「家事もできないダメ女」と罵った元夫へ。あなたの知らない私の価値と、あなたが失ったものの大きさを教えてあげます。
@jnkjnk
第1話:決意の夜
キッチンの大理石風カウンターに、彩り豊かな食材が並んでいる。つややかな赤色のパプリカ、瑞々しい緑のアスパラガス、そして今日の主役である、きめ細かなサシが入った美しい牛肉のブロック。私、橘梓はエプロンの紐をきゅっと締め直し、これから始まる小さな祝宴の準備に取り掛かった。
夫である亮介の、課長昇進が決まったのだ。
「梓、昇進が決まった。今夜は家でゆっくり祝いたい」
昼過ぎに届いた亮介からの短いメッセージ。その簡潔な文面の中に、私は彼の誇らしさと高揚を感じ取っていた。エリート街道を突き進む彼にとって、この昇進は当然の結果であり、また新たなステップへの始まりなのだろう。
「おめでとう、亮介さん」
誰に言うでもなく、小さな声で呟きながら、私は牛肉に丁寧に塩胡椒を振りかける。結婚して五年。食品メーカーの商品開発部でがむしゃらに働いていた私が、彼の「家庭に入って俺を支えてほしい」という言葉を受け入れて専業主婦になってから、早くも五年が経つ。私の世界は、この二LDKのマンションの中に凝縮され、彼の成功を支えることだけが、私の存在価値になっていた。
「誰のおかげで生活できていると思ってるんだ」
「お前は本当に何もできないな。俺がいなかったらどうするんだ」
日々の生活の中で、亮介の言葉は少しずつ鋭利な刃物のように私の心を削っていった。かつては仕事にやりがいを感じ、同僚たちと笑い合っていた自分は、もう遠い昔の幻のようだ。それでも、彼を支えることが妻の務め。そう自分に言い聞かせ、完璧な家事と、彼の機嫌を損ねないための細心の注意を払いながら、私は今日まで耐えてきた。
今夜だけは、心からお祝いしよう。彼の喜ぶ顔が見たい。その一心で、私は彼の好物であるローストビーフをメインに、前菜からデザートまで、レストランのコースにも引けを取らないメニューを組み立てた。
フライパンで牛肉の表面に香ばしい焼き色をつけ、香味野菜と共にオーブンに入れる。甘く芳しい香りがキッチンに満ちていく。その間に、サーモンのカルパッチョを手早く仕上げ、カマンベールチーズと生ハムのサラダを盛り付ける。すべてが計算された、流れるような作業。結婚前、商品開発のために何百ものレシピを試作した経験が、今こんな形で活きているのは少し皮肉な気もした。
テーブルには、一番上等なテーブルクロスを敷き、磨き上げたカトラリーを並べる。そして、食器棚の奥から、一組の器を慎重に取り出した。淡い桜色がかった、手触りの優しい和食器。これは、私が嫁ぐ日に、数年前に亡くなった母が遺してくれた形見だった。
『梓の作るお料理は、人を幸せにする力があるから。いつか大切な人ができたら、この器で手料理を食べさせてあげなさい』
生前の母の優しい声が、耳の奥で蘇る。この器を使うのは、結婚記念日や誕生日といった、本当に特別な日だけ。亮介の昇進は、その特別な日に値するはずだった。
全ての準備が整い、リビングの時計が午後七時半を指した頃、玄関のドアが開く音がした。
「おかえりなさい、亮介さん。昇進、本当におめでとう」
「ああ、ただいま」
リビングに入ってきた亮介は、外面用の柔和な笑みを脱ぎ捨て、疲れを隠さない無表情でソファに深く沈み込んだ。ネクタイを乱暴に緩め、私に一瞥もくれない。いつものことだ。
「すぐに夕食の準備をするわね。シャンパン、冷えてるわよ」
「シャンパン? まあ、悪くない」
彼の機嫌を損ねないよう、慎重に言葉を選びながらキッチンへ向かう。ポン、と軽快な音を立ててシャンパンの栓が抜けた。黄金色の泡が立ち上るグラスをトレーに乗せて運ぶと、亮介はスマホを片手に面倒くさそうにそれを受け取った。
「乾杯しましょう」
「ああ」
グラスを軽く合わせる。カチン、という乾いた音だけが響いた。亮介は一口だけ飲むと、すぐにグラスをテーブルに置いた。私の心からの「おめでとう」は、彼の耳には届いていないようだった。
やがて、テーブルに全ての料理が並んだ。オーブンから取り出したローストビーフは完璧なミディアムレアに仕上がっている。ソースをかければ、艶やかな肉汁が溢れ出した。
「わあ……」
自分でも感心するほどの出来栄えに、思わず小さな声が漏れた。これなら、きっと亮介も喜んでくれる。そう信じたかった。
「いただきます」
亮介は無言でナイフとフォークを手に取った。一口、二口とローストビーフを口に運ぶ。私は、彼の反応を固唾を飲んで見守った。長い沈黙が、ダイニングの空気を重くする。美味しいのか、まずいのか。何か一言でも感想が欲しい。私の心臓が、ドクドクと嫌な音を立て始めた。
やがて、亮介はカトラリーをカチャンと乱暴に皿の上に置いた。そして、冷え冷えとした声で言った。
「……梓」
「は、はい」
「これが、俺の昇進祝いか?」
彼の声には、あからさまな侮蔑の色が滲んでいた。背筋が凍る。
「え……?」
「だから、これが、課長になった俺への祝いの席かと聞いているんだ」
「そうよ。あなたの好きなローストビーフを焼いて……」
「こんな安っぽい祝い方で、か?」
亮介は鼻で笑った。その言葉の意味が理解できず、私はただ瞬きをする。
「うちで飯食って、安物のシャンパン飲んで、終わり? 俺の同期は、今頃ミシュランの星付きレストランで祝ってもらってるっていうのに。お前は本当に、俺の給料に見合ったもてなし一つできないんだな」
血の気が引いていくのが分かった。安物なんかじゃない。シャンパンだって、デパートで一番評価の高いものを選んだ。お肉だって、一番良いものを奮発した。何より、私の時間と、労力と、そして彼を祝いたいという気持ちが、そこには込められていた。
「そんなこと……。心を込めて作ったのよ」
「心? ハッ、そんな目に見えないもので誤魔化すな。結局、お前は金のかからない手抜きで済ませただけだろう。専業主婦のお前にできることなんて、その程度か」
亮介は椅子から立ち上がった。そして、信じられない行動に出た。
彼が手を振り下ろすと同時に、ローストビーフが乗った皿がテーブルの端から払い落とされた。
ガシャンッ!!
甲高い破壊音が、静まり返った部屋に響き渡った。白い床に、無残に散らばる肉の塊と、野菜と、赤黒いソース。そして――粉々に砕け散った、淡い桜色の破片。
母の、形見の器だった。
「ああ……」
声にならない声が、喉から漏れた。私は床に散らばった無数の破片に釘付けになった。母の笑顔。優しい声。『大切な人に、この器で』。温かい思い出が、ガラスの破片のように鋭く尖って、心臓に突き刺さる。
「な、なんてことを……」
「たかが皿一枚だろう。また買えばいい。それとも、そんな金もないのか? 俺の稼いだ金で、いくらでも買えるだろうが」
亮介の言葉が、ひどく遠く聞こえた。違う。違う、そうじゃない。これはただの皿じゃない。お金で買えるものじゃない。私にとって、母そのものだったのに。私の最後の、大切な宝物だったのに。
いつもなら、私はここで泣きながら謝っていたはずだ。「ごめんなさい、あなたの気に入るようなお祝いができなくて」「ごめんなさい、すぐに片付けます」。そう言って、彼の足元に這いつくばって、床を拭いていたはずだ。
でも、今夜は違った。
膝が震え、涙が頬を伝っているのに、私の頭の中は氷のように冷え切っていた。床に散らばった、修復不可能な母の思い出の欠片。それはまるで、この五年間の結婚生活で粉々に砕かれてしまった、私の自尊心の残骸のようだった。
もう、謝れない。
もう、許せない。
ゆっくりと顔を上げると、亮介が苛立った顔で私を見下ろしていた。「いつまで突っ立ってるんだ。さっさと片付けろよ、汚い」と言い放つ。
私は、何も答えなかった。ただ無表情に彼を見つめ返した。その反応が意外だったのか、亮介は一瞬だけ眉をひそめた。だが、すぐに興味を失ったように「チッ」と舌打ちをすると、「気分が悪い。もう寝る」と言い捨ててバスルームへと向かっていった。
一人残されたダイニングで、私はしばらく動けずにいた。シャワーの音が遠くに聞こえる。やがて私は、おぼつかない足取りで立ち上がると、黙って床の掃除を始めた。肉片を拾い、ソースを拭き取り、そして、母の器の破片を、一つ、また一つと、震える手で丁寧に拾い集める。一番大きな破片を手に取った時、鋭い角が指に食い込み、ぷくりと血の玉が浮かんだ。赤い血が、淡い桜色の欠片を汚していく。
その痛みは、不思議と私の心を凪がせていった。
長年私を縛り付けていた悲しみと無力感の鎖が、プツリと音を立てて切れたのを感じた。代わりに湧き上がってきたのは、静かで、底なしの怒り。そして、冷徹で、揺るぎない一つの決意だった。
この人のために、私の人生のこれ以上の一秒たりとも無駄にはしない。
この人に踏みにじられた、私の価値を、私の人生を、必ず取り戻す。
後片付けを終え、亮介が寝室でいびきをかき始めたのを確認したのは、深夜一時を回った頃だった。私はリビングの隅にある自分の小さなデスクに向かい、静かにノートパソコンを立ち上げた。
デスクトップにある、パスワードでロックされたフォルダを開く。中には、几帳面に日付ごとに分類された音声ファイルが、びっしりと並んでいた。
『20XX年X月X日_罵倒』
『20XX年X月X日_深夜の説教』
『20XX年X月X日_友人との電話を盗み聞きして』
こっそりと起動させていたスマートフォンのボイスレコーダーアプリが録り溜めた、亮介の暴言の数々。いつか、何かの時のためにと、半ば無意識に集め始めた記録だった。
さらに、もう一つ、鍵付きのデジタル日記を開く。
――X月X日。私の作った夕食を「まずい」と流しに捨てられた。理由は「見た目が貧乏くさいから」。悲しくて、一晩泣いた。
――Y月Y日。私の父が病気だと伝えたら、「お前の親の心配までしてる暇はない」と言われた。心が凍りついた。
いつ、どこで、何を言われ、何をされ、どう感じたか。私の血と涙で綴られた、魂の記録。
私はそれら全てのデータを、引き出しの奥に隠していた外部ストレージに、一つ残らずコピーした。カチ、カチ、と静かなマウスのクリック音だけが響く。コピーの進行状況を示す青いバーが、ゆっくりと右へと伸びていく。それがまるで、私の新しい人生へのカウントダウンのように見えた。
全てのバックアップが完了した時、私はそっと立ち上がり、窓辺に立った。眼下には、眠りについた街の灯りが宝石のように広がっている。
「さようなら、亮介さん」
窓ガラスに映る自分の顔は、涙で濡れていた。でもそれは、もう悲しみの涙ではなかった。
「そして、さようなら。無価値だと信じ込まされていた、昨日の私」
これは、終わりじゃない。
ここから始まるのだ。
私の、本当の人生が。
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