第2話

 翌日の王都もまた、皮肉なほどの快晴だった。だが、街の空気は昨日よりもさらに張り詰めている。


 大通りを行き交う憲兵たちの顔色は悪く、広場の掲示板には『義勇兵募集』の貼り紙が増えていた。


「号外ーっ! 悲報だーっ! 聖騎士団の精鋭部隊、北の森林地帯にて消息不明ーっ!」


「勇者レオン様、至急王城へ帰還されたし!

 繰り返す、至急王城へ――!」


 少年たちの叫び声が、悲鳴のように響く。北の戦線は泥沼化しているらしい。


 聖騎士団といえば国の守護神だが、それが森で消息を絶つとは。よほどタチの悪い魔物が潜んでいるのか、あるいは魔王軍の罠か。


(……昨日の今日でこれか。ベルさん、大丈夫かな)


 俺は喧騒を背に、いつもの路地裏へと足を踏み入れた。


 心配の対象は、国の存亡ではない。昨日この公園で出会った、あの疲れ切った女性のことだ。


 彼女はその疲れ具合からして国の中枢を担っている役人のはずだ。聖騎士団が壊滅したとなれば、その事後処理や遺族への対応、あるいは作戦の見直しで、王城の文官たちは不眠不休の激務を強いられているに違いない。


 俺は懐の紙袋を確かめる。中には、約束の『クリームパン』。


 そしてもう一つ、徹夜明けの身体に効きそうな『特製ドリンク』を忍ばせてある。平和な公園が見えてきた。俺の聖域。そして、彼女との待ち合わせ場所。


「……来ていたか」


 公園の最奥。大きな樫の木の下にあるベンチに、その人影はあった。昨日と同じ、厚手のローブを目深に被った姿。だが、その様子は昨日とは明らかに違っていた。


 ぐったり、という表現では生ぬるい。ベルは、ベンチの上で液状化しているに等しかった。


 背もたれに上半身を預け、首はカクンと横に折れ、真っ白な手足が力なく垂れ下がっている。丸眼鏡は少しズレており、その奥の瞼は固く閉じられていた。


 俺は息を殺して近づき、そっとベンチの端に座った。その振動で、ベルがピクリと反応する。


「……うぅ……」


「ベルさん?生きてますか?」


「……カズヤ、か」


 彼女がゆっくりと顔を上げた瞬間、俺は息を飲んだ。彼女が酷い顔色だったからだ。


 陶器のような白い肌は青白く透き通り、目の下のクマは昨日よりも濃く、深く刻まれている。まるで数百年の時を生きたアンデッドのような生気の無さだ。


「……眠い。眠いぞ、カズヤ……」


「徹夜ですか? あれからずっと?」


「……うむ。部下どもが……うるさくてな。勝鬨を上げるのは良いが、宴会まで始めおって……一睡もできなんだ」


 宴会。なるほど。現場の兵士や騎士たちは、一度の勝利で気が大きくなって騒ぐものだ。


 中間管理職である彼女は、その監督責任を負わされ、酔っ払いの介抱までさせられたに違いない。魔王軍が迫っているというのに、現場の危機感の無さには呆れるばかりだ。


「それは災難でしたね。約束のもの、持ってきましたよ」


 俺は紙袋を開け、中から白いパンを取り出した。昨日のあんぱんとは違う、ふっくらとしたグローブのような形。『クリームパン』だ。


 ベルの虚ろな瞳が、少しだけ開いた。


「……くりーむ……ぱん……」


「そうです。今日はカスタード。卵とミルクをたっぷり使って、とろとろに炊き上げました」


「……卵と、ミルク……」


 彼女は震える手でそれを受け取ると、スローモーションのような動きで口へと運んだ。ぱくり。柔らかいパン生地と、濃厚なカスタードクリームが口の中で混ざり合う。


「…………」


 ベルの動きが止まる。やがて、その口元が微かに緩み、ほう、と熱い吐息が漏れた。


「……甘い。……そして、優しいな」


「でしょう? 疲れた脳には糖分が一番です」


「うむ……昨日の『あん』とは違う。これは……母の慈愛のようなとろける甘さじゃ」


 彼女は夢中でクリームパンを頬張り始めた。その食いっぷりは見ていて気持ちが良いが、いかんせん目が死んでいる。


 糖分だけでは足りない。今の彼女に必要なのは、強制的にシャッターをこじ開ける覚醒だ。


「ベルさん。これも飲んでください」


 俺はもう一つのアイテムを取り出した。それは、蓋付きのカップに入ったコーヒーだ。


 ベルが食べる手を止め、警戒するように鼻を鳴らした。飲み口から、湯気が立ち上っている。


「……なんだ、この黒い液体は?」


 ベルは不思議そうにカップを受け取る。


「中身はブラックコーヒー。俺の故郷では、戦う男たちの必需品です」


「戦う男の……必需品……」


「眠気覚ましの薬みたいなものです。かなり苦いですが、効きますよ」


 ベルはカップを顔に近づけ、飲み口から漂う香りを嗅いだ。深みのある、焙煎された豆の香ばしい匂い。


「……焦げた薬草のような匂いだな。毒ではないのか?」


「毒なんて入ってませんよ。国を担う人にそんなことしたって自分の首を絞めるだけですから。ほら、クリームパンの甘さが残ってるうちに流し込んで」


 ベルは意を決したように頷くと、カップに口をつけ、少しずつ啜った。熱い黒い液体が、彼女の喉を通り過ぎる。


 その瞬間だった。カッ!!と、ベルの紫色の瞳が見開かれた。


「――っ!?!?」


 彼女は激しく咳き込み、涙目で俺を睨んだ。


「に、苦い! なんだこれは、泥水か!?」


「泥水じゃないですよ。良薬口に苦しです」


「……っ、いや、待て」


 ベルは自身の胸元を抑え、荒い呼吸を繰り返した。そして、カップを持つ自分の両手をまじまじと見つめる。


「……熱い。腹の底から、何かが湧き上がってくる……」


「カフェインが効いてきましたね」


「カフェイン……? 聞いたことがない。もしや、禁呪の一種か?」


「ただの成分名ですよ。眠気が飛ぶんです」


 ベルの顔色が、劇的に改善していく。青白かった肌に紅潮が差し、死んでいた瞳に、ギラギラとした鋭い光が宿る。


 彼女は残っていたコーヒーを、今度は一気に煽った。くぅーっ、と息を吐くその姿は、仕事終わりの一杯を楽しむオッサンのようだ。


「……凄いな、これは」


 ベルは空になったカップを握りしめ、戦慄したように呟いた。


「魔力回路が……いや、全身の血管が焼き切れるほどの活性化を感じる。倦怠感が消え、思考が通常の三倍の速度で回転しているぞ」


「三倍は言い過ぎですけど、まあ淹れたてですし、香りもいいからリフレッシュになりますよね」


「カズヤ。お主、これを『戦う男の必需品』と言ったな?」


「ええ。俺も徹夜で仕事する時は、これを何杯も飲みました」


「……恐ろしい」


 ベルは心底恐ろしそうに俺を見た。


「人間とは、これほどの劇薬を常飲して戦っておるのか。ドーピングで無理やり兵士を動かすなど、悪魔の所業ではないか」


「あはは。まあ、働く人にとっては悪魔の契約みたいなもんですかね。命の前借りというか」


 ベルは「命の前借り……」と重々しく復唱し、カップを愛おしそうに撫でた。


「だが、今の余にはこれが必要だ。礼を言うぞ、カズヤ。この『こーひー』と言う『黒く苦い水』が気に入った」


 彼女の纏う空気が変わった。先ほどまでの死に体ではない。周囲の空間がビリビリと震えるほどの、圧倒的なプレッシャーを感じる。


 カフェイン一杯でここまで回復するとは、よほど素直な体質らしい。


「元気が出たなら良かったです。……また現場に戻るんですか?」


「うむ。懸案事項が片付いていないのでな」


 ベルは立ち上がり、王城の方角ではなく、北の空を睨みつけた。その視線は鋭く、冷徹だ。仕事モードに入った彼女は、やっぱり出来る女という感じがする。


「そういえば、昨日の湧いてくる白い奴らの話ですけど」


「……ああ、北の森に潜む白い奴らか」


「ええ。もし巣が森の中にあって、手が出しにくいなら……『燻(いぶ)し出し』がいいかもしれませんよ」


「燻し出し?」


「煙攻めです。風上から煙を送って、苦しくて出てきたところを叩く。あるいは巣穴に熱湯……いや、熱風を送り込むとか」


 俺が害虫駆除の一般的な知識を披露すると、ベルは眼鏡の奥の瞳を細めた。数秒の沈黙の後、彼女の口元に凶悪な笑みが浮かぶ。


「……煙攻め、か。森ごと焼くのではなく、炙り出す」


「ええ。その方が効率的ですし、森の環境も守れますから」


「クク……効率的。実に甘美な響きだ。お主の策、採用させてもらおう」


「策だなんて大袈裟な。お婆ちゃんの知恵袋みたいなもんですよ」


「お主の祖母は、稀代の軍略家であったようだな」


 ベルはローブを翻した。その背中には、もはや疲労の色は微塵もない。彼女は振り返り、空になったカップを掲げて見せた。


「カズヤ。次もこの『黒い水』を頼めるか?」


「ええ、もちろん。次は砂糖とミルク入りの甘いのもありますよ。『カフェオレ』って言うんですけど」


「ほう……甘い毒か。それも興味深い。ではな」


 彼女の姿が、陽炎のように揺らぎ、消えた。後に残されたのは、微かなコーヒーの香りと、彼女が座っていたベンチの温もりだけ。


 俺は鳩たちに残りのパン耳をやりながら、ぼんやりと考えた。少しは役に立てただろうか。彼女のアドバイス通りに害虫駆除が上手くいって、彼女の残業が減ればいいのだが。


 ◆


「魔王様! 北の森より入電! 聖騎士団、壊滅しました! 生存者ゼロ。我が軍の被害は軽微。完全勝利であります!」


 魔王城、作戦司令室。巨大なモニター水晶に映し出される、赤黒く染まった北の森の映像。


 報告に沸き立つ参謀たちを見下ろしながら、ベルは玉座で優雅に足を組んでいた。その手には、先ほどのカップが握られている。


「……ふん。他愛もない」


 ベルの声には、いつもの気怠さはない。瞳は爛々と輝き、溢れ出る魔力は城全体を振動させるほどに昂ぶっている。


 カフェインによる覚醒状態は、魔族の肉体において恐るべき相乗効果を生んでいたのだ。


「魔王様、此度の『毒霧燻し出し作戦』……まさに神算鬼謀。これほど鮮やかに決まるとは」


 側近のオーク将軍が、畏怖の念を込めて頭を下げる。


「森を焼けば逃げ道を作ることになる。だが、逃げ場のない毒霧で追い詰め、パニックに陥ったところを狩る……なんと慈悲のない、完璧な作戦でしょうか」


 ベルは紙カップの蓋を、鋭い爪でカチカチと弾いた。


「余の策ではない。……友の助言だ」


「友……? 魔王様に、そのような参謀がいらっしゃったとは」


「うむ。……『黒い秘薬』を操り、甘い毒を盛る、恐ろしい男よ」


 ベルは口元を三日月のように歪め、カップの飲み口に口づけを落とした。


「カフェイン……人間ごときが、これほどの魔薬を開発していたとはな。侮れぬ」


 彼女の中でのカズヤの評価が、「癒やしの存在」から「危険な知識を持つマッドサイエンティスト」へと、奇妙な方向へ歪み始めていることに、当のカズヤは気づくはずもない。


「次は何を持ってくる……? 甘い黒い水か……クク、楽しみで震えが止まらんわ」


 それはカフェインの過剰摂取による武者震いだったが、部下たちは「魔王様が次なる虐殺を楽しみにしている」と勘違いし、恐怖と忠誠を新たにするのであった。

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