朽村峠にウサギのなき声
DITinoue(上楽竜文)
壱
22:13:22
「なあ、もうすぐ十時十四分だぜ」
「う、うん……」
ウキウキ八十パーセント、怯え二十パーセントととれる声色の兄、
裕二に叩き起こされたばかりの脳は、まだフワフワ浅瀬を歩いている。
「ホントに存在しない道なんて、出るのかな? 康ちゃん、一応ビデオ回しといて」
母は、小鳥のような声で、助手席のドアにぐったりもたれている父に言った。
22:13:37
「そんなもの、出るわけがないだろう」
少しくぐもった低い声で父は言い、アルコールのこもった大あくびを一つ。
頬を掻きながらも、黒縁の伊達メガネをかけ、スマホのカメラを車窓に向けた。
22:13:50
「お、あと十秒」
「え、ホント? はーち! なーな! 六!」
母は、ハンドルを離して手拍子でもしかねない勢いでカウントダウンをスタートさせる。
後方に走り去るオレンジの棒の速度が緩くなった。
「三! 二! 一!」
ぼくは、右手を目にぎゅっと押し当てた。
22:14:00
五人乗りセダンが、ごくりと息を呑む。
ぼくは指の間から、外の暗闇を伺ってみる。
「えっ……?」
ハイビームの照らす先に、一度も見たことのない道があった。
「おい……あるぞ、変な道……」
道は、山の縁を走るバイパスから、うっそうと佇む森の中へ分岐している。
でも、変だ。
分岐の境界は墨を落としたようにぼやけていて、その先もアスファルトの質感はなく、ブラックホールを想起させるような黒い霧が太い線になって続いているだけ。
異世界から漏れてきた煙みたいな、真っ黒い、ぼやけた道。
と。
オオォォォォォッ、ッ、アアッ、ウオオオオオオオッ
道の奥から、人の泣き声が聞こえる。
いや、それはもはや、人のものとも言えない。
冬の夜の澄んだ空気にぼわわんと響き渡る、声にもならぬ絶望の音。
今日の夕方に聞いたあのおぞましい声と、同じ。
「ごめん、許して……」
「あ、なんか言ったか?」
裕二の声で、今の言葉を自分が発したことに気付いた。
裏起毛の白のロンTが無いものと思うくらいに、身体の芯が冷たい。
あと、もう少し。もう少しだけでもこの不安を堪えれば、ここまで自分の首を絞めることにはなかったのに。
***
「あらぁ、おかえりなさい」
焦げ茶色の味のある木造住宅の前にセダンを停めると、グレーのニットを着た祖母が、顔をしわくちゃにしてスコップを置いた。
「ただいまぁ」
「ほら、早く中にお入り。ちょうど三時だし、お茶にしようじゃない」
家の中心になっている長い廊下を通り、居間に入る。
「うわあ、こんな煎餅どうするのよ」
机の上には、わさっとドーム状に盛られた煎餅が、香ばしい醤油の香りを漂わせていた。
「お義母さん、裕平、高校入試、奥沼農業になりました」
父が、グレーのデニムジャケットのファスナーを弄りながら言い、ちらりとこちらに目をやる。
まるで道端にこびりついたガムを見るような視線。
そんなド田舎のボロボロの高校しか行けないなんてな、この落第生が。とでも、言いたげだ。
「あら、そう。あそこ、人数は少ないけど、温かい学校って聞くからねえ」
たくさんある皺の一つに見えるくらい目を細めて、祖母はゆっくり頷く。
「でも、
「え?」
唐突に名前を呼ばれ、ぼくは薄汚れたスニーカーから視線を上げる。
「本当は、裕二さんと同じ、川路工業に行きたいんでしょう?」
黒目だけ動かし、ちらりと父の顔を伺う。
腹に毒蛇がとぐろを巻いてるみたいな渋い顔。
「……うん」
ぼくは首をちょっとだけ上下に揺らした。
「なら、もう少し、頑張れるだけ頑張りなさいね」
祖母は、そう言って煎餅を僕の手に握らせた。
もう、十二月の二十八日なんだけど。
心の海の深層に、溜息が染み込んでいく。
「本当に、康一郎さんの遺伝子か、兄弟そろって機械が好きなんだねえ」
「あ、そうそうお母さん。そのことなんだけどね?」
母は、最大限に口角を引き上げて、ターコイズのカバンから紙切れを出した。
「裕平、夏休みの自由研究で大賞とったの!」
わざとらしく声を張る母を見て、ぼくの心の海はひやりと冷却されていく。
もう、その話、やめようよ。
「へえ、すごいねぇ。放電装置?」
「雷の再現実験に使ったんだけど、この子、物好きだから、学校から返されてもずっと改良してるの」
「へええ。裕平さん、もっと喜びを出しゃいいのに」
「んなこと言っても、学校でマネキンって呼ばれてるくらいなんだぜ?」
裕二が、ぼくの頬を掴んで左右に引っ張った。
ピーンポーン
と、呼び鈴が居間に響く。
「はいはい」
祖母は、腰を曲げたまま、ヨタヨタと玄関に出ていく。
「ご近所さんかなあ?」
母が煎餅を噛み砕きながら言った。
「今日の夜、『
廊下の先から、やけに通るしゃがれ声が耳に刺さる。
ほどなく、祖母が居間に戻ってきた。
「今日の夜にね、哭入があるんですって」
「なに、それ」
「哭入っていうのはね、誰かが、自然的要因以外で亡くなってしまった時に行う特別な葬儀のことでね。ソコナキサマの声がとても大事になるから、言葉を発したり、音を出したらダメなのよ」
また宗教の話か。
ぼくは、居間の壁に掛けてある、「
『一、ソコナキサマの声を毎日聞き、毎日それに従って生きること』
「あら、そういえば」
と、祖母が膝を打った。
「今日、
祖母以外の四人の顔面が、石化した。
物忘れ、ここで来るか。
「……ばあちゃん、また忘れたのか? 裕月は、ちょうど一カ月前、死んじまった」
裕二が、からくり人形みたいな歪な笑みを浮かべ、歪な日本語で言った。
「そうだったのかい?! どうしたの、病気でもかかっちゃったの?」
「いや……、その日の夜までは元気そのものでさ。カレーおかわりしたくらいだった。でも……」
普段カラッとした裕二の声が、湿り気を帯びてきた。
目を赤くしつつ、鼻をすすり、濡れ雑巾を絞るように、言葉を継ぐ。
「次の日の朝、起きてみたらさ。裕月は、怯えたような顔で目を閉じて、起きなかった」
部屋の空気が、ぼくたちを押し潰そうとしてくる。
「病院行ったけど、やっぱダメで。急性心筋梗塞だってさ。大した病気もしたことなかったのに。……よお!」
裕二は、金切り声を出して、机にダン、と拳を振り下ろした。
「まだ、三歳だってのに、なあ……」
「裕二さん」
「なんだよ」
「こんなこと聞くのもあれだけどね」
また、前みたいに、裕月がいかにいい子で、農作業を手伝ってくれただの、誕生日に絵を描いてくれただの語りだすのだろうか。
「昨日まで元気だったってことは、なにか、事件性はないのかい?」
鉛のように重い空気が、引き裂かれる。
祖母の目が、鋭い。
「裕月ちゃんは、本当に、病気で死んじゃったって、言いきれるのかい?」
呼吸が一気に激しくなる。
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