龍の卵
風月 雫
龍の卵
このちっぽけな村に龍を祀る民が住んでいた。
数百年前までは存在したと言われる龍と龍を操る神、龍神を祀ってあったが、今では本当に存在していたのかもわからないほど、伝説のようになってしまっていた。
そしてこの世界には数百メートルの連続落差がある大きな滝がある川が存在した。水が豊かに流れる滝の上にある祠には、石のように固くなった鶏卵ぐらいの卵が1個あった。そこに住む民は、それが『龍の卵』という言い伝えと共に祈りを捧げてきた。
しかし、その滝に行くまでには巨岩の絶壁で険しい鎖場が連続し「あくまでも言い伝えだろう」と、次第に誰もその祠に近寄らなくなった。それが原因かはどうかは分からないが、その世界には雨も降らず日照りが続くようになる。
「なぜ、雨が降らない?」
「これじゃあ、作物が育たないよ」
「あの滝の川だって、そのうち水が干しあがってしまう」
「龍神様の祟りかも知れんぞ」
卵を祀ってある祠に誰も近寄らなくなったことが原因かもしれない、という噂が広がり始める。けれど民たちは結局、単なる言い伝えだとし、誰もその祠に近寄らなかった。
「ねえ、母さん。何故、雨が降らないの?」
歳は十五、六だろうか、母と一緒に細くなった川の水を汲みに来た少年が聞いた。
「あの滝の上にある祠に誰も祈らなくなったから……」
「それなら、誰かがそこまで行って祈ればいいんだろ?」
「リュウキ、そんな事は簡単に口にするもんじゃないよ。行きたくても道が険しすぎて誰も行きたがらない。祠と言っても、祀ってあるのが丸い石だけだからね」
リュウキと呼ばれる少年は、遠く離れた滝を見る。あの滝の上には本当にそんなものがあるのだろうかと思った。この眼で確かめてみたくなる。もしかすると、雨が降らない理由が他にもあるのかもしれない。
「母さん、俺が行ってくる」
「は?」
「行って来るよ。俺……」
リュウキは、遠くに見える滝をもう一度見た。段々と行かなければならない気がして来たのだ。
「馬鹿なことを言うもんじゃない! あんな所に辿り着けるわけがない! 死んでしまうからお辞め!」
どの道、このまま雨が降らなければ、ここに住む民も死んでしまう。リュウキはそれは嫌だと思った。この民たちは困ったことがあれば、皆で助け合い生活をしている。リュウキも小さい頃は何度も助けられた。ここの民が大好きだった。それなのに桶に水を汲むのもやっとの細い川しかないのにどうしろというのだろうか、とリュウキはそう考え、彼の気は変わらなかった。
「俺が行ってくる!」
リュウキは止める母を振り切り、滝を目指した。
リュウキは生後間もない頃、川の近くで捨てられていたのをこの母に拾われた。実母ではなかった。その川というのが、先程、水を汲んでいた川だった。何故か、自分がどうにかしなければならないという気がした。
数日分の食料を持って行きたかったが、リュウキの家にはそんな余裕もない。畑で取れた芋を数個持ち、滝を目指す。
単なる道が山の奥に入いると段々と険しくなり、陽が出ているのにも関わらず、薄暗かった。その微かに木々の隙間から射し込んでいた陽の光も山の向こうに落ちる頃に、あの滝の滝つぼにリュウキは辿り着いた。
その滝を見上げても真っ暗で何も見えない。
「先端が見えない。どれぐらいあるのだろうか?」
薄暗くて見えない先端が、気の遠くなるほどの道のりに思えてくる。
リュウキは今日は此処までにしようと、滝の近くで見つけた洞窟で休むことにした。薪になる枝を探し、火を起こす。日頃からリュウキは火を起こしていたため、今回も直ぐに火をつけることが出来た。殆ど何も食べずにここまで来たため、久々の食事をする。――といっても、芋しかない。芋を火で焼き、食べた。明日は絶壁そ鎖場を頼りに登りつめなければならない。
早めに寝る事にしたリュウキは、薄い毛布に包まり眠りについた。
――……むい、寒い……。
リュウキは誰かの呟きにで目が覚める。慌てて体を起こし周りを見渡す。朝になったのだろう。洞窟のまで、優しい白色の光が差し込んでいた。
今にも消えそうなほどの声に、夢だったのか、とリュウキは首を捻った。リュウキはそのまま外に出て、滝をもう一度見上げる。
「うわああ、たっけえなあ……この上に祠があるのか?」
昨夜は暗くて見えなかった上の方が、微かに見え、リュウキは感嘆な声を上げた。
何処から登れるかと、巨岩の絶壁を登るための鎖場を探す。
滝つぼから数メートル離れた岩を2個ほど登った所にそれがあった。リュウキは登る準備を終えると、その岩場を登り、鎖に手を掛ける。
「よし! 大丈夫そうだ」
鎖を軽く引っ張り抜けないことを確認した。リュウキは両手で強く握り、足場を確認しながら登る。
途中、半分まで登った頃か、下を見ればその高さにリュウキはゾクリと背筋に寒気が走る。滝つぼの水が少なく、底か綺麗に見えた。足を滑らせ落ちれば命は無いだろう。
「怖え……」
しかし、引き返すことは考えなかった。この上に行かなかければ、という気になる理由が知りたかった。そして本当にこの上に祠があるのかも――。
「もう下は見ないぞ! 上だけ見て行く」
声に出して、気持ちを振るい立たせる。鎖をしっかりと握り、更に上を目指した。何度か、足を滑らすこともあった。鎖をしっかり握っていなければ、下の滝つぼに落ちていただろう。
リュウキはひたすら上を見て登る。時々、足を休めれるしっかりとした岩で止まりながら、登れた頃には陽が天頂を過ぎていた。頂上から下界を見渡す。通ってきた道を辿れば、己が育った村が小さく見える。
「絶景だな。こんな景色を見れるとは思わなかった」
リュウキはその景色を暫く茫然と眺めていた。
――寒い。
リュウキは夢の中で聞いたような声が聞えた。それのする方に足を進めれば、古びた小さな祠があった。リュウキはその祠に耳を傾ける。
――さ……むい。
確かにその祠から声が聞えた。恐る恐るリュウキは祠に近寄り、恐々と小さな扉をそっと開けた。
話で聞いていた通り、石のように硬そうな卵がそこにあった。大きさも鶏卵ぐらいだ。
――寒い。
やはり、その卵から聞こえた。気のせいではなかった。
リュウキは卵が「寒い」と言うのなら、温めてやればいいんじゃないかと、単純にそう考えた。
そっと、両手で卵を掬い上げるように持ち上げ、そのまま、潰さないように抱え込み、己の体温で温める。暫くすると温かくなったのか、寒いという声が聞えなくなった。
「これで良かったのかよ?」
リュウキは静かになった卵を抱えながら、休めるところを探した。
丁度、大きな岩が重なり合い、風や雨が凌げるようになっている所があり、そこで休むことにする。下界からかなり高い位置にあるため、晴れていても風が冷たかった。
毛布に包まり、リュウキは卵を温め続ける。
――温かい。
卵から、ホッとするような呟きが聞えた。リュウキも疲れが出たのか、毛布の温もりを感じながらうとうとと眠ってしまった。
――あったかいよ……ありがとう。これなら、もう少しで……
◇
「……寒い」
寒さを感じリュウキは目を覚ました。
辺りを見れば、もう陽が沈み、西の空がセピア色に染まっていた。
「寒いはずだ」
体は寒さを感じているが、何故か心は温かく幸福に似た感じがある。夢のせいなのかな、とリュウキは思った。
夢では、靄のかかった、それでいて薄っすらと光があり、暖かさを感じた。靄のかかったその奥から、感謝の言葉を聞いたようなきがする。
リュウキは腕の中にある卵を見つめる。あの夢は、卵からの感謝の夢なのかもしれない。そう考えると、もっと温めた方が良いのだろうと思った。
「とにかく今は自分が暖を取らなければ、陽が沈むと一段と冷える」
自分が包まっていたまだ温かさが残る毛布に卵を包み、「すぐに戻ってくるからね」と卵に声を掛け、薪になる枝を探しに行く。細い枝しかなく、それでもそこそこの寒さが凌げるほどの量はあった。
リュウキは卵の所に戻り、焚火を始める。火の具合が丁度良くなると、芋を焼きはじめ、卵の様子を確認する。
「……気のせい?」
最初の頃に比べると、卵の表面が少し白くなったように見えた。それでも僅かだ。焚火の火でそう見えたのかもしれない。リュウキは気のせいだと思い、そのまま卵を見つめていた。
芋がホクホクと焼き上がり食べる。この調子ならまだ二日ほど持つだろうと考える。
お腹が膨れるとまた眠気が襲って来た。余程、体力を使ったのかもしれない。卵をまた抱えながら毛布に包まり、リュウキはまた眠った。
――温かい、ありがとう。もう少し、もう少しだ。
リュウキはまた似たような夢を見た。夢の中の視界は相変わらず靄がかかっているが、段々と声がはっきりと聞こえてきた。
目の前が明るく感じ、うっすらと瞼を開ける。夜が明け、外は白い光で眩しかった。
「朝になった」
寝ころんだまま焚火を見れば、火は消えていた。
「そうだ、卵は?」
リュウキは慌てて抱え込んでいた卵を見た。
「え?」
両手の掌に乗せた卵は白くなっていた。
息をすることを忘れる程、リュウキは驚いた。
不思議な石だと思っていたからだ。まさか卵になるとは――。
目を見開いてじっとそれを見つめていると、ピキッと音がなった。更に目を見開くリュウキ。目玉が落ちそうになるくらい驚いた。
「割れる?」
卵を手から離すことも出来ず、ゴクリと固唾を呑んで見守る。
ピキッ、ピキッと卵にひびが入ってくる。一体何が出てくるのだろうかと不安と期待が入り混じった。
卵の中から思いっきり何かが飛び出してきた。
「うわあ!!」
驚いたリュウキだが手を離す事はしなかった。
震える手の上で見たことのない生き物が、ドロリとした液体と共にモゾモゾと動く。
蛇のような
石のような卵から、もし何かが
しかもその爬虫類をよく見ると、背に小さな翼がはえている。その翼は折りたたまれており、一生懸命、その翼を伸ばし、動かそうとしていた。
その翼がしっかりと伸びるまでに数分ほどかかった。いつの間にかドロリとした液体は消え、翼を伸ばし終わるとパタパタと動かし宙に浮く。
手からそれが離れると、リュウキは慌ててその場から少し後ずさりした。
「なんだ!」
そう、声を出せば、その爬虫類はリュウキの目の前にゆっくりと飛んでくる。
「龍神様、凍えそうになっていたところを助けてくださって、ありがとうございます。私は龍のウマと申します」
「え? しゃべった? 龍神? 龍? ウマ?」
「はい! 龍神様が私の声を聞きつけて、温めてくださったのですね。寒くて卵の殻を厚くしていたのですが、なかなか温まらず卵の中で成長が止まってしまってました。やっと殻を破ることが出来ました。以前は、人がこの辺に来ては何かブツブツと唱えていたんですが、誰も私の声が聞えず、そのうち誰も来なくなってしまい、どうしようと思っていたところだったんです」
よくしゃべるその龍は、手のひらに乗るほど小さい。
「本当に龍なの?」
「はい!」
龍は元気に答える。
「小さいけど本当に?」
龍は少し不貞腐れる仕草をする。
「不満ですか? 小さくてもちゃんと仕事は出来ます。龍神様、仕事を言いつけてください」
リュウキはキョロキョロと周りを見渡す。先ほどから龍が自分に向かって龍神様と言っていた。ここには自分しかいない。龍はリュウキをジッと見つめていた。
「まさか……俺が龍神様?」
「そうですよ。私の声が聞えたのだから貴方様が龍神様です。さあ、なんなりと仕事を言いつけてくださいませ」
リュウキは眉間に皺を寄せた。何かへんな夢でも見ているのかと思う。けれど、夢でもいい、雨を降らせれるならなんだって良かった。
「じゃあ、雨をいっぱい降らせてくれる?」
「お安い御用です」
龍はそう言うと、空高くに昇る。ジワジワと黒い雲が空全体に広がっていく。すると稲光が走り、ポツポツと雨が降り出した――と思ったら、一気にザアーと降り出す。
リュウキは暫く呆気に取られていたが、流石に振りすぎだろうと「もう、良いよ!止めて!」と叫んだ。
その声が龍に届いたようで、ピタリと雨が止む。
「もういいんですか?」
「もう良いよ。あれ以上、雨が降ると河から溢れてしまうよ。えっと……ウマ? という名だったね?」
「はい! これで貴方様が龍神様だとお分かりになりましたか?」
「いまいち、納得が出来ないけれど。それよりウマ、雨を定期的に降らせてよ。俺は、村に戻るから」
ウマはシュンと項垂れる。
「もう、一人になるのは嫌です! やっと龍神様に会えたのに嫌です。それに村に戻っても誰も貴方様の事を覚えていません」
「え? どういうこと?」
「私が卵から孵った時点で、貴方様と係わった人たちの記憶が消えるようになっています。だから村に戻っても、チョー寂しいよ」
「母さんも?」
「そうだよ」
「…………」
リュウキは愕然とする。実の母親ではなかったけれど、それでもずっと育ててくれた母が自分の事を覚えていないということにショックを受けた。
「嘘だろ?」
リュウキはここに来る前の事を思い出していた。
母の言っていた通り、ここに来なければ――。
あの手を払いのけなければ――。
またあの場所に帰れると思ったのに――。
リュウキの目から大粒の涙が流れだした。
けれど自分がここに来なければ、雨が降り出す事もなかった。
「龍神様。これからは私と一緒です。次の卵が産まれるまで、ここに一緒に過ごします」
「次の卵?」
「はい。ここは、龍の産まれる場所なのです。龍神様が卵の元にやってくると卵から龍が産まれます。そして、今回は貴方が龍神様だったのです。ずっと、ずっと私は待っていました。私たちは同じ場所にずっと留まることが出来ません。神と神の使いとして困っている人たちの元に行かなければならないのです。次の卵が産まれる頃には、体が大きくなり貴方様を背に乗せ移動することが出来るようになります」
「それまでは何をするの?」
「この土地に住む人々に、自然の恵みを与えることをするのです。私たちは長い旅に出ることになるのです」
リュウキは涙を拭い、育った村を見下ろした。誰も自分の事は覚えていない。
龍のウマが次の卵を産むまでにどれだけの時間を要するか分からないけれど、大好きだった皆の生活を守るためにここで見守ろう、そう決意した。
いつか、また民に、母にあえるだろうか――。
龍の卵 風月 雫 @sizuku0219
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