第3話

 週末の公園は、先週までとは打って変わって穏やかな空気に包まれていた。北の戦線で王国軍が大敗を喫した。


 だが、魔王軍の追撃が一時停止したことで前線が膠着状態に陥り、王都には嵐の前の静けさのような平和が訪れていた。


「号外はーいらんかねー。聖騎士団、毒霧により壊滅!魔王軍の『姿なき軍師』の正体とは!?」


 少年たちの物騒な売り文句を聞き流しながら、俺はいつもの路地裏を歩いていた。最近、ちまたで噂になっている『姿なき軍師』。


 なんでも、冷徹無比な策で聖騎士団を森ごと毒殺したとか。怖い怖い。関わりたくないものだ。


(……それより問題は、揚げ油の値段だよなぁ)


 俺の悩みは、もっと生活に密着していた。北の交易路が断たれたせいで、植物油の価格が高騰しているのだ。


 だが、今日はどうしても作りたいものがあった。俺の公園友達である、謎の女性役人ベルさんが、コーヒーを飲んで劇的に回復したのを見て、俺は思ったのだ。


 彼女に必要なのは、糖分による癒やしだけではない。鬱屈とした気分を吹き飛ばす「刺激」と、熱々の「スタミナ」だと。


 公園の最奥。いつものベンチ。ベルは今日もそこにいた。


 だが、その様子は先週のような「死に体」ではなかった。


 彼女はベンチに座り、膝の上で両手をきゅっと握りしめて、眉間に深い皺を寄せていた。口をへの字に曲げ、頬を少し膨らませている。あ、拗ねてる。不機嫌な猫みたいだ。


「……ベルさん。こんにちは」


 俺が声をかけると、彼女はハッとして顔を上げた。丸眼鏡の奥の瞳が、俺を捉えて少しだけ潤む。


「……遅いぞ、カズヤ」


「すみません。揚げ加減にこだわってたら時間がかかって」


「……待っていた。ずっとだ」


 彼女はそう言うと、俺が座るスペースを空けるように、ちょこんとベンチの端へ詰め寄った。俺が隣に座ると、彼女の肩が触れそうなほど近くにあることに気づく。


 先週までは人一人分の距離があったのに、今日は随分と距離が近い。彼女から漂う、ほのかな香水のような甘い匂いに、俺は少しドキッとする。


「何かあったんですか?そんなに眉間に皺を寄せて」


「……ふん。北の『巣』の話だ」


 ベルは俺の方へ身体を傾け、愚痴をこぼし始めた。


「森の連中は片付いたのだがな。奴らの本拠地……『巨大な蟻塚』が厄介で、どうしても落ちぬのだ」


「蟻塚、ですか」


 なるほど、森を追われたシロアリたちが、親玉のいる巣に逃げ込んだわけか。王城の衛生局も大変だ。自然相手だと、根絶するのは骨が折れる。


「あの塚が、やたらと硬い。石で固められている上、奇妙なバリアで覆われていて、こちらの攻撃を弾き返す」


「へえ、最近のシロアリの巣ってのは頑丈なんですね」


「しかも、少し崩しても、中から白いのがうじゃうじゃ出てきて、すぐに壁を修復してしまうのだ。……ああっ、もう!思い出しただけで腹が立つ!」


 ベルは「うーっ」と唸りながら、両手で自分の頭をわしゃわしゃとかき回した。整っていた銀色の髪が少し乱れる。普段のクールな彼女からは想像できない、無防備な姿だ。


「まあまあ、落ち着いて。イライラすると美人が台無しですよ」


「……む。お主、サラリと調子の良いことを言うな」


 唇を尖らせながらベルは俺からパン屑を受け取って鳩に餌をあげ始めた。


「事実ですから。……ほら、今日は熱々のを持ってきましたから」


 俺は紙袋を開け、中からキツネ色に揚がった楕円形のパンを取り出した。表面にはパン粉がまぶされ、まだ熱を帯びている。スパイシーな香りが立ち上ると、ベルの鼻がピクピクと動いた。


「……なんだ、これは。揚げ菓子か? 良い匂いがするぞ」


「『カレーパン』です。中は熱々なので、気をつけてくださいね」


 俺が差し出すと、ベルは両手でそれを受け取った。熱さに少し驚いたように指先を動かしながら、フーフーと息を吹きかける。その唇が尖っていて、小動物みたいで愛らしい。


「……いただくぞ」


 ベルは小さな口を開け、ガブリとパンにかぶりついた。サクッ、という軽快な音。次の瞬間、彼女の目が丸くなる。


「んぐっ……!? あ、あちゅっ……!?」


「あ、言ったのに」


「はふ、はふっ! んぐ、むぐ……」


 中のカレーフィリングが予想以上に熱かったらしい。彼女は口元を手で仰ぎながら、必死にハフハフとしている。涙目で俺を見てくる姿が、なんとも言えず可愛い。


「辛っ……! でも、美味い……!」


「スパイスたっぷりですからね」


「ん……はふ。身体が、熱くなる……」


 ベルは夢中で食べ進めた。サクサクの生地と、とろとろのカレー。その刺激が、彼女のストレスを溶かしていくようだ。ふと見ると、彼女の唇の端に、カレーソースがちょこんと付いていた。


「あ、ベルさん。付いてますよ」


「ん?どこだ?」


「ここ」


 俺は無意識に手を伸ばし、親指の腹で彼女の唇の端をそっと拭った。柔らかい感触。ベルの動きが、ピタリと止まる。


 彼女の紫色の瞳が、至近距離で俺を見つめて固まっている。俺の指が触れた場所から、カァァッ……と音が聞こえるような勢いで、彼女の白い頬が赤く染まっていく。


「あ、すみません。つい、妹にするみたいに」


「……い、いや……構わん……」


 ベルは俯き、口元を手で隠した。ローブのフードの下から見える耳まで真っ赤になっている。


「構わんが……余に対して不敬であるぞ。いきなり触れるなど」


 確かに。身分や立場なんて関係なく、いきなり触れるのはマズかったか。


「ごめんなさい。嫌でした?」


「いっ、嫌ではないぞ! ……ただ、心臓に悪いのだ……」


 彼女は蚊の鳴くような声でボソボソと言い訳をしている。


 なんだろう、この空気。


 まるで熟年夫婦か、付き合いたてのカップルみたいな甘酸っぱさだ。鳩まで空気を読んで遠巻きに俺達を見ている気がする。


 ベルは深呼吸をして気持ちを落ち着かせると、残りのカレーパンを大事そうに完食した。そして、まだほんのり赤い顔で俺を見る。


「……ふぅ。美味であった。カズヤ、お主の料理はいつも魔法のようだな」


「お口に合って良かったです。で、例のシロアリ退治ですけど」


「う、うむ。……そうであった」


 ベルは咳払いを一つして、真面目な顔に戻った。


「外側が硬くて、中をすぐ修復されるんでしたよね?」


「そうだ。外壁が厄介でな」


「なら、さっきのカレーパンと同じですよ」


「……パンと?」


 彼女は不思議そうに首をかしげる。


「外から叩くんじゃなくて、中から熱くすればいいんです」


「中から……熱く?」


「ええ。巣穴の入り口から、沸騰したお湯……いや、もっと熱いものをドロドロ流し込むんです。そうすれば、中の空気が熱で膨張するし、深いところにいる奴らも逃げ場がなくなって茹で上がります」


 俺が身振り手振りで説明すると、ベルはハッとして自分の腹部に手を当てた。


「……なるほど。外殻を無視して、通気口から灼熱を流動体として注入する……。まさに、このパンの中身のように」


「まあ、イメージはそんな感じです。『熱湯消毒』ってやつですね」


「熱湯消毒……中からトロトロに溶かす、か」


 ベルの瞳から、先ほどの甘い羞恥心が消え、代わりに別の「熱」が宿り始めた。それは、恋の熱よりも遥かに危険で、凶悪な熱量に感じられた。


「……理解したぞ、カズヤ。お主の献策、確かに受け取った」


「大したことじゃないですけど……まあ、応援してますよ」


 ベルは立ち上がると、俺に背を向けてローブを翻した。その背中は、どこかウキウキと弾んでいるように見えた。


「礼を言うぞ、我が愛しき参謀よ。……今夜は『熱い夜』になりそうだ」


「えっ、夜勤ですか? 無理しないでくださいね」


 彼女は振り返らずに手を振り、またしても瞬きする間に姿を消した。


 俺は指先に残ったパン粉を払いながら、鳩たちに苦笑いする。なんか、凄い張り切りようだったな。口元を拭いただけであんなに赤くなるなんて、やっぱり彼女、仕事ばかりで恋愛免疫がないんだろうか。純粋な人だ。


 ◆


「ひ、ひいいいっ!熱い!熱いぃぃぃっ!!」


「城壁が溶ける!? バリアが効かない!物理攻撃じゃないぞ、これは地形変動だ!」


「退却! 退却ーっ!……ああっ、出口が塞がれた!?」


 北の要塞。かつて鉄壁を誇ったその場所は、今や阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。


 空からは灼熱のマグマが滝のように降り注ぎ、要塞の通気口や窓から内部へと侵入。


 内部に立てこもっていた聖騎士や神官兵たちは、文字通り熱湯消毒されるシロアリのように逃げ惑っていた。


 その光景を、上空の飛竜の背から見下ろす影があった。魔王ヴェルザリアである。


 彼女はまだ唇に残るカズヤの指の感触を思い出しながら、恍惚とした表情で眼下の地獄を見下ろしていた。


「……ふん。カズヤの言う通りだ。中から焼けば、脆いものよ」


 隣の飛竜に乗ったオーク将軍が、ガチガチと牙を鳴らして震えている。


「お、恐ろしい……要塞をマグマで満たして溶かすなど……『姿なき軍師』殿は、どれほど残虐な発想をお持ちなのか」


「残虐ではない」


 ベルは自身の唇に指を当て、うっとりと呟いた。


「これは『愛』だ。奴は教えてくれたのだ。硬い殻を破るには、熱い想いを強引に流し込めばいい、とな」


「ヒィッ……!なんという重すぎる愛……!」


 オーク将軍の脳裏に、架空の巨人が、要塞という恋人に煮えたぎるマグマを無理やり飲ませている猟奇的な幻影が浮かび上がった。


 魔王軍における姿なき軍師ことカズヤの悪名は、こうしてまた一つ、伝説の階段を駆け上がっていくのであった。

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