第4話:あなたの知らない私の価値
数回の調停を経て、私たちの離婚は正式に成立した。決定的な証拠の前では亮介も反論のしようがなく、調停委員からの強い勧めもあって、彼は私の要求した慰謝料の額をほぼ満額で受け入れることになった。高額な慰謝料は、彼のプライドをさらに深く傷つけただろう。けれど、それは彼が私から奪った五年という時間と、踏みにじった尊厳に対する、当然の代償だった。
離婚届を提出し、戸籍上も「橘梓」から「相沢梓」に戻った日、私は一人で小さな祝杯をあげた。新しい名前、新しい人生。すべてが輝いて見えた。
私の新しい生活は、順風満帆だった。再就職した会社では、私の企画した新商品が正式に採用され、商品化に向けてチームが動き出していた。会議で自分の意見を述べ、同僚たちと議論を交わし、一つの目標に向かって突き進む毎日。そのすべてが、私にとって新鮮な喜びに満ちていた。仕事で成果を出すたびに、亮介によって削り取られていた自信が、確かな輪郭を取り戻していく。
「相沢さん、最近ますます綺麗になりましたね。恋でもしてるんですか?」
ランチの席で、女性の同僚にからかわれる。私は「仕事が恋人みたいなものよ」と笑って返したが、まんざらでもなかった。充実した日々は、自然と人の表情を明るくするらしい。シンプルなオフィスカジュアルに身を包み、軽く化粧をしただけの自分を鏡で見るたび、かつての生気のなかった主婦時代の顔が嘘のように思えた。
一方、亮介の人生は、坂道を転がり落ちるように凋落していた。
慰謝料の支払いで貯金の大部分を失い、一人では維持できないと判断したのか、あの思い出の詰まったマンションも売却したらしい。今は会社から少し離れた、家賃の安いワンルームに引っ越したと風の噂で聞いた。
さらに彼を追い詰めたのは、社内での評判の失墜だった。どこから漏れたのか、「橘課長、奥さんに高額な慰謝料を払って離婚されたらしい」「なんでも、ひどいモラハラが原因で、奥さん、愛想を尽かして出て行ったんだって」という噂が、社内に燎原の火のごとく広まっていったのだ。おそらく、調停の内容を知る彼の弁護士か、あるいはパニックになった義母あたりが誰かに漏らしたのだろう。
人当たりが良く、有能な人物として通っていた彼の仮面は、完全にはがれ落ちた。部下たちは彼を遠巻きにし、上司からは「家庭のことも管理できない男に、大きな仕事は任せられない」と、重要なプロジェクトから外された。これまで彼を慕っていた女性社員たちも、今では侮蔑の視線を向けるだけだ。会社は、彼にとって針のむしろと化した。
仕事でのストレスと、荒んだ私生活。その悪循環は彼の心身を蝕み、かつてのエリートの輝きは完全に失われた。やつれた顔、皺の寄ったスーツ、覇気のない瞳。それが、離婚から数ヶ月後の彼の姿だった。
そんなある日の夕方。私は新しいプロジェクトの打ち合わせを終え、晴れやかな気分で会社のビルを出た。秋の風が心地よく、街は美しい夕焼けに染まっている。一緒にビルを出た高橋くんと、明日のプレゼンの最終確認について話しながら歩いていると、ふと、視界の端に見覚えのある人影を捉えた。
街路樹の影に、一人の男がうなだれるように立っている。見間違えるはずもなかった。それは、変わり果てた姿の亮介だった。
「……亮介さん?」
思わず呟くと、彼は弾かれたように顔を上げた。虚ろだった瞳が、私を捉えた瞬間に、ぐにゃりと歪む。彼はよろよろと私の方へ歩み寄ってきた。そのみすぼらしい姿に、高橋くんが警戒して私の前にそっと立つ。
「相沢さん、知り合いですか?」
「ええ、まあ……。高橋くん、ごめんなさい。少しだけ、話してきてもいいかしら」
「でも……」
「大丈夫。すぐ終わらせるから。先に戻ってて」
心配そうな高橋くんにそう告げると、私は亮介の方へと向き直った。雑踏の喧騒から少し離れた、ビルの壁際。久しぶりに間近で見る彼は、私が知っている亮介とはまるで別人だった。
「梓……。会いたかった」
絞り出すような声だった。そこには、かつての尊大な態度は微塵もなかった。
「何の用ですか、橘さん。何か用があるなら、弁護士を通してくださいと言ったはずですが」
私は、努めて冷静に、他人行儀な口調で返した。私たちの間には、もう何もない。それを、彼に分からせる必要があった。
「そんな……他人行ないこと言うなよ。俺たち、夫婦だったじゃないか」
「元、夫婦です。過去形ですよ」
私の冷たい言葉に、亮介の顔が苦痛に歪んだ。彼は、何かを懇願するような目で私を見つめ、震える声で言った。
「悪かった……。俺が、全部悪かったんだ。今なら分かる。君がどれだけ俺にとって大切な存在だったか……。君がいないと、俺は……俺は、何もできないんだ」
その言葉に、私の心は少しも揺れなかった。むしろ、言いようのない空しさが込み上げてくる。何もできない? 今更それに気づいたというの? 私が何度も、何度も、言葉にならない心の叫びを上げていた時、あなたはそれをせせら笑っていたくせに。
「頼む、梓。もう一度、やり直してくれないか。今度こそ、君を大切にする。一生かけて償うから。だから、俺のところに戻ってきてくれ……」
亮介は、私の手に縋りつこうとした。私は、さっとその手を引く。彼の指先が、空を切った。周囲を通行人が、訝しげな目で私たちを見ている。プライドが高く、人目を何よりも気にする彼が、こんな往来で、元妻にみっともなく泣きついている。その光景は、あまりにも滑稽で、そして哀れだった。
一瞬、憐れみの感情が胸をよぎった。けれど、それはすぐに消え去った。彼の涙は、私への謝罪や愛情からくるものではない。すべてを失い、孤立し、自分の生活を立て直してくれる都合のいい存在として、再び私を求めているだけだ。その自己中心的な本質は、何も変わっていない。
私は、すっと背筋を伸ばし、彼の目を真っ直ぐに見つめた。仕事で自信を取り戻した、今の私の、強い目で。
「亮介さん」
私は静かに、しかしはっきりと、彼の名前を呼んだ。
「あなたは昔、私にこう言いましたよね。『家事もできないダメ女だ』って」
その言葉に、亮介はびくりと肩を震わせた。忘れるはずがない、彼が私に投げつけ続けた言葉だ。
「でも、本当に何もできなかったのは、一体どちらだったんでしょうね。料理も、掃除も、洗濯も、お金の管理も。当たり前の生活を維持することすら、一人では何もできなかったのは、あなたの方だったじゃないですか」
私の言葉は、静かだが鋭い刃のように、彼の心を抉った。彼は言葉を失い、ただ呆然と私を見つめている。
「あなたが私から奪った尊厳と、五年という時間は、もう二度と戻ってきません。私は今、自分の足で立って、自分の力で未来を切り拓いています。やりがいのある仕事と、尊敬できる仲間にも恵まれました。私の新しい人生に、あなたはもう、必要ないのです」
私は、彼に告げるべき最後の言葉を、はっきりと伝えた。それは、この長い復讐劇の、締めくくりの言葉だった。
言い終えると、私は彼に背を向けた。もう、振り返ることはしない。
「待ってくれ、梓! 行かないでくれ!」
背後から、彼の悲痛な叫び声が聞こえた。けれど、私の足は止まらない。私はただ、まっすぐに前を向いて歩き出した。雑踏の中に彼の声が溶けて消えていく。
角を曲がると、心配そうに待っていた高橋くんが駆け寄ってきた。
「相沢さん、大丈夫でしたか?」
「ええ、大丈夫。もう、完全に終わったわ」
私は、彼に向かって微笑んだ。それは、心の底からの、一点の曇りもない笑顔だった。涙が一粒だけ、頬を伝ったけれど、それはもう悲しみの涙ではなかった。過去の自分に別れを告げ、輝かしい未来へと踏み出す、決意の涙だった。
空を見上げると、一番星が瞬いていた。
亮介は、あの後もしばらく、私が消えた歩道の角で立ち尽くしていただろう。彼が失ったものの本当の価値と、その大きさ。それをこれから先、彼は一人で、孤独の中で、噛み締め続けるのだ。
それが、私の果たした、最も品格のある復讐だった。
そして、これから始まる私の人生は、誰にも邪魔されることのない、私自身だけの、価値ある物語なのだ。
「家事もできないダメ女」と罵った元夫へ。あなたの知らない私の価値と、あなたが失ったものの大きさを教えてあげます。 @jnkjnk
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