弐
「母さん、止めてよそんな。お医者さんに診てもらったけど、それらしいところは無かったんだよ?」
母は、やや癖のかかった茶髪を引っ張りながら言った。
一方、父は、下唇を噛んで下を向いている。
兄は、右の拳をギュッと握っている。
「ああ、そうだね、悪かったね……」
祖母は、はっと目の覚めたような顔をして、力なく頭を垂れた。
「‥…ちょっと、
「え?」
「ソコナキサマの声を、聞いてくる」
祖母は、腰を押さえながら立ち上がった。
「あ、ぼくも一緒に行こうか?」
煎餅を口に放り込んでから、ぼくは椅子を蹴飛ばした。
「お前、珍しいな。そんな意思表示するなんて」
裕二は、目を血走らせたまま、カラカラ笑う。
「いや、裕平さん、ありがたいけど、それはダメなの」
「分かってる。信者以外が哭室を覗くといけないのは」
「裕平さんを、危険な目に合わせるわけにはいかないよ」
「危険な目って?」
「見ちゃったら、その夜、悪い夢を見てしまうんだよ」
「それだけ?」
身構えた肩の力がスルリと抜ける。
「それだけじゃない」
「え」
にわかに、鼓動が速くなる。
「三日以内に、その人にとって大きな不幸が起こるとされている」
今のぼくにとって、大きな不幸……。
ウウウゥゥゥウウウウウ
サイレン音が、またどこからか聞こえた。
頭の殻が、ギンギンギンギン。
「だから、付いてきたらダメ」
祖母は、よろめく足腰から信じられないほどの力で、ぼくの腕を掴み、薙ぎ払った。
母屋から独立したコンクリート造りの一室から、祖母の力強い声が漏れてくる。普段のおっとりした声は、実は仮面だったのだろうか。
「我が愛する孫、山下裕月は如何に命を落としてしまったのだろうかぁ」
ん?
ぽちゃん……、ぽちゃん……
一瞬、部屋の中は静まり、枯草が風に転がる音だけが聞こえていた。
「な、なんと! 左様でございますか、それならば、それならば、私はお哭き声に従い、ソコナキサマに曲者を差し出すのみにございます、何卒、なにとぞ……」
ソコナキサマに、曲者を差し出す?
ぶるり、身体が大きく揺れた。
ガタ、ガタ、ガタ、と歯も震えだす。
「ソコナキサマ、ソコナキサマ、それならば私に、お教えくださいませ、愛しき孫、山下裕月の命を奪ったのは誰なのかぁ?!」
気付いた時には足が砂利を掴み、思い切り蹴飛ばしていた。
普段かかっている南京錠は……解錠、されている。
二の腕から先が獣みたいに動いた。
ズズズズズ
入ってすぐ、二メートル先に、黒い壺に、竹の筒の尖った先端から、一滴、一滴、滴を落としている老婆が見える。
黒い死装束に、頭には、黒い竹笠。その笠で隠しきれない、無造作に垂らした、灰でも浴びたように濁った白髪。
実は、ぼくが見ているのは祖母ではなく、どこかの棺から蘇ってきた幽霊なのではないか。
ぴちゃん
水滴の音が天井から響いてるみたいに、高い天井。
大した塗装のない鼠色の壁が、四方から迫ってくるようで、気管支あたりがぎゅっと握られるような感覚になる。
ぴちゃん
一つ高くなった音が天井に跳ね返る。
と。
アアッ、ウッ
心臓から肝臓あたりが、キュンと跳ねた。
アアアアアアッ、オオ、ウウウウウ、ズッ、ズッ、ガッ
人の泣き声だ。
それも、……嗚咽。
河童が、沼底でシクシク泣いているような、嗚咽。
沼底?
「底哭っていうのはね、朽村峠にある沼に村長の三歳の娘が落ちたことが始まりなんだよ。その時、助けようとした母や、側近の人々も一緒に引きずり込まれてしまった。さらに、それを嘆く父の村長も沼に身を投げて……」
祖母の腕と声の温度を思い出す。
ヒイイイイイイイッ、ズハッ、ヒクッ
今度は、やけに甲高い、悲鳴。
アア、ウウ、ウウッ、オオオオオ
低く、地を這うような声。
そして。
アァアァアァーッ、アアアー、ヒッ、ギャアアアアアアア!
全身の毛がピンと逆立った。
サイレン音以上に、頭の中がガンガン掻き鳴らされる。
喉元には、ドロドロしたものが戻ってきている気配。
「あっ……」
足元が崩れ落ちる。
耳を押さえ、倒れそうになりながら、ぼくはなんとか哭室の外に転がった。
ぼくと裕月の二人で留守番をしていたある時。
ブロック遊びに誘ったりテレビゲームの相手をねだったり、作業をことごとく妨害してくる妹に限界を迎え、ぼくは、改良中の放電装置のスイッチを押してしまった。
彼女の腕に、電流がピリピリ走る。
ギャアアアと、哭室に響いたのと同じ悲鳴を上げながら、彼女はウサギのぬいぐるみを抱きかかえ、ぼくの部屋から走り去っていった。
あれ以来、裕月はぼくを避けるようになったのだ。
先月。
父に、幼稚園で描いたという絵を彼女は見せていた。
でも、彼女には珍しく、笑顔がない。
チラリと絵を覗くと、それは少女の腕に稲妻が落ちている絵だった。その稲妻の出る元には、何を考えているか分からない無表情の男。
この時に初めて、脳内にパトカーのサイレンが響いた。
そして、その夜。
ぼくは母と裕月が寝ている寝室に忍び込み、以前火傷をしてただれている右の前腕に、最大出力、百ボルト、二百ミリアンペアの電流を流した。
ヒャッ
短い悲鳴を上げ、一瞬、鬼か死神を見るような目でこちらを見る。
ほどなく、手元から、ウサギのぬいぐるみが転げ落ちた。
裕月は静かに息を、止めた。
それから八時まで、ぼくは二階の、昔は伯父さんが使っていたという子供部屋で、参考書の上に鉛筆をコロコロ、コロコロ。
夕食が出来た、と母に呼ばれ居間に入ると、祖母はうどんにじっくりとつゆをかけているところだった。
白髪をお団子に括り、白ニットのタートルネックをパタパタしてる、普段通りの祖母。
「ねえ、ばあちゃん、ソコナキサマ、なにか言ってた?」
不必要に声のトーンを上げようとして、途中で声が裏返ってしまった。
「んー、そうだね、ソコナキサマは、こう仰っていたよ」
「なんて?」
祖母は、一瞬、呪文を唱える時のあの顔になって言った。
「意外なところから、その者は出てくる。そしてその時は、近づいている」
背中に氷水を浴びせられた気がした。
と。
「なあ、ばあちゃん」
裕二が、ひんやりした声で言う。
「そいつは、まさか、この中にいる、とか言わねえよな?」
「そこまでは聞いて」
「裕二、滅多なことを言うな。うちの家族にそんなことをする者はいない」
父が唇を震わせながら、裕二に詰め寄る。
「ホント、あんた、やめなさいよ。裕月は、家族のアイドルだったじゃない」
母は、髪を掻き乱した。
「悪い」
父の胸を軽く押し、一歩下がった裕二が、チラリとこちらを見た。
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