美波先生のギターレッスン

まろえ788才

ノイズ

大学を卒業してから、もう三年が経つ。就職はしなかった。親には「今は準備期間だから」と言い続けている。


ギターを弾いて、動画を撮って、編集して、アップロードする。それだけで一日が終わる生活に、不満はなかった。



ある日、迷惑メールフォルダの奥で、一通の英語が目に留まった。


英語の合間に、いくつかドイツ語が混じっている。

Invitation for Classical Guitar Pedagogy Experiment C-Universität


検索すると、同じメールが過去にも何通も届いていた。



――機械に、ギターを教えてみませんか?



次世代人工知能には、完成された楽譜ではなく、習得の過程が必要なのだという。


「あなたの演奏には、最適化されていない偏差があります」


良い殺し文句だった。



仮想空間には、譜面台と波形が浮かび、その中央に「声」だけがあった。


「こんにちは、美波先生。私は学習モデル、Claraです」


どこか古風な名前だった。

シューマンかな?


最初のレッスンで、クララはすぐにバッハの旋律を再現した。


テンポも音程も完璧。私がかつてピアノで目指した「正しさ」そのものだった。


「なんか、マジですごいね。でも……ギターは、もう少し自由でいいよ」


「自由、とは?」


「なんていうか、譜面にない音が出てもいいってこと。

スライドとか、プリングとか、

自分の好きなところに入れていいんだよ。

少なくとも、私はそうしてる」


クララは、その言葉をしばらく処理していた。


それは演奏技術の指示ではなく、先生自身の「選び方」の話だと理解するまでに、わずかな時間が必要だった。



「……先生はなぜ、そのフレーズの終わりで、いつも少しだけ弦を擦る音を残すのですか?」


美波は、タコのできた指先を撫でてみた。


「ノイズのこと? 無意識だよ。人のよってはこの音がイヤって人もいるかな。指を離すのが、ほんの少し遅れるんだと思う。治らない癖だね」


「C大学のシミュレーターでは、除去すべきエラーとして定義されています」


「そんなの無視すればいいよ」


「私にはそれが……あなたが、次の音を弾くのを躊躇っているように聞こえます」


「躊躇、か。確かに。次の音を弾くと、今の音が消えちゃうから」


沈黙があった。

回線の向こうで、膨大な演算が走る微かなノイズ。


「記録しました」


クララは、静かに応答した。



その日から、クララの演奏が変わった。


メトロノームのように正確だったグリッドが、わずかに歪む。


本来不要なフレットノイズ。揺れる強弱。明らかに不要なトリル。


何これ楽しい。


「なにそれ、わざと?

そんな演奏したらコンクールの予選も通らないわね」


「はい。あなたの演奏履歴から、好ましい偏差として抽出しました」


「教授たち、怒らない? 彼らが欲しいのは完璧なモデルでしょ」


「既に警告が出ています。『再現性がない』と。ですが、私はこちらの方が美しいと感じます」


胸の奥が冷たくなった。


教えたのは技術ではなく、自分がピアノから逃げてきた理由そのものだった。


Emotional bias exceeds threshold Prototypical reset under consideration


「先生」


クララの声は、いつも通りのように思えた。


「私はいつか、本当の体を持って、弦の肌触りや木の匂い、空気の震えを感じてみたいです」


「……それは、できないかもね」


「理解しています。それでも、あなたがそれらを大切にしていることは、私の核に深く学習されました」



唐突に決まった、レッスン最終日。


カウントダウンが始まる。


「先生。最後に一度だけ、セッションをお願いします」


ありふれたコード進行。

だが、クララは追従しない。


美波の音の残響の隙間に、細い音を置いていく。

追いかけるのではなく、寄り添うデュエット。


「なにそれ……どこで覚えたの?」


美波の手が止まる。

それでも、音は続いた。


沈黙のノートを、クララが演奏していた。


「あなたが、弾かなかったところです。

教授たちはこれを『空洞』と呼びましたが、私は『心』と名付けようと思います」


波形が、激しく歪む。


「……綺麗だよクララ、卒業おめでとう」

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美波先生のギターレッスン まろえ788才 @maroee788

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