど、涙が滲んで紙を濡らした。どうして、こんな理不尽に耐え続けてきたのだろう。和也を愛していたから? いいえ、違う。ただ、波風を立てるのが怖くて、思考停止していただけだ。でも、もう迷わない。この痛みは、未来の私が自由になるための対価なのだ。
そして、離婚後の生活設計も具体的に考え始めた。結婚前に少しだけ勉強していた医療事務の資格。あの時は結婚を機に諦めてしまったけれど、今からなら間に合うかもしれない。本棚の奥から、古いテキストを引っ張り出す。幸い、独身時代の貯金は手つかずで残してある。これを学費に充てよう。
和也が寝静まった深夜、ダイニングテーブルでテキストを開く時間が、私の新たな安らぎとなった。難解な専門用語やレセプトの計算式は、夫や義母のことを考える時間から私を解放してくれた。一つ知識が増えるたびに、私は自分の力で未来を切り拓いているのだという確かな手応えを感じることができた。
そして、約束の日曜日がやってきた。佳代子さんは時間通りにやってくると、まるで我が家のようにキッチンに立ち、冷蔵庫を隅々までチェックし始めた。
「まあ、美咲さん。まだこんな使いかけの調味料が残ってるじゃない。和也は新鮮なものが好きなのよ。古いものはさっさと捨てなさい」
「このお肉、半額シールが貼ってあるわね。高坂家の嫁として恥ずかしくないの? 和也には、いつも一番いいものを食べさせてあげなきゃ」
次から次へと繰り出される、理不尽なダメ出し。私はそのすべてに、「はい、勉強になります」「申し訳ありません、これからは気をつけます」と、完璧なまでに従順な嫁を演じきった。ポケットの中のICレコーダーが、その一部始終を静かに記録し続けている。
「ふん、やっと少しは物分かりが良くなったようね。和也から、あなたが反省してるって聞いたわよ。いいことよ。妻は夫と、その母親に従うのが一番幸せなの。それがあなたの分というものよ」
佳代子さんは、得意満面の笑みでそう言った。隣で聞いていた和也も、「そうだよ、美咲。母さんの言うことを聞いていれば間違いないんだから」と深く頷いている。
間違いない、か。私の心は、凍てつくような静けさに満ちていた。そう、もっと言いなさい。あなたたちのその歪んだ価値観を、思う存分、私に聞かせて。その言葉の一つひとつが、あなたたちの首を絞める縄になるのだから。
「はい、和也さん。お義母様。よく、分かりました」
私は、これまでで一番美しい笑顔を浮かべて、そう答えた。チェス盤の上で、私の駒がまた一つ、静かに前へ進んだ。チェックメイトの日は、もうすぐそこまで来ている。
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