「お母さんの言うことが絶対」と私を捨てたマザコン夫、婚活市場で誰からも選ばれず後悔しているそうですが、もう遅いです
@jnkjnk
第1話:ひび割れた仮面
キッチンの窓から差し込む西日が、磨き上げたグラスに反射してきらりと光る。今日は、夫の和也と結婚して三年目の記念日。特別なディナーのために、私は朝から腕を振るっていた。メインディッシュは、和也が一番好きな和牛の赤ワイン煮込み。じっくりと時間をかけて煮込んだ肉は、フォークを刺せばほろりと崩れるほど柔らかく仕上がっているはずだ。
「よし、いい感じ」
ソースの味見をして、小さく微笑む。少し高価なワインを開け、テーブルにはお気に入りのクロスを敷いた。キャンドルに火を灯せば、いつものダイニングが特別な空間に変わる。結婚してからの三年間、楽しいことばかりではなかった。けれど、優しい和也の笑顔を思い出すたび、私はこの幸せを守りたいと心から願ってきた。彼が「美咲の料理が一番美味しい」と言ってくれる、その一言が私の支えだった。
「ただいまー」
玄関のドアが開く音に、私はエプロンを外しながらリビングへと急いだ。
「おかえりなさい、和也さん。お仕事お疲れ様」
「ああ、ただいま。……うわ、すごいな。レストランみたいだ」
テーブルセッティングを見た和也が、感心したように目を丸くする。その素直な反応が嬉しくて、私の胸は温かいもので満たされていく。この笑顔が見たかったのだ。
「今日は記念日だから、ちょっと頑張ってみたの。早く着替えてきて。すぐ準備するから」
「ありがとう、美咲。楽しみだな」
嬉しそうに寝室へ向かう和也の背中を見送り、私は再びキッチンに立った。あとは前菜のカルパッチョを仕上げて、サラダを盛り付けるだけ。軽やかな鼻歌が、自然と口をついて出る。結婚生活は、山あり谷ありだと聞く。特に、義母である佳代子さんとの関係は、私にとって決して平坦な道ではなかった。けれど、和也を愛しているから。彼が大切にしているお母様なのだからと、ずっと自分に言い聞かせてきた。
ピンポーン、と軽快なチャイムが鳴り響いたのは、まさにその時だった。
「あれ? 和也さん、何か忘れ物でもしたのかな」
モニターを覗き込んだ私は、息を呑んだ。そこに映っていたのは、上品なツイードのジャケットを着こなし、にこやかに立つ義母・佳代子さんの姿だった。アポイントなど、もちろんない。
「……お義母さん」
心臓がどくん、と嫌な音を立てる。それでも私は深呼吸を一つして、良き嫁の仮面を貼り付けた。ドアを開けると、佳代子さんは華やかな笑顔で紙袋を差し出してきた。
「美咲さん、こんばんは。近くまで来たから、美味しいお惣菜を買ってきたのよ。和也、帰ってるんでしょう?」
「は、はい。今、着替えておりますが……」
「まあ、よかった。さ、入れてちょうだい」
佳代子さんは返事を待たずにずかずかと上がり込むと、ダイニングテーブルを見て、ぴたりと足を止めた。そして、値踏みするような視線でテーブルの上をゆっくりと眺め回す。
「まあ、素敵ね。何かのお祝い?」
「……はい。今日、私たちの結婚記念日でして」
私の言葉に、佳代子さんは「あら、そうだったかしら」とわざとらしく首を傾げた。そして、キッチンカウンターに置かれた大皿の赤ワイン煮込みに目を留めると、顔をしかめる。
「美咲さん。こんなにこってりしたもの、和也に食べさせるつもり? あの子、最近健康診断の数値が良くなかったのよ。あなた、妻としてちゃんと管理してあげないと」
冷水を浴びせられたような衝撃だった。朝から心を込めて作った料理が、一瞬で「体に悪いもの」と断じられた。声が震えそうになるのを必死でこらえ、私はかろうじて言葉を返す。
「いえ、お野菜もたっぷり使っていますし、脂身の少ないお肉を選んで……」
「でも、見た目がこれだけ濃いじゃない。ダメよ、ダメ。男の人の健康は妻が守るものよ。はい、これあの子に食べさせてあげて」
そう言って佳代子さんがテーブルに並べ始めたのは、デパ地下で買ってきたであろう、煮魚やきんぴらごぼう、ひじきの煮物といった惣菜の数々だった。私が用意した記念日のディナーは、無遠慮にテーブルの隅へと追いやられる。
ちょうどその時、部屋着に着替えた和也がリビングに入ってきた。
「母さん! どうしてここに?」
「和也、お帰りなさい。あなたの体が心配で、体にいいものを持ってきたのよ。ほら、美咲さんの料理はまた今度にして、今日はこれを食べましょう」
佳代子さんは慈愛に満ちた母親の顔で和也に微笑みかける。和也は一瞬、私とテーブルの上の料理に目を向けたが、すぐに母親の方へ向き直った。
「そっか、ありがとう母さん。わざわざ悪いね」
「いいのよ、母親だもの。さあ、冷めないうちに座って」
違う。そうじゃないでしょう、和也さん。今日は私たちの記念日なのよ。私がどんな想いでこの日を準備したか、あなたは知っているはずでしょう? 心の中で叫んでも、声にはならなかった。
和也は、私の悲痛な視線に気づかないふりで食卓についた。そして、佳代子さんが持ってきた惣菜を「うん、やっぱり母さんの選ぶものは美味しいな」と嬉しそうに口に運ぶ。私が時間をかけて煮込んだ赤ワイン煮込みには、一度も目をくれようとしない。
「美咲さんも突っ立ってないで、座ったらどう? あ、あなたはこの残り物でも食べていたらいいわ」
佳代子さんが、隅に追いやられた私の料理を顎でしゃくる。怒りよりも先に、深い、深い絶望が全身を支配した。もう、涙も出なかった。ただ、目の前で繰り広げられる光景が、まるでスローモーションのように見えていた。私の存在は、この家ではここまで軽いものだったのか。私の愛情は、デパ地下の惣菜にすら劣るものだったのか。
食事の間、私はほとんど口を開かなかった。和也と佳代子さんの会話は、私をいないものとして進んでいく。会社の愚痴、親戚の噂話、佳代子さんが新しく始めた趣味の話。私はただ、無になった頭でそれを聞いていた。
食事が終わり、佳代子さんが満足げに腰を上げた時、事件は再び起きた。
「あら、そういえば美咲さん。ベランダに置いてあった、あのゴチャゴチャした鉢植え、私が捨てておいたわよ」
「……え?」
思わず、低い声が出た。ベランダの鉢植え。私が大切に育てていた、ハーブの寄せ植えのことだ。ローズマリー、タイム、バジル……料理に使うのはもちろん、毎朝水をやり、小さな緑の葉が育っていくのを見ることが、この息の詰まる毎日の中での数少ない癒しだった。
「虫が湧いたらどうするの。ああいう土ものは、マンションでは良くないのよ。和也のためを思って、私が片付けてあげたから、感謝してほしいくらいだわ」
「な……んで、そんな勝手なことを……」
初めて、私は義母に対して反論の声を上げた。しかし、そのか細い抵抗を、和也の暢気な声が打ち砕く。
「美咲、そんな言い方ないだろ。母さんは良かれと思ってやってくれたんだから」
良かれと思って? 私の大切なものを、断りもなくゴミ箱に投げ捨てることが? 和也の顔を見つめる。彼は困ったように眉を下げているだけで、私の痛みなど微塵も理解していない。
「でも、あれは私が大切に……」
「大げさだよ。ただの植木だろ? そんなものより、僕たちの住む家を清潔に保つことの方が大事じゃないか。母さんに悪気はないんだから、許してやれよ」
母さんに、悪気はないんだから。
その言葉が聞こえた瞬間、ぷつん、と頭の中で何かが切れる音がした。ああ、そうか。この人にとっては、いつだって「お母さん」が絶対なのだ。私がどれだけ傷ついても、私の想いがどれだけ踏みにじられても、全て「母さんの善意」という一言で片付けられてしまう。
結婚前のデート。意見が食い違った時、「母さんがこう言ってたから、こっちが正しいよ」と笑ったあなた。
新居の家具選び。「母さんが選んでくれたこのソファにしよう」と、私の意見を聞きもしなかったあなた。
私が高熱で寝込んだ日。「母さんが手伝いに来てくれるから大丈夫」と、あなたは友人と飲みに行ってしまった。
数々の記憶が、走馬灯のように蘇る。私はずっと、見て見ぬふりをしてきたのだ。いつか分かってくれるはず。いつか、私と「お母さん」を天秤にかけるのではなく、私という一人の人間を見てくれるはず。そんな淡い期待は、今日、この瞬間、跡形もなく砕け散った。
目の前にいるのは、私の夫ではない。ただの、母親の言いなりになる息子だ。
「……そう、ですね。お義母様に、悪気は、ないんですよね」
私が絞り出した声は、自分でも驚くほど平坦で、冷たかった。和也は私の変化に気づかず、「そうだよ、分かってくれてよかった」と安堵の表情を浮かべている。佳代子さんは「やっと嫁としての分をわきまえたようね」とでも言いたげな、満足げな笑みを浮かべていた。
私はゆっくりと立ち上がると、手つかずのまま冷めてしまった赤ワイン煮込みの大皿を手に取った。そして、二人が見ている前で、それをキッチンのゴミ箱に静かに流し込んだ。肉も、野菜も、私の愛情も、すべて。
「美咲!? 何やってるんだ!」
和也の驚愕した声が背中に突き刺さる。私は振り返らず、汚れた皿をシンクに置いた。
「食べないのでしょう? 傷んでしまう前に、処分しただけです」
もう、この人たちのために心を尽くすのはやめよう。この人たちのために、良き妻、良き嫁の仮面を被り続けるのは、もう終わりにしよう。
諦めと、絶望と、そして氷のように冷たい怒り。それだけが、空っぽになった私の心を支配していた。このひび割れた仮面を脱ぎ捨て、本当の私を取り戻すための戦いを始めなければならない。私は誰にも気づかれぬよう、唇の端に、ほんのわずかな笑みを浮かべた。もう、何も恐れるものはない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。