第4話

 週が明けても、王都の空気は重苦しいままだった。北の要塞がマグマによって溶解したという前代未聞のニュースは、人々の心に深い影を落としていた。


 なんでも、『姿なき軍師』による地形操作魔法だとか、魔王が禁断の火山召喚を行っただとか、とんでもない噂が飛び交っている。


「号外ーっ! 北壁要塞、跡形もなし! 生存者からの証言、『地獄の釜が開いたようだった』ーっ!」


 俺は八百屋で高騰した野菜を見つめながら、小さく溜息をついた。


 地獄の釜、か。自然災害というのは恐ろしいものだ。俺が先週提案した「熱湯消毒」も、まさかそんな大規模な火山活動とタイミングが被るとは思わなかった。


 ベルさんも無事だろうか。現場監督みたいな立場だと言っていたし、災害復旧や後片付けでまた激務に追われているに違いない。


(……差し入れ、少し多めに持っていくか)


 俺は手に持ったバスケットの重みを確かめ、いつもの公園へと向かった。


 公園の最奥。ベルは、今日もベンチに座っていた。


 だが、その雰囲気は「疲労」というよりは、「不機嫌」そのものだった。


 腕組みをして、足を組み、頬をぷくっと膨らませて、あからさまに拗ねている。その姿は、国を統治する役人というより、お気に入りの玩具を取り上げられた少女のようだ。


「……ベルさん。お疲れ様です」


 俺が声をかけると、彼女はギロリとこちらを睨んだふりをしたが、その瞳はすぐに甘えるような色を帯びた。


「……遅いぞー、カズヤ。待ちくたびれた」


「すみません。なんだかプリプリしてますね。また上司と揉めました?」


「いや、上ではない……下だ」


 ベルは大きく息を吐き出し、コテンと俺の肩に頭を預けてきた。


「いっ……」


「余は疲れた。今日は肩を貸してくれ」


「はっ……はい!」


 彼女の銀髪から、良い香りが漂ってくる。俺は自然に受け入れながら、彼女の愚痴を聞く体勢に入った。


「現場の連中がな……特に、前線で力仕事をしている『緑の連中』に困っている」


「緑の連中……ああ、作業着の色ですか?」


「まあ、そんなものだ。あやつらは腕力だけは凄まじいのだが、どうにも知能が足りん。力任せに暴れるだけで、細かい指示を聞こうともせぬ」


 なるほど。どこの世界でも、現場の職人気質な連中をまとめるのは大変らしい。特に、この異世界の土木工事(と俺は思っている)は、荒くれ者が集まりやすいのだろう。


「『壁を壊せ』と言えば、必要以上に粉砕して破片を撒き散らす。『待機しろ』と言えば、手持ち無沙汰で喧嘩を始める……。まったく、猛獣使いの気分だ」


「あはは。元気があっていいじゃないですか」


「笑い事ではない。おかげで余の眉間の皺が深くなるばかりだ。……ほら、見てみろ」


 ベルは顔を上げ、俺に顔を近づけてきた。確かに、綺麗な額にうっすらと皺が寄っている。


「本当だ。せっかくの美人が台無しですね」


「……む。誰のせいだと思っておる」


「俺のせいじゃないでしょうけど……まあ、責任取って治しますよ」


 俺はバスケットの蓋を開けた。ふわりと、甘い砂糖と揚げ油の香ばしい匂いが漂う。


「……なんだ、これは」


「『ねじりドーナツ』です。パン生地をねじって揚げて、砂糖をたっぷりまぶしました」


 バスケットの中には、黄金色に輝くねじりドーナツが山盛りにされている。見た目は武骨だが、カロリーと糖分の塊だ。


「さあ、口を開けて」


「……え?」


「手が汚れるでしょう? 食べさせてあげますから」


 俺がドーナツを一本つまみ上げると、ベルは驚いたように目を丸くし、それから顔を真っ赤にした。


 だが、拒否はしない。彼女はおずおずと、小鳥の雛のように小さく口を開けた。


「……あ、あーん」


「はい、どうぞ」


 俺はドーナツを彼女の口元へ運んだ。


「……んっ!」


 ベルの身体がビクンと跳ねた。瞳がとろんと蕩け、咀嚼するたびに幸福そうな吐息が漏れる。


「甘い。凄く甘いぞ、カズヤ」


「でしょう? 疲れた時には、これくらいガツンとくる甘さが必要です」


「うむ……噛むほどに油の旨味が染み出してくる……」


 彼女は俺の手からドーナツをハムハムと食べ進める。その無防備な仕草が可愛くて、俺はつい微笑んでしまった。


 食べ終わると、案の定、彼女の口の周りには白い砂糖がいっぱいついていた。


「……ふぅ。美味であった」


「ベルさん、顔中お砂糖だらけですよ」


「む? 取ってくれ」


 彼女は当然のように顔を突き出してきた。甘えん坊モード全開だ。俺は苦笑しながら、親指で彼女の唇についた砂糖を優しく拭った。


「はい、取れました」


「……む。反対側もだ」


「はいはい」


 反対側の頬についた砂糖も拭う。俺の指が触れるたび、ベルは気持ちよさそうに目を細めた。まるで喉を鳴らす猫だ。


「……カズヤの手は、温かいな」


「ドーナツの熱が移っただけですよ」


「違う。お主の熱だ」


 ベルは俺の手首をぎゅっと掴み、自分の頬に俺の手のひらを押し付けた。ひんやりとした彼女の肌と、俺の手の温度が混ざり合う。紫色の瞳が、潤んだ光を湛えて俺を見上げていた。


「……このまま、余を甘やかしてダメにしてくれぬか? もう仕事など放り出して」


「それはダメです。部下の緑の人たちが待ってるんでしょう? 国が滅びますよ……」


「……うぅ。現実に戻すな」


 ベルは不満げに唸ったが、その表情からは先ほどまでの険しい皺は消えていた。


「現場の人たちにも、これを差し入れしてあげてください。『飴と鞭』ってやつです。たまにはご褒美をあげれば、きっと言うことを聞くようになりますよ」


「なるほど。餌付け……いや、報酬による掌握か」


 ベルは名残惜しそうに俺の手を離すと、バスケットに視線を落とした。


「言葉で分からぬ獣には、腹を満たしてやるのが一番か。カズヤ、このドーナツ、全部持っていって良いのか?」


「ええ、ベルさんのために沢山作ってきたんですから」


「……お主は、本当に甘いな。このドーナツ以上に」


 彼女はバスケットを大事そうに抱え、立ち上がった。そして、急に俺の方へ振り返る。


 チュッと、俺の頬に柔らかい感触が走った。一瞬の出来事だった。


「……お礼だ。勘違いするなよ」


 ベルは顔を真っ赤にして、ローブを翻して走り去っていった。その背中は、逃げ出すようでもあり、スキップしているようでもあった。


 俺は呆然と頬に手を当てた。そこには、微かに砂糖のザラつきが残っていた。


「……勘違いって、何をだよ」


 俺は一人、照れ隠しに鳩に残りのパン屑をやりながら呟いた。まあ、あんなに喜んでくれたなら良かった。


 甘いものは世界を救う。俺は本気でそう信じている。


 ◆


「うおおおおおおっ!!甘いっ!甘くて美味いぞおおおおっ!!」「これが……これが魔王様からの直々の褒美……っ!!」「なんという慈悲!なんという高カロリー!!」


 最前線の野営地。そこには、筋骨隆々の巨体を持つオークたちが、涙と鼻水を流しながらドーナツを貪り食うという、異様な光景が広がっていた。


 普段は粗末な生肉や硬いパンしか与えられていない彼らにとって、精製された砂糖と良質な油で揚げられたドーナツは、脳髄を直撃する未知の快楽だった。


 オーク将軍が、食べかけのドーナツを掲げて絶叫する。


「聞けぇ野郎どもッ! 魔王様は、我らの働きを見ていてくださった! しかも『あー、ん』と言いながら自らの手でバスケットを渡してくださったのだぞ!」


「「「ウオオオオオオオッ!!魔王様バンザイ!!一生ついていきます!!」」」


「我らの血肉を魔王様に捧げよ! このカロリーを全て破壊の力に変えるのだ!」


 砂糖による急激な血糖値の上昇と、魔王への狂信的な忠誠心が化学反応を起こし、オークたちの瞳から理性が消し飛んだ。残ったのは、純粋な闘争本能と、主への絶対的な服従のみ。


 ベルは、その狂乱の様子を丘の上から見下ろしていた。彼女は頬に手を当て、うっとりとした表情を浮かべている。


「……カズヤの言う通りだ。甘やかすことも、時には必要なのだな」


 ベル自身も、先ほどの公園での甘い時間を反芻し、ドーピングが決まったかのように魔力がみなぎっていた。


「行け、我が愛しき下僕どもよ! その暴力を存分に振るうがいい!!」


 その日。王都防衛の要であった『第二騎士団』は、痛みを感じないかのように突撃してくる緑色の巨人たちによって、瞬く間に蹂躙された。


 騎士たちが最後に見たのは、口の周りを白く汚し、恍惚の表情で斧を振り下ろすオークたちの姿だったという。


 魔王軍の『姿なき軍師』カズヤ。彼の考案した『飴と鞭作戦』は、王国軍に「オークには決して砂糖を与えてはならない」という謎の教訓を残すことになったのである。

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