「母さん、止めてよそんな。お医者さんに診てもらったけど、それらしいところは無かったんだよ?」

 母は、やや癖のかかった茶髪を引っ張りながら言った。

 一方、父は、下唇を噛んで下を向いている。

 兄は、右の拳をギュッと握っている。

「ああ、そうだね、悪かったね……」

 祖母は、はっと目の覚めたような顔をして、力なく頭を垂れた。

「‥…ちょっと、哭室こくしつに行ってくるね」

「え?」

「ソコナキサマの声を、聞いてくる」

 祖母は、腰を押さえながら立ち上がった。


「あ、ぼくも一緒に行こうか?」


 煎餅を口に放り込んでから、ぼくは椅子を蹴飛ばした。

「お前、珍しいな。そんな意思表示するなんて」

 裕二は、目を血走らせたまま、カラカラ笑う。

「いや、裕平さん、ありがたいけど、それはダメなの」

「分かってる。信者以外が哭室を覗くといけないのは」

「裕平さんを、危険な目に合わせるわけにはいかないよ」

「危険な目って?」

「見ちゃったら、その夜、悪い夢を見てしまうんだよ」

「それだけ?」

 身構えた肩の力がスルリと抜ける。

「それだけじゃない」

「え」

 にわかに、鼓動が速くなる。

「三日以内に、その人にとって大きな不幸が起こるとされている」

 今のぼくにとって、大きな不幸……。


 ウウウゥゥゥウウウウウ


 サイレン音が、またどこからか聞こえた。

 頭の殻が、ギンギンギンギン。

「だから、付いてきたらダメ」

 祖母は、よろめく足腰から信じられないほどの力で、ぼくの腕を掴み、薙ぎ払った。




 母屋から独立したコンクリート造りの一室から、祖母の力強い声が漏れてくる。普段のおっとりした声は、実は仮面だったのだろうか。


「我が愛する孫、山下裕月は如何に命を落としてしまったのだろうかぁ」


 ん?


 ぽちゃん……、ぽちゃん……


 一瞬、部屋の中は静まり、枯草が風に転がる音だけが聞こえていた。


「な、なんと! 左様でございますか、それならば、それならば、私はお哭き声に従い、ソコナキサマに曲者を差し出すのみにございます、何卒、なにとぞ……」


 ソコナキサマに、曲者を差し出す?

 ぶるり、身体が大きく揺れた。

 ガタ、ガタ、ガタ、と歯も震えだす。

 

「ソコナキサマ、ソコナキサマ、それならば私に、お教えくださいませ、愛しき孫、山下裕月の命を奪ったのは誰なのかぁ?!」


 気付いた時には足が砂利を掴み、思い切り蹴飛ばしていた。

 普段かかっている南京錠は……解錠、されている。

 二の腕から先が獣みたいに動いた。


 ズズズズズ


 入ってすぐ、二メートル先に、黒い壺に、竹の筒の尖った先端から、一滴、一滴、滴を落としている老婆が見える。

 黒い死装束に、頭には、黒い竹笠。その笠で隠しきれない、無造作に垂らした、灰でも浴びたように濁った白髪。

 実は、ぼくが見ているのは祖母ではなく、どこかの棺から蘇ってきた幽霊なのではないか。


 ぴちゃん


 水滴の音が天井から響いてるみたいに、高い天井。

 大した塗装のない鼠色の壁が、四方から迫ってくるようで、気管支あたりがぎゅっと握られるような感覚になる。


 ぴちゃん


 一つ高くなった音が天井に跳ね返る。

 と。


 アアッ、ウッ


 心臓から肝臓あたりが、キュンと跳ねた。


 アアアアアアッ、オオ、ウウウウウ、ズッ、ズッ、ガッ


 人の泣き声だ。

 それも、……嗚咽。

 河童が、沼底でシクシク泣いているような、嗚咽。


 沼底?


「底哭っていうのはね、朽村峠にある沼に村長の三歳の娘が落ちたことが始まりなんだよ。その時、助けようとした母や、側近の人々も一緒に引きずり込まれてしまった。さらに、それを嘆く父の村長も沼に身を投げて……」


 祖母の腕と声の温度を思い出す。


 ヒイイイイイイイッ、ズハッ、ヒクッ


 今度は、やけに甲高い、悲鳴。


 アア、ウウ、ウウッ、オオオオオ


 低く、地を這うような声。


 そして。


 アァアァアァーッ、アアアー、ヒッ、ギャアアアアアアア!


 全身の毛がピンと逆立った。

 サイレン音以上に、頭の中がガンガン掻き鳴らされる。

 喉元には、ドロドロしたものが戻ってきている気配。

「あっ……」

 足元が崩れ落ちる。

 耳を押さえ、倒れそうになりながら、ぼくはなんとか哭室の外に転がった。




 ぼくと裕月の二人で留守番をしていたある時。

 ブロック遊びに誘ったりテレビゲームの相手をねだったり、作業をことごとく妨害してくる妹に限界を迎え、ぼくは、改良中の放電装置のスイッチを押してしまった。

 彼女の腕に、電流がピリピリ走る。

 ギャアアアと、哭室に響いたのと同じ悲鳴を上げながら、彼女はウサギのぬいぐるみを抱きかかえ、ぼくの部屋から走り去っていった。

 

 あれ以来、裕月はぼくを避けるようになったのだ。


 先月。

 父に、幼稚園で描いたという絵を彼女は見せていた。

 でも、彼女には珍しく、笑顔がない。

 チラリと絵を覗くと、それは少女の腕に稲妻が落ちている絵だった。その稲妻の出る元には、何を考えているか分からない無表情の男。

 この時に初めて、脳内にパトカーのサイレンが響いた。

 

 そして、その夜。

 ぼくは母と裕月が寝ている寝室に忍び込み、以前火傷をしてただれている右の前腕に、最大出力、百ボルト、二百ミリアンペアの電流を流した。


 ヒャッ


 短い悲鳴を上げ、一瞬、鬼か死神を見るような目でこちらを見る。

 ほどなく、手元から、ウサギのぬいぐるみが転げ落ちた。

 裕月は静かに息を、止めた。




 それから八時まで、ぼくは二階の、昔は伯父さんが使っていたという子供部屋で、参考書の上に鉛筆をコロコロ、コロコロ。

 夕食が出来た、と母に呼ばれ居間に入ると、祖母はうどんにじっくりとつゆをかけているところだった。

 白髪をお団子に括り、白ニットのタートルネックをパタパタしてる、普段通りの祖母。


「ねえ、ばあちゃん、ソコナキサマ、なにか言ってた?」

 不必要に声のトーンを上げようとして、途中で声が裏返ってしまった。

「んー、そうだね、ソコナキサマは、こう仰っていたよ」

「なんて?」

 祖母は、一瞬、呪文を唱える時のあの顔になって言った。


「意外なところから、その者は出てくる。そしてその時は、近づいている」


 背中に氷水を浴びせられた気がした。

 と。

「なあ、ばあちゃん」

 裕二が、ひんやりした声で言う。


「そいつは、まさか、この中にいる、とか言わねえよな?」


「そこまでは聞いて」

「裕二、滅多なことを言うな。うちの家族にそんなことをする者はいない」

 父が唇を震わせながら、裕二に詰め寄る。

「ホント、あんた、やめなさいよ。裕月は、家族のアイドルだったじゃない」

 母は、髪を掻き乱した。

「悪い」

 父の胸を軽く押し、一歩下がった裕二が、チラリとこちらを見た。

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