第6話

 その日は、朝からしとしとと冷たい雨が降っていた。王都の石畳は濡れて黒く光り、普段は賑やかな市場も、今日ばかりは人通りがまばらだ。


 俺は、傘を差して、いつもの路地裏を歩いていた。雨の日は嫌いじゃない。世界から雑音が消え、雨音だけの静かな時間が流れるからだ。ただ、心配なのは彼女のことだ。


(……ベルさん、今日は来てないかもしれないな)


 あんなに仕事熱心な人だ。雨の日くらい休んでいればいいのだが、彼女のことだから「雨天決行の現場視察」とか言い出して、無理をしている気がする。


 俺は水筒の重みを確かめ、足早に公園へと向かった。


 公園の最奥。雨に煙る景色の中で、その人影は佇んでいた。大きな樫の木の下。


 葉が雨除けになっているとはいえ、吹き込む風は冷たいはずだ。ベルは、ベンチに座ることなく、幹に背を預けて立ち尽くしていた。


 フードを目深に被り、じっと足元を見つめている。その姿は、雨に打たれた捨て猫のように小さく、心細げに見えた。


「……ベルさん」


 俺が声をかけると、彼女はビクリと肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げた。眼鏡が水滴で曇っている。


「……カズヤ、か」


「やっぱり、来てたんですね。こんな雨の中、風邪を引きますよ」


「……約束、だからな。お主は来る気がした」


 彼女は淡々と言ったが、その声は少し震えていた。俺は何も言わず、持っていた傘を彼女の上に差し出した。傘に雨粒が当たってポツポツと聞こえる。


 ベルは不思議そうに天を見上げ、そっと手を伸ばして傘に触れた。俺は一歩近づき、彼女を傘の中へと招き入れる。


 必然的に肩と肩が触れ合う距離になる。


「……狭くないですか?」


「……いや。悪くない」


 ベルは小さく呟くと、俺の方へさらに身体を寄せてきた。


 彼女のローブから、雨の匂いと、甘い香りが漂ってくる。傘を叩く雨音が、二人だけの空間を世界から切り離していくようだった。


「……寒くないですか?」


「少し、冷えるな」


「じゃあ、温かいものを飲みましょう」


 俺は肩にかけた鞄から、魔法瓶構造の水筒を取り出した。カップに注ぐと、湯気と共に甘く濃厚な香りが立ち上る。


「……黄色いな。これは?」


「『コーンポタージュ』です。トウモロコシを裏ごしして、牛乳と生クリームで煮込みました」


「トウモロコシ……。家畜の飼料か?」


「俺の故郷ではご馳走ですよ。ほら、温かいうちに」


 ベルはカップを両手で包み込むように受け取った。


 その指先は氷のように冷たくなっていたが、カップの熱で徐々に赤みが差していく。彼女はふーふーと息を吹きかけ、一口啜った。


「…………」


 ベルの瞳が、ゆっくりと見開かれる。強張っていた表情が、雪解けのように緩んでいく。


「……甘い。そして、温かい」


「でしょう?」


「まるで、陽だまりを飲んでいるようだ。冷えた内臓に、熱が染み渡る」


 彼女は夢中でスープを飲み干した。口の端に黄色いスープがついている。俺はハンカチを取り出し、自然な動作でそれを拭ってやった。


「あ、また付いてますよ」


「……む。すまぬ」


「いいえ。……で、今日はまた一段とお疲れですね。何かトラブルですか?」


 俺が尋ねると、ベルは空になったカップを名残惜しそうに見つめながら、深いため息をついた。


「……ネズミどもだ」


「ネズミ? また害虫駆除ですか?」


「似たようなものだ。北の要塞を落としたのは良いが、生き残った連中が地下に逃げ込んでな」


 ベルはつまらなそうに足元のぬかるみを靴先で小突いた。


「地面に深い溝を掘って、そこに立て籠もっているのだ。こちらが魔法を撃ち込んでも、土の中に隠れられて効果が薄い。まるでモグラ叩きだ」


「なるほど……」


「力攻めにして崩落させれば良いのだが、そうすると埋まってしまって後処理が面倒でな。……どうやって引きずり出したものか」


 ベルは俺の腕に頭をもたせかけ、ぼんやりと雨空を見上げた。その横顔は、雨の憂鬱さと仕事の疲れでアンニュイな色気を帯びている。


 俺は傘の柄を握り直しながら、足元にできる水溜まりを指差した。


「ベルさん。水は高いところから低いところへ流れる……知ってますよね?」


「愚問だな。理であろう?」


「なら、答えは簡単ですよ」


 俺は傘を少し傾け、ビニールを伝って落ちる雨水を、地面の窪みへと誘導した。水は瞬く間に窪みを満たし、溢れ出していく。


「穴の中にいるなら、放っておけばいいんです。今日はこんなに雨が降ってるんですから」


「……放っておく?」


「ええ。雨水は勝手に低いところ――つまり穴の中へ流れ込みます。自分たちで掘った穴が水溜まりになれば、嫌でも出てきますよ」


 地下に隠れた時の天敵は雨だ。排水設備のない穴の中なんて、雨が降ればただの泥沼プールになる。


「わざわざ攻撃しなくても、雨の日はこうやって、温かいスープでも飲みながら待っていればいいんです。水攻め、ってやつですね」


 俺が言うと、ベルはハッとして俺を見上げた。その瞳の中で、雨音が別の意味を持って響き始める。


「……天候を利用する、か」


「自然には勝てませんからね」


「……クク。そうか。モグラどもを、泥水で溺れさせるか」


 ベルの口元に、妖艶な笑みが浮かんだ。彼女は俺の腕をギュッと抱きしめ、スープの匂いが残る唇を俺の耳元に寄せた。


「カズヤ。お主は本当に……性格が悪いな。これは褒め言葉だ」


「えっ、そうですか? 平和的な解決策だと思いますけど」


「うむ。戦わずして勝つ。実に魔王らしい発想だ」


 ベルは満足げに頷くと、俺の手から水筒を受け取り、もう一杯スープをねだった。


「注げ。この『黄金のスープ』を飲み干すまで、雨宿りといくか」


「はいはい。風邪引かないでくださいよ」


「平気だ。……お主が隣にいれば、寒くなどない」


 彼女はそう言うと、相合傘の下、俺の体温を貪るように寄り添い続けた。雨音だけが響く静かな公園。俺たちは、ただの恋人同士のように、肩を寄せ合って雨が上がるのを待った。


 ◆


「み、水がっ! 水が溢れてくるぞおおおっ!?」


「排水が追いつかない! 塹壕が水没する!」


「これじゃ寝ることもできねぇ! 体が冷えて動かねぇよぉぉぉ!」


 北の戦線。最後の抵抗を試みていた王国軍の塹壕陣地は、巨大な泥のプールと化していた。


 降り続く雨に加え、魔王軍が周辺の川を氾濫させたことで、行き場を失った水が全て塹壕へと流れ込んだのだ。


 武器は泥にまみれて錆びつき、兵士たちは寒さと疲労で震え上がっている。戦うどころではなかった。


 彼らは溺れないために、自ら塹壕を這い出し、高台で待ち構えていた魔王軍に次々と投降していった。


 その様子を、丘の上の天幕から見下ろす影があった。魔王ベルである。彼女は温かいコーンポタージュを優雅に啜りながら、眼下の泥人形たちを冷ややかに見つめていた。


「……ふん。カズヤの言う通りだ。雨の日は、家でスープでも飲んでいるに限る」


 隣に控えていた側近のオーク将軍が、ガチガチと震えながら涙を流す。


「お、恐ろしい……。剣の一振りも使わず、天候すらも操って敵を溺れさせるとは……。あの『姿なき軍師』殿は、天災そのものを支配下に置いているのですか!?」


「天災ではない」


 ベルは空になったカップを置き、うっとりとため息をついた。


「これは『相合傘』だ。我らが濡れぬよう、敵に全ての雨を押し付けただけの愛の共同作業よ」


「ヒィッ……! なんという理不尽な愛……!」


 オーク将軍の脳裏に、カズヤという名の架空の巨人が、巨大な傘で魔王様を守りながら、その傘から滴り落ちる滝のような雨水で人間たちを洗い流している神話的な光景が浮かび上がった。

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異世界で鳩の餌付けをしていたはずなのに気づいたら美少女魔王様を餌付けしていた 剃り残し@コミカライズ開始 @nuttai

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