第3話:崩れゆく仮面

家を出てから、一ヶ月が過ぎた。季節は初夏へと移り変わり、日差しが日に日に強さを増していく。その眩しい光は、まるで私の未来を照らし出しているかのようだった。ウィークリーマンションでの仮住まいにも慣れ、私の生活は新しいリズムを刻み始めていた。


「相沢さん(私の旧姓だ)、この企画書、素晴らしいです! 特にターゲット層のインサイトを捉えたコンセプトが秀逸ですよ」


会議室に、弾むような声が響く。声の主は、かつての後輩であり、今は私の良き相談相手となってくれている高橋翔太くんだ。私の連絡に、彼は二つ返事で会う約束を取り付けてくれた。そして、私が再就職を考えていると打ち明けると、自分の勤める食品企画会社の上司に掛け合って、面接の機会を設けてくれたのだ。


「ありがとうございます、高橋くん。そう言ってもらえると嬉しいわ」


私は、少し照れながらも、確かな手応えに胸を張った。面接で提出した企画書は、専業主婦として過ごした五年間の経験から生まれたものだった。日々の買い物で感じる主婦たちの本音、健康や時短に対する潜在的なニーズ、そういった「生活者の視点」を、かつて培ったマーケティングの知識と融合させたのだ。亮介に「社会から取り残された、何もできない女」と罵られ続けた日々。しかし、その日々ですら、私にとっては貴重なインプットの時間だったのだと、今なら思える。


結果、私はその会社に企画職として採用されることが決まった。ブランクがあるにも関わらず、私の経験と視点を高く評価してくれた会社に、心から感謝した。新しいオフィス、新しい同僚、そして何よりも、自分の能力を発揮できる場所。失われたと思っていた自己肯定感が、日を追うごとに満たされていくのを感じた。仕事帰りに高橋くんや同僚たちと「お疲れ様」と言い合って飲む一杯のビールが、こんなにも美味しいなんて。私はすっかり忘れていた。


「相沢さん、なんだか結婚前よりずっと生き生きして見えます。やっぱり、仕事してる相沢さんが一番輝いてますよ」


ある日の帰り道、高橋くんが屈託のない笑顔で言った。彼の姉もモラハラ離婚で苦労した経験があるらしく、私の状況を他人事とは思えないのだと、そっと打ち明けてくれた。彼の純粋な応援が、私の背中を力強く押してくれていた。


一方で、亮介との離婚協議は、第一回の調停を迎えていた。

家庭裁判所の一室。向かい合ったテーブルには、私と私の代理人弁護士。そして、反対側には、憔悴しきった表情の亮介と、彼の弁護士が座っている。二人の調停委員が、静かに私たちを見守っていた。


「それでは、橘亮介さんにお尋ねします。申立人である梓さんが主張する、離婚理由について、何か反論はありますか」


男性の調停委員が、穏やかながらも鋭い口調で問いかけた。


「反論、と言われましても……。私は、夫として、彼女のために一生懸命働いてきました。多少、厳しいことを言ったかもしれませんが、それは夫婦間のコミュニケーションの一環であり、彼女が主張するような『精神的虐待』などというつもりは毛頭ありません」


亮介は、用意してきたであろう言葉を、必死に紡ぎ出す。その姿は、会社で見せる自信に満ちたエリートサラリーマンの面影もなく、ひどく惨めに見えた。彼の弁護士も、勝ち目の薄い弁護に疲弊しているのが見て取れた。


すると、私の隣に座る女性弁護士が、静かに立ち上がった。


「調停委員の先生方。それでは、申立人が保持しております証拠の一つを、ご確認いただけますでしょうか」


彼女がノートパソコンを操作すると、スピーカーから、聞き慣れた亮介の怒声が響き渡った。


『これが、俺の昇進祝いか? こんな安っぽい祝い方で、か?』

『たかが皿一枚だろう。また買えばいい。俺の稼いだ金で、いくらでも買えるだろうが!』


それは、あの運命の夜に録音された音声だった。自分の醜い罵声が、第三者のいる密室に響き渡る。亮介は顔面を蒼白にし、唇をわなわなと震わせた。羞恥と屈辱に、彼のプライドが粉々に砕け散っていく音が聞こえるようだった。


「……っ!」


彼は何かを言い返そうとしたが、言葉にならなかった。音声は続く。


『お前は本当に何もできないな。俺がいなかったらどうするんだ』

『誰のおかげで生活できていると思ってるんだ』


次々と再生される音声証拠を前に、亮介は完全に沈黙した。彼の弁護士も、諦めたように深いため息をついた。調停委員たちの視線が、明らかに亮介に対して厳しいものに変わったのを、私は肌で感じた。


この日の調停は、私側に圧倒的有利な状況で幕を閉じた。私は終始、弁護士に進行を任せ、毅然とした態度を崩さなかった。揺れる心はあったが、ここで情けを見せてはいけない。私自身の未来のために。


調停を終え、裁判所の外に出ると、乾いた風が火照った頬を撫でた。過去との決別が、また一歩進んだ。私は空を見上げ、深く息を吸い込んだ。


その頃、亮介の生活は、破綻の一途を辿っていた。

調停で自分の醜態を突きつけられた彼は、心身ともに疲弊しきって自宅のマンションに帰り着いた。ドアを開けた瞬間、生ゴミの腐敗臭と、脱ぎっぱなしの衣類の酸っぱい匂いが鼻をつく。梓がいなくなってから一ヶ月、家の中はあっという間にゴミ屋敷と化していた。


キッチンには、コンビニ弁当の空き容器や、カップ麺の残骸が山積みになっている。洗濯物は溜まる一方で、着るものがなくなり、仕方なくコインランドリーに行くが、洗剤の量も分からず、生乾きのまま持ち帰ってくる始末。食生活は完全に乱れ、栄養の偏りからか、肌は荒れ、口内炎がいくつもできていた。かつてエリートとして輝いていた彼の姿は、見る影もなかった。


「くそっ……なんで俺がこんな目に……」


ソファに倒れ込みながら、彼は悪態をついた。しかし、その声には以前のような力はない。孤独と無力感が、重くのしかかる。静まり返った部屋で、初めて彼は、梓が毎日当たり前のようにこなしていた家事という「労働」の価値を、身をもって知ることになった。掃除、洗濯、料理、そして、煩雑な金銭管理。


ふと、郵便受けに溜まっていた請求書の束が目に入った。電気、ガス、水道、クレジットカード……。梓がいた頃は、給料日に決まった額を彼女に渡すだけで、後はすべて彼女が管理してくれていた。彼は、自分の家の光熱費がいくらなのか、保険料がいつ引き落とされるのか、何も知らなかったのだ。


恐る恐るクレジットカードの明細を開いて、亮介は愕然とした。ここ一ヶ月の、外食とコンビニでの出費が、信じられない金額に膨れ上がっている。梓がやりくりしていた頃の食費の、実に三倍以上だった。梓が、いかに効率よく、そして経済的に家計を管理していたか。その事実が、数字となって彼に突きつけられた。


「あずさ……」


無意識に、妻の名前を呼んでいた。あの温かい手料理。清潔に整えられた部屋。アイロンのかかったシャツ。それらすべてが、彼女の愛情と能力の賜物だったのだと、失って初めて気づいた。後悔の念が、黒い染みのように心に広がり始める。


だが、もはや彼の後悔は、新しい人生を歩み始めた私の耳には届かない。私は今、新しい職場で、自分の企画した新商品のプレゼンに向けて、活気に満ちた毎日を送っていた。


「相沢さん、この間の試作品、すごく美味しかったよ! 特にハーブの使い方が絶妙で」

「本当ですか? ありがとうございます!」


同僚との何気ない会話が、私の心を温かくする。認められる喜び、必要とされる実感。それは、亮介との結婚生活では決して得られなかったものだった。

亮介が失ったのは、単なる家事代行者ではない。彼の人生を豊かに彩り、支えてくれていた、かけがえのないパートナーだったのだ。そして彼は、その価値に気づくことすらなく、自らの手でそれを叩き壊してしまった。その代償の大きさを、彼はこれからさらに、骨身に沁みて思い知ることになるだろう。

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