第2話:静かなるテーブル・リターン
あの決意の夜から、三日が過ぎた。この三日間、私は完璧な「いつもの妻」を演じきった。亮介が床に叩きつけたローストビーフのことは何事もなかったかのように振る舞い、彼の機嫌を損ねない朝食を作り、磨き上げた革靴を玄関に揃え、「いってらっしゃい」と笑顔で送り出す。亮介は私のその従順な態度に満足したのか、あるいは単に興味がないのか、あの一件に触れることは一度もなかった。彼の頭の中では、すでに終わったことになっているのだろう。だが、私の心の中では、すべてが始まったばかりだった。
亮介を送り出した後、私は静かに、そして迅速に行動を開始した。まずは弁護士への相談。インターネットでモラハラ離婚に強い女性弁護士を探し出し、すぐに予約を取った。電話口で事情を簡単に説明すると、弁護士は私の冷静な口調に少し驚いたようだったが、すぐに親身な対応をしてくれた。次に、当面の生活拠点となるウィークリーマンションの契約。そして、自分の通帳と印鑑、身分証明書、そしてあの夜バックアップを取った外部ストレージを、普段使っているバッグとは別の、小さなショルダーポーチに収めた。それは私の未来そのものだった。
そして、運命の日の朝が来た。いつもと同じように亮介を送り出した後、私は最後にもう一度、この五年間を過ごした部屋を見渡した。日当たりの良いリビング、機能的に整えられたキッチン、二人で選んだはずの家具。そのどれもが、今は色褪せて見えた。未練はない。あるのは、過去の自分への決別の思いだけ。
最低限の着替えを詰めたボストンバッグ一つを手に、私は静かに玄関のドアを開けた。振り返らず、鍵をかける。カチャリという小さな金属音が、私の過去との決別を告げるファンファーレのように響いた。
その日の夕方。亮介はいつもより少し早い時間に帰宅した。残業がなかったのか、あるいは何か別の理由か。彼は玄関を開け、いつものように「ただいま」と呟く。しかし、いつも返ってくるはずの「おかえりなさい」という明るい声が聞こえない。それどころか、家の中は水を打ったように静まり返っていた。
「梓? いないのか?」
リビングへ続くドアを開けると、部屋の明かりは消えていた。いつもなら、温かい夕食の匂いが漂ってくる時間だ。しかし、今日は何の匂いもしない。ただ、ひんやりとした空気が彼を迎えただけだった。
「どこか出かけてるのか……?」
亮介は眉をひそめ、苛立ちを隠さずに呟いた。自分の帰宅時間に合わせて夕食の準備もせずに出かけるとは、何事だ。後で説教をしてやらねば。そう思いながら電気のスイッチを入れた瞬間、ダイニングテーブルの上に置かれた一つの封筒と、いくつかの書類の束が目に飛び込んできた。
違和感を覚え、彼はテーブルに近づく。封筒には、見慣れた梓の丸みを帯びた文字ではなく、硬質で無機質な明朝体で『橘亮介様』と印字されていた。その隣には、梓が完璧に管理していたはずの家計簿、光熱費や保険の支払い関連の書類、マンションの管理規約のファイルなどが、まるで引き継ぎ資料のように整然と並べられている。
「なんだ、これは……」
亮介は不審に思いながら、封筒を手に取った。ずしりと重い。封を破り、中身を取り出すと、そこには『離婚協議申入書』という、およそ自分の人生とは無縁だと思っていた文字列が目に飛び込んできた。
「……は?」
理解が追いつかない。ページをめくると、申し立て人として妻である『橘梓』の名前。そして、申し立ての理由として、『長年にわたる精神的虐待(モラルハラスメント)』という項目が、具体的な事例の列挙と共に詳細に記されていた。自分の発した言葉が、正確な日付と共に活字となって並んでいる。
『「誰のおかげで生活できていると思ってるんだ」との暴言』
『「お前は本当に何もできないな」等の人格を否定する発言の繰り返し』
『妻の人間関係を制限し、孤立させようとする行為』
読み進めるうちに、亮介の顔から血の気が引いていく。そして、極めつけは最後のページに添えられた一文だった。
『なお、申立人は、申立理由を裏付ける客観的証拠として、被申立人の暴言を録音した音声データ及び詳細な日記を複数年にわたり保持しております』
「証拠……だと?」
亮介は愕然とした。あの従順で、何も言い返さず、ただ黙って自分の言うことを聞いていた梓が、そんな用意周到なことをしていたというのか。信じられない。信じたくなかった。これは何かの悪い冗談だ。そうだ、家出をして気を引こうとしているだけだ。
震える手でスマートフォンを取り出し、梓の番号をタップする。呼び出し音が、やけに長く感じられた。早く出ろ。出て、「ごめんなさい、冗談でした」と言え。しかし、コール音が途切れた後、聞こえてきたのは冷たい機械的な音声だった。
『おかけになった電話は、電波の届かない場所に……』
何度かけても結果は同じだった。メッセージを送っても、既読にすらならない。パニックと焦りが、じわじわと彼の心を侵食していく。そうだ、実家だ。実家に泣きついているに違いない。彼はすぐに母親である聡子の番号を呼び出した。
「もしもし、亮介? どうしたの、そんな時間に」
「母さん! 大変なんだ、梓が……梓が、勝手に出て行った!」
亮介は、自分が被害者であるかのように声を荒らげた。聡子は息子のただならぬ様子に驚きながらも、すぐに同調する。
「まあ、なんてこと! あの子は、嫁としての自覚が足りないんじゃないの? あなたに何か不満でもあったっていうの?」
「分からない! テーブルに、離婚したいなんていうふざけた紙を置いて……とにかく、母さんからも梓に連絡してくれ! 俺の電話には出ないんだ!」
「分かったわ。まったく、最近の若い嫁は我慢が足りないんだから。私がビシッと言ってやるわよ」
自信満々にそう言った聡子は、すぐに梓の電話番号に発信した。亮介は、母が梓を叱りつけ、梓が泣きながら謝罪し、すぐにでもこの家に戻ってくる光景を思い浮かべた。それでこそ、いつもの日常だ。
一方、その頃。私は都心から少し離れた、静かなエリアのウィークリーマンションの一室にいた。真新しい部屋はまだ殺風景だが、それがかえって私の心を落ち着かせた。窓の外には、夕暮れの空が広がっている。さっきから何度か亮介から着信があったが、すべて無視した。彼の慌てふためく顔が目に浮かぶようだった。
やがて、スマートフォンの画面に『橘聡子』という名前が表示された。義母だ。私は一つ深呼吸をしてから、通話ボタンをスライドさせた。
「もしもし、梓です」
『もしもし、梓さん!? あなた、今どこにいるの! 亮介から聞いたわよ、なんてことをしてくれたの!』
電話口から、ヒステリックな義母の声が鼓膜を突き刺す。予想通りの反応だった。
『嫁が夫に何の相談もなしに家を飛び出すなんて、前代未聞よ! あなたには橘家の嫁としての自覚というものがないの!? 亮介がどれだけ心配してると思ってるの! 今すぐ荷物をまとめて、亮介に謝って、家に帰りなさい!』
矢継ぎ早に浴びせられる罵声。以前の私なら、この剣幕に怯え、「申し訳ありません」と繰り返すことしかできなかっただろう。しかし、今の私は違う。
「お義母様」
私は、努めて冷静に、しかし凛とした声で言った。私の落ち着いた声色に、聡子は一瞬言葉を失う。
「私が家を出たのは、他でもない、亮介さんからの長年にわたる精神的虐待が原因です」
『なっ……精神的虐待ですって!? 亮介がそんなことするはずないでしょう! あなたの思い過ごしよ! 夫が妻を少し叱るのは当たり前のことじゃない!』
「いいえ、思い過ごしではありません。そして、お義母様。一つ、お伝えしておくことがあります」
私は一呼吸置いて、はっきりと告げた。
「亮介さんの暴言や、私を貶める発言の数々は、すべて音声データとして記録してあります。その他、詳細な日記も。それらすべての証拠は、すでに弁護士の先生にお預けしてあります」
電話の向こうで、聡子が息を呑む音が聞こえた。
「これは、私の一方的な家出ではありません。法的な手続きに則った、正当な別居です。ですので、申し訳ありませんが、お義母様のおっしゃる通りに家に帰ることはできません。今後のご連絡は、すべて私の代理人弁護士を通していただくことになりますので、ご了承ください」
『しょ、証拠……? べ、弁護士……?』
聡子の声は、先程までの怒気が嘘のように、狼狽の色に変わっていた。彼女の頭の中では、可愛い息子が「加害者」として断罪される、という最悪のシナリオが駆け巡っているのだろう。
「それでは、失礼いたします」
私はそれだけ言うと、一方的に通話を終了した。そして、聡子と亮介の電話番号を着信拒否に設定する。これで、彼らの声に心を乱されることはもうない。
ふう、と長い息を吐き出す。心臓が少しだけ速く打っている。だが、それは恐怖からではなかった。自分の力で、未来への扉を一つこじ開けたという、確かな手応えからくる高揚感だった。
バッグから、古びたノートを取り出す。それは、私がメーカーで働いていた頃に使っていた、商品企画のアイデアノートだった。中には、たくさんのレシピや企画の断片が、熱意のこもった文字で書き殴られている。パラパラとめくっていると、一枚の付箋が目に留まった。そこには、かつての後輩からのメッセージが書かれていた。
『相沢さん(私の旧姓だ)の企画、最高です! いつか絶対、一緒にヒット商品作りましょうね!』
その付箋の主、高橋翔太の顔を思い出す。いつも真っ直ぐな目で、私の仕事を尊敬してくれる、可愛い後輩だった。結婚を機に会社を辞めてからも、年に一度くらいは「お元気ですか」と連絡をくれていた。
そうだ、彼に連絡してみよう。
私はスマートフォンを手に取ると、彼の連絡先を探した。仕事の相談、という名目で。それは、社会との繋がりを取り戻すための、そして、失われた自分自身の価値を取り戻すための、小さな一歩だった。
メッセージを打ちながら、窓の外に目をやる。すっかり夜の闇に包まれた空には、星が一つ、強く輝いていた。それはまるで、これから始まる私の新しい人生を祝福してくれているかのようだった。
その頃、亮介のマンションでは、彼が呆然とリビングに立ち尽くしていた。聡子からかかってきた電話は、彼の最後の希望を打ち砕くものだった。
『亮介……どういうことなの……梓さん、証拠があるって……弁護士を立てたって……』
母の狼狽しきった声が、事態の深刻さを物語っていた。
家の中は、不気味なほど静かだった。いつもは梓が奏でる生活音が消え、ただ冷蔵庫の低いモーター音だけが響いている。腹が、ぐぅ、と鳴った。空腹だった。しかし、キッチンには食材の一つもない。梓が毎日買い物に行き、献立を考え、調理していたからだ。亮介は、米の研ぎ方すら知らなかった。
途方に暮れ、彼は初めて、自分がどれだけ梓に依存して生きてきたのかを、その身をもって実感していた。だが、それはまだ、これから彼を襲う崩壊の、ほんの序章に過ぎなかった。
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